2008年3月29日土曜日

“知る”という愉しみ

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体。シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)、ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。それらを、自由に使えるのだ。
 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。


 タントラの一節に次の様なのがある。シヴァ曰く、

“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する”

 “知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



              

                  







“知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



              

                  














                 
           “知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



              
“知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



              
“知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



 “知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



“知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。

 それは、根源的な“知る能力”の源だ。
そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。
腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。
私にとっては、普通でいられる。
頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。
集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。

 例え、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。
少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。
そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。

 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。
リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。
だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。
だが、今はズットいい時代になりつつある。
ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。
“これ”こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。
これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。
取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。
無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。
その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。
動と静の要なのだ。
旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。
そして、今、ここに”これ”がある。

             百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。
今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか?
ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。
あとは好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。
又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。
基本を押さえておけば、色々応用が利く。
要はスープパスタという事だ。(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,詰まりパスタの一種なのだ。)

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。
例え、寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。

        

 



       “知る”という愉しみ。

 人が、何かを知る時、“知る”という“機能”を通じて、知る事になる。
この“知る”と言う“現象”は、丁度、“知られるもの”と“知るもの”とを繋ぐ“橋”の様なものだ。
普段内下なく使っている,この機能、“知”は、“知ると言う事、知られるもの、知るもの”、と言う、質の異なる“三つの要素”で成り立っている事になる。それは三位一体.シヴァ神のトリシュール(三叉の矛)
ヒンドウー教の、“三位一体”(トリニティー、ブラフマ、シヴァ、ヴィシュヌの三神)にも通ずるのだ。

 “知”(知る、という事)は本来、誰しもが持つ“内なる資源”だ。
誰もが何気なく使っている。だがその機能性は素晴らしい。
物事や他人の事を知るには“知性”が必要だが、自己を知るには、“知恵”がいる。
それらを、自由に使えるのだ。

 今日は,何かを“知る”という事,何らかの、知る対象や、知識ではなく,“知るという事、知る行為、そのもの”に、焦点を合わせてみたい。
 
 タントラの一節に次の様なのがある。
シヴァ曰く、
“知る事を通じて,個々のものは知覚される。知る事を通じて,自己は空間の中に輝く。在るものを『知るもの』と『知られるもの』として知覚する。”
“知る事”、”知”のタントラである。

 “知る”と言う事をたどってみると、知る事の中には、見る事、聴く事、感じる事、味わう事、薫りと色々とある。それは知性、感性と五元素の働きだ。
又、五元素の他に第六感、直感力というのも在る。さらにその上には、覚りや光明があり、サワスラーラがある。そして、全宇宙と一体に成れる。
人の意識構造はそのようになっている。

 “知る”という事は、無意識の内にも、老若男女を問わず、それなしで“生”は、成り立たないばかりではなく、知る事を深めれば、生きる上での大いなる愉しみとなる。人生の味わいや深みを増す,と言う事だ。
だが、何事にも当てはまるのだが、既成概念に囚われていたら,本物は観えて来ない。

人は、それが何であれ、無意識のうちにも、“知りたい”、”知ろうとする”という生き物なのだ。それは死ぬ迄ついて来る。

 “知らぬが仏”とは良く言ったもので、人は興味のない事や、知りたくもない事や、他人のプライバシー、或はどうでもいい事、余計な事等は知りたくもないし、知らない方がよい、という事も少なくないが、問題が何も無く、他に迷惑もかけず、しかも興味のあることなら、しかも探求となれば、知れば知る程、面白くなって来る。
同時に、自分と言う“キャパシティー”や“深み”も、宇宙のように、ひろがってくる。人は知性、感性を通して物事を知ろうとする。普段、使い慣れたやり方で知る。無意識の内にも、何となく、誰でもそうやっている
その習慣から「知性は単に“精神の要素の一つ”に過ぎない」、と言う事をつい “忘れがち”になる。

 ”観る”、”観照”という技法は、人が内側に深く入って行き,只,観るものも、観られるものが何もなく、我も汝も無く、”観る事”だけがある、という地点に到った時、それには長い訓練が必要だが、知りうる事は何もない。
ただ、”純粋な意識”だけがある事”、を知る。表層的な事は、頭で様は足りが、深みに行けば、意識に関わって来る。
知るという事は一瞬だが,そのプロセスは,以外と複雑なものだ。

