例えば、タイやヴェトナムの農家の発明によると言われる「アイガモ農法」、水田に合鴨をはなしての無農薬農法。鴨が害虫を食べ、水田を泳ぎ回る事で、稲を刺激して発育を促す、と言う一挙両得の農法だ。タイやヴェトナムでは、とうの昔から始まっている。
全体を観る視力と少しの工夫、あとは、成りゆきに任せる、自然に任せる。レティット ビー、まるで老子の説く「タオイズム」のような新鮮でスマートなアイディアだ。ポール・マッカートニーもその助けの一翼を担っている。自然に沿った人の行為や行動を基盤にした自然な生、その在り方や姿勢(アティチュード)の事をも強調している。世界中に広まっていくだろう。新しいものが,次々と産まれてくるだろう。

人は、日常性を生きている。それは、千差万別、複雑怪奇だ。人は、一人一人、皆それぞれ違うし、定義不能だし、一言では言えない。例え一人の人間であっても、一つの物差しでは、はかれないものが沢山ある。しかも、人生とは、中々、思う通りにはならないものだ。ストレスや疲労はそのギャップから生じてくる。その日常性からの疲労やマンネリズム、ストレスを、非日常性の中に解き放つ事、普通、それを、リクレーション(再生)、ホリデイという。 例えば、ストレスが堪ったり、怒りや不満、憎しみが現れてきたらどうするだろう? 多くの人は、理性で押さえつつも、その事に巻き込まれて、理性的になればなる程、その事自体が抑圧となって、かえって事態を悪化させてしまう事もある。それが習慣的になると、物事を否定的に見る様になってしまう。悪循環が始まってしまう。ニュートラルな部分、間合い、ゆとりがなくなってしまう。
その事が世界全体を重苦しくしている。閉塞感は、ここから生じてくる。
ストレスが“溜まる”という事は、言葉を変えると
変換する力がない、という事だ。コンヴァースの運動靴でも履いて、一寸走って来るといいかもしれない。
何処かに、無理があるのだ。何事も進まなくなってしまう。
“生は、大きな一つの有機体”と考えると良い。
“生”全体を“カミ”といっても良い。我々は既にその中に居る。
そこに繋がっている限り、気分も健康もそして心も維持できる。
私性が消える時,カミは生じ,私性がある時,カミは消えてしまう。
まるで、かくれんぼの様だ。
“生と言う有機体”そのものは、実際、直に触れては居ても、形も無く、眼には見えないから、誰も意識していないが、それは自分等よりもずっと大きな存在である。
焦点を変えると,ゲシュタルト、一つ一つの要素の総和以上の全体が、観えて来る。
本来、そこには何の分割もない。分割,分析は人の勝手な認識法だが、実際には、あらゆるものが一体となっている。
マインドの特徴として,分割、分類、分析が押し付けられて、それが習慣性,思考に伴っている。本来の生の自然な姿が見えないのは、言葉やマインド,部分的、表面的な形に”囚われている”からなのかも知れない。生とは、額の上に眼鏡をかけていながら、その眼鏡を一生懸命探している様なものかもしれない。
ローカルな汽車の旅というのも悪くはない。今日は,汽車の旅を楽しんでみよう。
緩やかに揺れる鈍行列車,それにゆったりと心身を委ねると,風の音、窓の外の流れる風景がメロディーとハーモニーとなり、レールの継ぎ目の音が、ガッタン、ゴットンとリズムとなって,心地よくなってしまう。面倒な事はどうでも良くなってしまう。
何か,何でもかんでも“速い”のが流行のようで、東京と新大阪を、何と二時間台で繋ぐと言う、超高速の日本の新幹線は、やはり“凄い”。中国で,今、評判の“上海リネア”も、時速400km以上で走ると言う。なんか物凄そうだし、海抜5000m以上のチベット高地を走る“西蔵鉄道”も凄い。
インドにも“新幹線”を国中に開通させる、と言う計画があるそうだ。
最近の日本では,列車に依っては,“スイート”というデラックスなホテルの様なもの迄出現してきた、と聞いている。又、マレーシア経由、バンコックとシンガポールを3日か4日かけて、ゆったりと時間をかけて繋ぐ、高価でゴージャスな、名前はエクスプレスだが、決して速くはない“オリエンタル・エックスプレス”も“素晴らしい”。
“オリエンタル.スロー.トレイン”だ。