 論理的には,そして言語的には、知るものを知る、即ち”自己知”は不可能となってくる。知るもの自体を知る、という事は、物理的には不可能である。
論理や言語が成り立つのは,二元性に於いてのみだ。対象が在って成り立つのだ。不二の次元に入ってしまったら、何も語れない。
全ては一つ,我も汝もない。
だが面白い事に,一見、実用性のない不二の次元の御蔭で,二元性も生きて来る。そこが面白い所だ。

 普通、人は知的に何かを知ると,“知った”と思い込んでしまう。
ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)では、それを“無明”と言う。
無意識の内に、自らが心そのものだと錯覚してしまう事、がよく起こっている。
その事から様々な問題が生じてしまう。
知性は、単に心の中で”思考”を創りだしている、に過ぎない。
それらは“思い込み”であって、必ずしもリアルな現実ではないのだが、普通の世界は、それで成り立っている。だから不満も矛盾も多いのだ。

 法蔵(華厳経の大成者)曰く、
“唯、妄念に依って差別あり、妄念を離るれば、唯、一真如なり。”
経験的意識、表層意識の働き故に、事物の分析、分節が起きるのだと言う。
禅に於いては、“心、若し異ならざれば、万法一如なり。”と同じ意見である。
心路窮めて……….心路絶す。 無心。

 人のマインドには、明るい面も暗い面も在る。
普通,誰しもが、好ましい面には問題を感じない。楽しんでいる。
だが,問題は,反対の面が現れて来るときだ。そうなると,リアリティーは分裂して引き裂かれてしまう。それはマインドの特徴だ。
だがマインドが、人の本性ではない事が判ると、自分がマインドを使うものであって、マインドに同化していなければ、問題はない上手く使う工夫が居るが、それが出来れば、正常で健康だ。

 “無心“は禅に於ける、慣用句の様になってしまっているが、字義通りの無心という事ではない。無心程、豊かなものはない。しかも、ただだ。
頭を空っぽにする事は無論だが、心の基底、心底、本来の根源的な心そのもの、意識、存在との究極的接点、真の心に目覚める、と言った方が良い。
意識の基盤だけがあって,思考のない状態のことを言う。
日常的な、煩雑な心、周辺部と区別して、無心と言う言葉を使っている。
これをマスタ−するだけでも素晴らしい。世界が変わる。

 ”一瞬”とは、常に"今”という、無形のかたちをとって現れて来る。
この微妙な”今”、純粋な時間は、今、ここにある。

 刹那、一瞬とは常に今だ。過去も未来もない。過去とは記憶,未来とは想像でしかない。リアルではない。
今だけが,無限と繋がっている。
無心とは、只,深く,無我で(我もあなたもない状況)、ピュアーな状態である。周辺部は、すでに、彼方に遠ざかっている。そしてここは宇宙の中心だ。
静かになって、心底を窮めれば、そして意識と繋がれば、そこに新たな世界、新たな見え方を知る事にもなってくる。
 
 普通,人が、何かを“知る”という事は、ほぼ、対象のみに集約されている。無論、自己知は意識されていない。
よくよく気付けば、知るという事は,知性は、常に,疑い,疑念に立脚している。疑念とは、正しいか,正しくないか。是か非か、美しいか醜いか。奇麗か汚いか、善か悪かの二元論である。両方では意味をなさなくなってしまう。
その判断を下すのが,マインドである。それがマインドの仕事なのだ。
だが二元性の中では、どう足掻いても,努力しても、どう闘っても,“一つ”に至る事はない。二者択一、必ず、どちらかの対象を選択する事が生じてしまう。

 例えば、言語,それは常に一つの選択だ。選択には,自ずと排除が伴っている。言葉を話すのも,考えるのも,文章を書くのも,詩は別にして、分割、論理、選択、排除だ。言語の性質上、生の全体を言い表せないのだ。
洞察がなければ、あらゆる文化、文明は一面的になってくる。
それだけでは、人は部分的で、偏って断片的になってしまう。
社会も断片的に成ってしまう。何らかの補佐が,洞察力が、どうしても必要になって来る。

 だが、言葉なしには,文明も文化も、政治も経済も、人生もヘチマもない。
言葉なしでは何事も成り立たない。
言葉にとって重要なのは,行間、無音のニュアンスなのだ。
間合いの力,と理解力なのだ。
其れが言葉の不完全さを補佐している。
そこに矛盾があり、ギャップがあり、それ故に、超越も起こる。
又、そこが面白い所だ。

 多くの人は、潜在意識に於いて、心底では“一如”になりたい、といわれる。
潜在的にも、意識、存在と繋がりたいのだ。
無意識の内にも、人はディープな秘密を知りたがる。
それが実現できないのは、そうとは知らずに、自らを閉ざしているからなのだ。自分の知らない自分の秘密。自己知。

 “自分という山を越えない限り、道は観えて来ない”、と言われるのも、そこに源があるからだ。
視力さえあれば、道は目の前に、そして、眼の背後に在る、と言う。

 “知る”という行為は、場合に依っては、喜びにも、楽しみにも、はたまた、怒り、悲しみ、憎しみや苦しみ、不安にもなって来る。
だが”’知るという事自体”は,ただ、知る、という事であって,善くも悪くもない。良いとか、悪いとか言うのは,習慣的な、人の判断。状況次第だ。
ごっちゃにしない事だ。
自然の動植物でも、虫でも、バクテリアでも、元々持って生まれて来ている。
視力,知覚,感覚、嗅覚、聴力、触覚、運動能力、人間以上の機能を持っている生物も少なくない。
人間が優れているのは,直立猿人以来の、直立歩行故の,手先の器用さかも知れない。
両手を使う事、そこから頭脳の一部,在る面が、特別、発達して来た。
何かを“知りたい”という欲望は,動物でも植物でも、生物の基本的、根源的な本能の一つだ。それなくして、生は生きられないからだ。
あらゆる夢、願望、文明、文化、宗教、科学、学問、哲学もそこから産まれてきたのだ。

 何であれ,対立する二つのものを、両方,同時に意識するのは難しい。
それは、現実的に、“互いに矛盾する対立物が共存している状態”である。
ところが、人の平常の表層意識はそれを受け入れたがらない、という性質がある。
普通,知ると言う事は、一方向に向かうのが習慣になってしまっているからだ。
それを、現代では“ストレート思考”と言う。
直線的な、自我中心の思考であるが、自我を一寸、脇に於いておく事が出来ないものは,結果として、必然的に深い孤立感、精神的な飢餓状態に襲われる事になる。自然の成り行きとして、嫌が上にも、“敵意在る宇宙に囲まれている”,という孤立感を強めてしまう。

 ストレートに対象に向かえば,知る事、知るものを忘れ,知るもの、自分に注意すれば,知られるもの、対象は忘れられてしまう。
ところが、瞑想を通じて、平常とは違う現実に入ると、“対立した物事と自分との関係が変化する”という事に気がつく。小の気付き程,エキサイティングに満ちた歓びはない。
たまたま,子供の頃それを見つけたときの歓びと感動は,今でも忘れられない。
視点も変わり、生の意味が全く異なって来る。道が観えて来る。
自分と言う”枠組み”から自由になれる。さすれば,自分という機能,宇宙をを使う事も可能となる。

 もし,自分の中に、“知られるもの”、対象と同時に、“知るもの”である一点を見つけたら、そして、その両者に留意すると、そこに、“知る事”を通じて“超越”が起こって来る。一つの現実を、複数の位相の現れとして、同時に体験できる、という事にも気がつく。意識は広がり、両翼を延ばす事が出来る。

 これは、現代では、ストレート思考に対して、“ストーンド思考”(ストーン意識)といい、古くはシヴァ神、ブッダ、禅やタントラ,ゾクチェン、タオのマスターといった先達達に開発された次元、本来の“世界”そのもの、源である。
この体験は、実に有効で、様々なストレートな観念を洗い流し、それによって、多くの問題を解決する。特に、欧米で、殊更、仏教やタントラが、知的興味の対象になっているのには、ここに原点があるからなのだ。

 瞑想とは、最初のうちは、まるで“かくれんぼ”のようだ。
それは簡単に言うと、無努力の事だからだ。人は、習慣的に、努力する事で、台無しにしてしまう。
だが、やがて、コツが解り、舞いが判り、自分が“知るもの”と、“知られるもの”との中間、等距離にある瞬間が起こって来る。

 “菜の花や、月は東に、日は西に”