又、昔の話になってしまうのだが,良くロンドンからフランスを通って、イタリアまで列車を使ったのを思い出す。それを“オリエンタル・エクスプレス”、と呼んだ。ロンドンから、パリを通って、イタリアを抜け、トルコのイスタンブール迄行くからだ。時には,車を列車の後部に一緒にのせて、何度も往復したが,長距離故に、いつも二等の寝台車であった。
最近ご無沙汰なので判らないが、恐らく今ではユーゴスラヴィアが通れないので,もう走ってはいないだろう。
又、インドのニュー・デリーから、タジ•マハールで有名なアグラ経由で、ラジャスターンのピンク•シティー、ジャイプールを結ぶ,特別誂えの“マハラジャ列車”も、速くはないが豪華で素晴らしい。
又、最近では、“デカン•オデッセイ”という、ムンバイから、南に向かい、ゴアを通って、オーランガバード、エローラ、アジャンタを通り、ぐるっと、デカン高原を一周して再びムンバイに戻って来るという、ロマン溢れる旅も出来たらしい。地域的にも,文化的にも,民族的にも、色彩的にも鮮やかで、最も興味深い夢のある地域、を走り続けている。
いつの事やら未だ不明だが、何れ、このマレー半島を走る、“豪華な列車”,オリエンタル.エクスプレスは,タイの“バンコック”から北に、古都アユタヤ経由、“古都スコタイ”迄延ばそう、という計画があるそうな。
忙しく飛び回っている人や、好きでそうしていたい人には、飛行機や急行や特急がいいだろうし、インドやアメリカ、ロシア、オーストラリアや中国の様に、国土の大きな国では、汽車で東西南北と大陸を横切るには、3日も4日も5日もかかる所があり、寝台車が必然となって来る。
バンコックを中心に、マレー半島を南下したり、北上してチェンマイに向かうのもいい。シンガポールから、ラオス、カンボジアの方面にいくのも、長くても2日半か3日くらいで着いてしまう。
普段は、一等車、二等エアコンと迄は言わなくとも、最も暑い時期は別にして、エアコンなしでもぐっすり眠れる“夜行のノンエアコンの二等寝台”というのがグッドだが、昼間、“旅を楽しむ”と言う本来の楽しみには、“鈍行の三等車”というのもいい。
値段が安いのがエコノミー。
これより値段の安い乗り物というものは、徒歩か自転車以外にはない。
“諺”と言う訳ではないだろうが、インド人に聞いた事がある。
それは、“一等、二等には金が乗る、三等には人が乗る” と言う。
何れは“諺”になっていくかも知れない。
鈍行の3等列車と言うのは、時間はかかるが、時間がたっぷりあれば、何れ、何時かには、目的地に着けば良いのだ。座れさえすれば、値段も安いし、気分もイージーになれる。しかも車両は木造だ。あちこち,歪んでいる所も在る。昔のままだ。まるでタイムマシーンに乗ってやって来たみたいだ。その事自体が寛ぎとなって来るからだ。嬉しくなってしまう。
様々な人が乗って来る。タイ、マレーシア、ラオス、ミャンマー、欧米人、中国人、インド人。どうも、日本人は、余り三等車には乗らないみたいだ。余り出会った事がない。安い上に、面白いのに、もったいない!
皆、思い思いの旅のスタイルで,旅を楽しみにやって来る。幸い列車は空いていた。二等にのる必要もなかった。目的地に行くのは無論だが、人はそのプロセスを楽しむのだ。
ここを先途とばかりに、美味そうなお菓子やフルーツ、食べ物を沢山持ち込んで、周りの人に配って、おしゃべりを始める、何処にでも居そうな、人の良い田舎の叔母ちゃん。
時には、何頭かのヤギや何羽かの鶏を縄で繋ぎ、わさわさと汽車に乗り込んでくるおっさんもいる。
一昔前迄は、インド等では、無論三等だが、通路に携帯コンロを出して、炭火をおこし、通路で料理をつくり出す人もいたくらいだ。
しかも、ノー•プロブレム、マイ・ペン・ラーイ。無問題(モーマンタイ)だった。欧米や日本の列車なら,たたき出されるかも知れないが、ここはアジアなのだ。
席が一杯の時には、網棚にさえ横になって寝てしまう。
深夜になれば、通路に寝るのは当然のこと。
最近は、車内が禁煙になってしまったので、これもエコロジーの一環だと思うのだが、どの客車も禁煙になってしまった。そこで、客車と客車を繋ぐ、トイレや洗面所があるジョイント部分の踊り場が、喫煙室になる。多い時には,狭い所に,十人くらい集まってしまう。
車内販売の珈琲屋や弁当屋も、何処かのお嬢様,奥様、臍だしネーチャン、入れ墨の兄ちゃんや,麻のスーツ姿のスマートな紳士、モヒカン,弁髪の欧米人迄、ありとあらゆる人達が、ここにきて一服しながら、一杯30円程の“美味い”コーヒーを楽しむ。所謂,タイコーヒーと言われるものの特徴は,黒いコーヒーの下に、白く層となって淀んでいるアメリカ•ブランドの甘いコンデンスミルクをいれる事にある。濃く、甘く,苦くて,そして美味い! 日本でなら,ひどいコーヒーと言われそうだが,状況次第では美味い。
たまに煙草を吸いに出たり、コーヒーを飲んだり、ヘッドホーンで音楽を聴いたり、本を読んだり、外の景色を静かに楽しんでるストーンなタイ人のおじさん。前のシートに座っている。私が好きで、いつも摘んでいるショウガ入りのイギリスのビスケットを勧めると、五枚も持っていってしまった。“ショウガない”。美味いものは、皆良く知っているね。
素晴らしいストーン(石)を首に下げていた。珍しい模様と色をした“瑪瑙”だった。白とグレイの縞模様のトウートーン。見事なものだった。只の瑪瑙でも,モノに依っては、宝石以上に高価なものにもなってくる。価値感が少し変わりつつあるのだ。“石”の話で、つい時の流れを忘れてしまう。石というものは,何か不思議な力を持っている。
当然な事かもしれないが、私を含めて、チベット、インドやタイ、ラオス、中国、ネイティブ.アメリカンや、白人なら、アメリカ人、イギリス人、フランス人の中には石好きな人が多い。
石とは触媒だ。石を知る人達は、石を通じて、次元の転換、異次元のコミュニュケーションが取れるからなのだ。
そこに来ると、宝石だからといって、力がある、とは言い切れない。
要は、時分の深い意識レベルにフィットするか? 姿、形、色合いに囚われずに、波動の声を聴く事が出来るか? そして自分の生活に有効利用できるかどうか? がポイントになって来る。
最近一つ、いい石に出会っている。力は斬新で、マイルドでもあるのだが、これからが一寸愉しみが増えて来る。何か新鮮さを感じてしまう。
夢中になって、小さな聲で囁きあう、若い、お熱いイスラムのカップル。
泣きわめく赤ん坊をあやす,若いお母さん。
車内と言わず、ホームの上にも、駅弁やお茶やコーヒー、タバコを売りに来る。
日本の駅弁の様に1,000円とか、1,500円とか言う“立派なもの”はないし、インドの様に“美味しいチャイ”や“木の葉に包んだ美味いカレー料理”もないが、それでもローカル色豊かなもの、粽(ちまき)、餅米、バナナ、リンゴ、パパイアにマンゴー、それに、串に刺したシャモ(闘鶏の肉)の炙り焼き(“シャモ”という言葉のルーツはタイ国の古い呼び名“シャム”、“サイアム”にあるそうな。)、本場故にさすがに旨い。皮が特に旨い。ハジャイ駅で売っていのタンドリ・チキンはうまい。
炙った焼き魚、ナマズに雷魚、するめ、コーヒーや緑茶に、ビールやコーラや水もある。
目玉焼きと、ひき肉のキーマカレーをご飯の上に載せた弁当もある。
これが安くて、意外と美味い。100円位だ。
売りものは、地域によってそれぞれ異なるのだが、ヒンドウー、仏教、イスラムを問わず、東洋ならではの文化なのだと思う。
日本の鯛飯、アサリや穴子の深川飯、浜松のうなぎ弁当、下関のフグ飯の駅弁が懐かしい。横浜の焼売もいいねえ。
欧米の列車には、駅弁等を売りにはこない。
売店か、自分でパニーノか、サンドイッチ、パン、生ハム、飲み物を用意するか、急行だったら、食堂車にいく他はない。地域の名産も関係ない。
時間やお金にゆとりがあれば、出来うる限り、バイクがあればバイクで、車があれば車で、或は汽車やバスや船で、或は、家に居ても、大地や海に触れつつ、未知を旅していたいものだ。
さすがに、始発や終着駅の駅は立派な建造物だし風格もある。
バンコックの中央駅、“ホァランポーン”という始発、終着駅は、何か鉄道旅行の元祖の“象徴”としての、ロンドンや嘗てのボンベイの“ヴィクトリア・ステーション”、ミラノの“中央駅(スタツイオーネ・チェントラーレ)”、ローマの“テルミニ”の姿にも似て、ガラスを張った蒲鉾屋根のクラシックな雰囲気も似ている。
だが、ローカルな駅にも魅力は在る。
その駅のある地域の“顔”となっているのが“駅”だからだ。
地方に行けば,行く程、時間の流れがゆっくりなので、何から何迄、じっくり見る事が出来る。
幸い、せき立てられるている様な,忙しさという様な事はない。
伝統的なアジアのスローフードにスローライフが楽しめる。
スロートレインなら尚更だ。
最近は、少し様子が変わってしまったし、バスもそうなのだが、予め一寸、声をかけておけば、最悪、少々遅れても,車掌さんは待っていてくれた。