 例えば、料理について説明すると解り易い。
極端な話だが、只、ストレートに甘いだけ、辛いだけ、酸っぱいだけの料理は、料理とはいえず、第一、美味くはないと思う。
砂糖や塩や唐辛子や酢だけ、舐めても、単に“性格がきつい”だけで,ちっとも美味くはない。塩もドレッシングなしで,サラダは旨くない。
旨味とは、素材の味、反作用、広がり、深み、そして調和だ。
アジアの美味さ、とは宇宙的なのだ。
例えば、スイカの旨味や甘みを引っ張りだすのに塩をつかう。カレーやラーメンの隠し味に、砂糖を使う。
旨味の為に隠し味を使うのだ。反作用を利用する。対極を上手く使うのだ。
相撲や格闘技、スポーツでも良く使われるテクニックである。
この事は誰でも知っている。様々な事に利用されている、インナーサイエンス、ダルマ(法則)なのだ。

 見る事に関しては、例えば、花を見る。
暫く無心で、花、対象を見る。最初は、観念や知識をも鋳込まずに、静かな場所で、注意深くあることだ。花の名前や分類や分析、知識を持ち込まない事だ。
花に注意を向けると、そして注意が全面的ならば、世界は消える。
世界は花となる。集中が起こって来ると、花だけが在る。
花が全世界となってくる。
そうなって,初めて内的宇宙に降りて来る事が出来る。
花が転回点となってくるのだ。今度は、花が、見るもの、観照者を見る、嘗て、見ていたものが、今度は花に見られている。
すると、そこに反転が起こり、不思議な知覚,感覚が起こって来る。

 “人、花を見る、そして、花、人を見る”。

 ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)に依ると、“明知(ヴィディア)”と呼ばれる知識には、自由が内包されている、と言う。
無論、それは仏教やゾクチェンにも伝わっている。
それを知ったものは、即座に解放される(モクシャ、解脱)と言う。
“自由を持たない知識は、真の知識ではない”、とさえ言う。

 具体的で、科学的な知識、真の知識ではない知識や情報を無数に私達は知っている。世間はそれに溢れている。
普段、ストレート思考や常識に、物質次元に浸かって、慣らされているからだ。
だが、若し、それだけしか知らないとしたら、ウパニシャッドでは、無明(アヴィディア)、と言う。
それは、“人を無知なままにしておく”、と言う意味である。
価値観が固定化してしまうからだ。

 無明は、人に“知っている”と言う“幻想を抱かせるだけ”なのだ、という。
何も起こらない。全ては死んだままの様である。
詰まり、対象、科学的な知識、他者についての知識、これらは、無明(アヴィディア)という事になり、明知(ヴィディア)は、知、知る事、自己に就いての知識(そして「変容」、「自由」という意味もある)という事になる。

 “明知”(ヴィディア)は、少しばかり遠くへ引っ張っていくものや、コンビニの様に、“イージーで安直で便利なものではない”。だが、明知は、“唯一、高い次元に引き上げるもの” だと言う。
極端だが、“無明は水平思考、明知は垂直思考と見る”と解り易いと思う。

 明知は、変容をもたらし、次元に変化をもたらすもの、と言われる。実は理解力を広げるという意味である。
人が人である以上、無明も、明知も、物質も反物質も、両方、理解しておきたい。無明にも、明知にも、それぞれの果実は実るのだから。
瞑想者なら、両方味わってみたいと思う、のが当然だ。片方だけではバランスが悪くなる.中道が侵されてしまうことになる。どちらかだけだと、必ず、壁にぶち当たる事になる。
インドでは、その両方を知って一人前。そこで、始めて“知者”、”覚者“と呼ばれる様になるからだ。

 最近では、“ディナジー”(Dinergy)と言うそうだが、ギリシャ語のdia(超越)と、英語のenergy(エナジー)との合成で出来た新語で、“超越的なエネルギー”の事だ。だがディナジーは、不自然なものではない。超越すら,超自然ですら自然の一部だ。ディナジーは、黄金分割比率、フィボナッチ数列、φ(ファイ)の探求、インドやアラビアの哲学から生じた言葉、だそうだ。
古代の賢者は、そこに真理や美学、そして愉しみを見いだした。
ピラミッドや,寺院や神殿建築、タージマハール、北斎の版画等にも応用されている。それを、瞑想的に別の言葉に訳せば,“観照“、或は、“歓び”、“調和”、“愉しみ”という事にもなる。
エナジー、シナジー、ディナジーとエネルギーにも,色々なモードがある。