だから、少し長く止まる時には,一寸、駅の外に出て、名物の“そば”でも“おかゆ”でも食ってくる事も可能だ。
ローカルな、普段着の姿に溶け込むだけでも、その新鮮さに楽しくなってくる。
人の歩く様、働く様子、寛ぐ様子、おしゃべりに熱中する女性達、スナックやフルーツを食べる様子。犬や猫達の、何事もない素直で平和な様子。
田舎風のマーケットの華やぎ、街角に香るエスニックでうまそうな料理の匂い。
タイとマレーシアの国境近くになると、仏教,ヒンドウー界とイスラム界とがオーヴァーラップして来る。タイにもイスラム教徒は少なくない。
やがて世界の三分の一は、イスラムになっていくだろう。
人々の姿形も変わって来るし、国籍は兎も角、人種的、民族的に、インド系、マレー系、インドネシア、西欧、ポリネシア系、中国系、モンゴロイド系と入り交じって来る。
いつもじっとしている人ならば、時には、手足を延ばして、羽を広げたいであろう。見なれた風景を変えてみたいだろうし、行きたい所も体験したい事もあるだろう。思い切り、心に残ったわだかまりを、解き放ちたいのである。
いつも忙しい人ならば、窓を開け放ち(三等車にはエアコンはない)、自然のそよ風に吹かれて、のんびりとしたいだろう。
汽車は街を離れると、ゴムの林、椰子の林、ジャングル、田や畑と眼に見えるものは、全て緑色になって来る。麻雀でいえば、緑一色(リューイーソー)。
汽車に乗ったままの、森林浴が楽しめる。風の薫りが素晴らしい!
或は、遠くに行くばかりではなく、近くに、美味しいものを食べにいくのもいい。空いた道を見つけて、ワインディングロードをドライヴするのもいい。レンタカーでもバイクでもいい。
誰しも、その人なりの“非日常性”が必要なのだ。間合いが日t賞なのだ。その事が生活にリズムを与える。
床屋や美容院に行ったり、温泉やサウナに行くのもいい。
タイだったら,クラビやチェンマイにも温泉がある。
それに、温泉ではないが、ラオスには薬草サウナも在る。これが中々いい(前記事「薬草スチーム・サウナ」参照)。ヒンドウーや仏教のエッセンスに溢れたタイやインドのマッサージも素晴らしい。又、そんな気分に浸るだけでも、ほんの一寸した気晴らしでも、ホリデイ効果は生じて来る。要は気分の問題だ。
生という無形の有機体と一つになる。
禅では、その事を無になると言う。だから、無程、現実的な事はない.
その合間に、もや事が、起こって来ると考えた方が普通に思えて来る。
そこには,本来、何の分割もない。何の形もない。意識のありようがあるだけなのだ。
全ての生命が一つに結ばれている事が,森羅万象の繋がりが実感できたら,敵も味方もない。鎧は必要ない。それが普通だと思う。
勝ち負けに関わらず,今、起こっている事をより容易に起こリ易くするようにすれば善いだけだ。素直になれば、生とは,本来、実に簡単な事なのだ。
生を、難しく、厄介で、面倒なものに、あらぬ方向に変えてしまっているのは、根本的には、人間のエゴなのだ。人は難しい事、困難な事に挑戦したがる。
若いうちは、それも”学び”として、”体験”として大切な事なのだし、苦労も挑戦もなかったら、生の深みや旨味に到達する事はない。
矛盾している様だが、深みを知れば、本来は、素直に、“易しい事は正しい”のだ、と思えてくる。
視力がついてくれば、この世を動かしている原理のようなもの、タオが、いかなる所にも見いだせる様になるものだ。それを所有する事はないが、善も悪も、正も反も、生も死も、全てはそれに従っている。その偉大さは,ごく自然な当たり前の理解、普遍性(ユニヴァーサル)に在り、いのちの海の如く、全てを包み込む。その”普遍性に通じている事”を,本来、“普通”と言うのだそうだ。 この世は、まるで「普通という名の魔法」(オーディナリー・マジック)のようである。あの世の事は判らないが、本物の「普通」であれば、この世は素晴らしい!
Or in love with life.
眼に見えないものを、生の基盤においている人は、それを知っている。物事が如何に起こるのかを知り、二元性の相互作用、相互依存を知り、一方に偏せず、事態に調和し、故に、創造性を知っている。生きるとはどういう事か、を知っている。心のエコロジーの基盤も、その辺りにあるようだ。
May everything gonna be alright !