 欧米で,今,タントラ的で、流行の言葉、Nuts’n Bolts Behavior (ナットとボルト、実質的な在り方)が、観えてくるという訳だ。
要は、物事を二つに分ける心(マインド、分析、愛憎、善悪、損得、利害)を、一時的にせよ、一つにしない限りは、リアリティーに触れる事はない、という事だ。それがヴェールになっているからだ。
一方、マインド(心)というものは、常に二元性に於いてのみ活動する。
それはそれで良い。二元性の世界で使えば良いのだから。

 マインドは、対象が無く,無対象では取りつくシマがない。
愛憎、損得、利害、善悪、それらの状況でのみ活動する。
だが、非二元的な世界では、即ち、“不二”に於いては、消滅してしまう。
だが、不二にある時、マインドが消えたその時、残っているのが“意識(コンシャス)”であるからである。
無意識に見逃してしまいそうだが、よく気付けば、そこに新鮮な発見があるはずである。“観照”という。
そこに、無意識の深い奥に隠れている、自他のない“私達の本性”(仏性、ブッディー、純粋意識)がある。誰にでも備わっている。
その次元に在ると、エネルギーがチャージできるからであるばかりではなく,心地よいからだ。
エネルギーが回復したら、また活動を始めれば良い。

 無心とは、思考、マインドを一寸脇に於いておく、只、それだけのシンプルな事である。マインドを壊す事ではない。間合いを創る,という事だ。
そして、思考が必要なくなる程に、全面的に理解した時、初めて真の理解がやって来る。見えないものが観えて来る。

 そして.再び、マインドに戻った時、世界は、もはや嘗ての形を持っていない、新鮮に変容している事に気付く。世界全体が自分の中で動いている。
さすれば,個人的な苦は消え失せてしまう。
探求に信仰はいらない。エゴも不必要。只、体験あるのみである。

 そこから,盲目的な信仰ではなく、生への“信頼”という事が、自然におこってくる。“無形の何か”を『信頼できる』様になってくる。
 頭.詰まり、マインドを通してみる時、世界は原子の集合のようにも見える。
ランダムで、統一性がない。らんちき騒ぎを来る返しているように見えてしまう。
部分だけが際立って、枝葉から枝葉へと、次から次へと、あちこちで起こっている。
知性は疑いに立脚し,疑いとは常に混乱、分裂だ。それがダルマ(法則)である。疑いは疑いすら疑う。そして、疑いは層を成してしまう。
知性は混沌を食物にしているようだ。
普通の人は、多少の違いこそあれ、この様に世界を見ている。
或は、そうとは知らずに、見させられている。

 頭は,有効で、現実に必要不可欠だが、近年、20世紀後半から、欧米を始めとして、タントラや禅、ゾクチェンを通じ、多くの人々が『生は、人の「頭」や「都合」、「思い込み」や「理論」で成り立っている訳ではない』という、単純な事に気がつき始めた。
寧ろ,自然、生に自分の頭や心を通わせた方が,より建設的である事に気付いたのだ。

 近年、人々を驚かせた、ある科学調査があった。
伝統的には、頭が活動的であればある程、その能力も高いと看られて来た。
それが迷信ともなっていた。
学生達が実験台となり、調査の為に、最新の機器が用意された。
思いの外の結論とは、頭脳の活動が少ないもの程、知能が高いという事であった。科学者達は、”無心”こそ知性の源である、と認めないわけにはいかなくなってしまった。そして、科学に対する姿勢も変わって来たと言う。そして,今や知の地平線も宇宙的に伸びようとしている。基盤が出来たという事だ。

 禅に於いては、元々、無心を英知として来た。
禅は、非難はしないが、無明の知識には関心がないからだ。
マインドの活動の全てを放り出してしまえば、純粋に、洞察力に留まる事が出来る。その逆はあっても,思考が直感を動発する事はない。
思考は思考でいっこうに構わないが、思考は障害にこそなれ、リアリティーから遠ざけてしまう事にもなって来る。
今や、科学者達も気付きを深め、禅に近づきつつあるのだ、と言う。
そして、そこから自然発生的に”エコロジー”が起こってきているのだ。
ものと自然との調和である。タントラの法則と言っても良い。

 ハートとは“感じる能力”の事。”生きる”という事に於いても、最も重要なセンターだ。ハートなくしては、生きる意味がなくなってしまう。
感性派、感じるタイプの人には,疑いと言うものがない。
自分自身に安らいでいる。波動にも敏感だ。
ハートのタイプの人は“信頼”、それがどのような信頼であれ、が基盤になっているからだ。無論、頭よりも深い。
動物好きな人、自然が好きな人、そしてアーティストには、このタイプの人達が多い筈だ。

 本来、疑いも、信頼も創りだせるようなものではない。
人には必ずどちらかの種子が、或は両方が備わっているからだ。
知性派、疑念、疑いをもつ人、真理を追う人、其れは其れで良いと思う。
それなりの道があるからだ。無理する事はない。どちらも素晴らしい。
要は頭を使いたい時に、使える場所で使う、という事。そして、ハートに生きるという事も判って来る。
無論,自分に欠けているものを、開発する事も出来る。潜在的にも,人は、両翼が欲しいからだ。両翼を得て,始めて,中庸、中道の意味が分かってくるからだ。

 ハートのセンター、それは心臓の鼓動とは別物である。
ここに大きな幻想や誤解があった。
肉体の心臓は、当然、肉体レベルに存在し、鼓動は、その肉体の生理的機能だ。そこ迄はいい。
だが、ハートのチャクラ(センター)は、肉体ではなく、肉体にオーヴァー・ラップしている“霊体(スピリット・ボディー、サンスクリット語だとリンガ・シャリーラ)”に所属している。
そして、霊体には、チャクラの様に様々なモード、ヴァリエーションがある。
チベットでは,三つの重要な霊体、タントラでは七つの霊体を認めている。
この霊体に関しては,源流であるシヴァ派のヒンドウー・タントラが中心となり,チベット仏教にも詳しく述べられている。

 もし肉体の心臓を、ハートの中心にしたとしたら,生は苦の連続になってしまう事だろうし,第一、心臓に負担がかかり、健康にも悪い。其れはつらく苦しく、とても長生き等できないだろう。
又、ハートのチャクラは肉体の心臓の位置に、オーヴァー・ラップしている訳でもない。
其れには個人差がある。だが、肉体の心臓の位置を、ハートの場所と信じてしまうと、或は、その様にきめてしまうと、その様になってしまう。そこが怖い。
そして否応無しに、心臓は“無理な負担”を負ってしまう。辛ければ、心を閉ざしてしまう。
身体の心臓の位置を,霊体のハートセンターにはしない方がいい。
知るものにとっては、愚の骨頂、実にアホなはなしだ。

 瞑想ができれば、どの辺りにハートを感じるかが解る筈だ。
人に依って,その場所は微妙に違うが,一般的には、脊髄に沿った、胸の辺りに感じるようだ。
“ラーマナ・マハリシ”(20世紀の著名なシヴァ派の瞑想者)は身体の右側にあったそうな。
私の場合も,ハートセンターを霊視すれば、脊髄に沿っているものの、身体のやや右側にあって,ハートの存在と心臓の位置とには,“ずれ”がある。
それでいいのだ。その“ずれ”が“知恵”ってモノなのだ。智慧は痛みを緩和する。
地球の地軸だって少し傾いているだろう?

 意識をハートセンターにおいて、自己の宇宙を観る時、全宇宙は統一体の様に見える。
中心が極まれば,秩序が戻って来る。
内的宇宙(インナー・マンダラ)が、ある条件、状況に達すると、ハートのセンターは“霊体”とともに現れて来る。
ハートの領域には,音楽が在り,舞踊が在り、詩歌が在り,芸術が在り,寛ぎ、安心、愛や慈しみがある。楽園と言ったらいいだろう。
私はここが好きだ。生の楽しみは“ここ”に在る。この次元を楽しむことにしている。友人や恋人と過ごすのなら、“ここ”がいい。
自然と共に寛ぐのなら、”ここ”がいい。
ここで、頭を使っても意味が無い。

 知るという事は、頭の働きだが、知らないという事、感じる事はハートのもの。そして、最後に、肝心なのは、全体と一つになる能力、存在する能力。それは、根源的な“知る能力”の源だ。
 そのポイントは、腹にある。中心が極まれば.秩序が戻って来る。腹が据われば,頭もチャント働くし,ハートも生き生きとして来る。エネルギーを循環させることも自由だ。内側で,意識の光を巡らせれば良い。私にとっては、普通でいられる。
 頭が中心ではないのは勿論だが、中心は,無論、身体の中心、臍の下の丹田に在る。エネルギーのディストリビューター、と言ったら良いだろうか。集まったエネルギーを、調節しながら、頭や心に送り出す所はここだからだ。
 たとえ、何百万、何千万もの、全世界の知識を得たとしても、肝心な事に無知であれば、その人は、単に烏合の衆の一人でしかない、という事になってしまう。少々の雑学と、必要な知識があれば良いのだ。
ブッダの様に、世間の事はそれほど知らなくとも,知らぬが仏、覚りを得たものは”ここ”にいる。肝心な事は知っている。自分と言う“機能"を知っているのだ。そして無形の力が手に入る。知る事とは何か、生きている意味が良く判ってくる。
 “これ”を知らないと、どうしても頭やエゴ、形だけに頼って生きる様になり、生の意味はおかしなものに、つらいもの、“苦”だけが際立ってしまうようになってしまう。その狭い世界でしか生きられなくなってしまう。リアルな自然を、頭や感情で不自然に歪めてしまうのだ。

 昔の日本人は,ハラで考えたという。間合いの妙を知っていた。だから,窮屈な権力社会、封建社会,不条理な世界でも、智慧を使い、何とか生き抜いて、世にもまれな文化を育てて来れたのだと思う。だが、今はずっといい時代になりつつある。ただ“ある”という事をゆっくり楽しめる。

 “これ”、”腹に意識を集中すること”なしでは、生は意味を失ってしまう。「これ」こそが、あらゆる有為、無為の要、真の意味でのオアシスなのである。これを知らないと、真の寛ぎも無く、生きた心地もない。茶も美味くない。取り分け,禅は、間合いという時空間を発見し、“これ”に拘った。無論、ハートの次元よりもさらに深い。それは、まるで底なしのように深い。その深みを、最も重要視し、窮めたのである。

 寛いだ時、私という感覚は無く、ただ、“在る”と言う”意識”に繋がる。
そして、“これ”に於いて、無為が起こってくればば、行為がより“生きた行為”となって来る。
ここに到る間に、様々な修行,体験を通して、既に、性センターからサワスラーラ、天頂迄、“宇宙軸”が出来ていて、様々な宇宙に、頭や心にも、異次元にも自由にセンタリングが出来、そして、”これ”は、復元力の要でもあるからだ。動と静の要なのだ。
 旨味はここから、軸から生じて来る。車輪が廻る時,その車輪の中心、軸は不動であるのに気付くだろう? 台風の目というのは静かだろう?

 ハラを中心にすれば、健康にもよく、又、どんなスポーツでも上手く行く。バランスの要はハラにあるからだ。“これ”を中心軸にして,ハートも,頭も、身体も使って、生きて行きたい。
総ては一つに繋がっている。そして、今、ここに”これ”がある。

百考は、一禅に解す。

 一服しようか? お腹も一寸すいてきた。今は、涼しい昼下がりだ。ベランダに出ようか? ランチタイムだ。

PS:今日のランチは、アワビとインディカ米のスープ、海鮮出汁のお粥だが,インディカ米の細長い米は、ベチャベチャにならず、さらっとしていて美味い。
 お粥というよりも,ビスク、ライススープ.ポリッヂ、リゾットと言ってもいい。蚫の他には、オリーヴオイルで炒めたインディカ米、昆布の出汁、鰹節、ナンプラー、タマネギを煮込めば良い。好みのスパイス、煎ったすりごま、青のり、或は香菜(パクチ)をトッピングして薫りを添えるといい。三つ葉があれば,それでも良い。又、ココナッツミルク、バジルや青みの野菜や、根菜、冬瓜を加えるのもいい。
 あとは煮込むだけ。朝食、ランチやおやつ向きに軽くする事も、やや重めのディナーにするのも自由自在。蚫(アワビ)がないときは、牡蠣でも,蛤でも、肉でもよい。又、インディカ米がなければ、普通の米でもいいし、パスタやパスティーナ、マカロニでも、豆腐でも。こしのあるうどんでもいい。基本を押さえておけば、色々応用が利く。要はスープパスタという事だ(イタリアでは,ご飯,寿司ご飯、リゾットも、パスタシュータ,つまりパスタの一種なのだ)。

 ユニヴァーサルで、無国籍な、私の得意なクール•ディッシュ。たとえ寒い時にも、オイルと唐辛子を利かせれば、美味しい。