2008年3月28日金曜日

ダイヴィング・ディープ

 シュノーケリングやダイビングを愉しむ人ならご存知かも知れないが、普通,潜水をしていると、如何に水の透明度が高くとも、深く潜れば潜る程、水温も次第にヒンヤリし始め、明るさは減って、少しずつ暗くなってくる。単純に考えて、4〜5メートルの浅場ならば何と言う事もないが,深みに入ると、太陽の光が、水のヴェールが厚みを増す程に明るさを奪われるからだ。
 だが、タオ島やピピ島等、珊瑚礁の海に潜って見ると、妙な事に気付く事がある。深く潜っているにもかかわらず,明るさが増して来る様に観えて来る事がある。

 珊瑚の林や,様々な魚の群れ、石や珊瑚、魚の群れが光を反射して、周囲が、鏡面状態の様になって来ると,光が反射しあって、やたらと明るく見えてくる事がある。丁度、雪山やヒマラヤで,思った以上に、日焼けをする様なものだ。意外な程,日の光が強力になって来る。
上を見上げれば,水の厚みを通して、太陽はそこにあり,段々と冷たくなって来る水温、その判断で潜っている深さが大凡(おおよそ)判る。
深ければそのような事はないのだが、光が海底の姿に反射しあって,思った以上に周囲が明るく見えることがある。本来なら,深みを増すごとに、少しずつでも暗くなっていく筈だが、これは“思いのほか”の、珊瑚礁ならではの出来事だ。

 似た様な事は、たまに街にでても、そんな気にさせられる事がある。街の雑踏や交通の煩雑さもものともせずに,ストーン・クールに元気な街をダイヴしてみると,新たな価値観,新たな華やぎ、新たな美観やコントラストが生じて来る。
 ここは,南国にして、スワンナプーン(黄金の大地)、アジアを代表する都、タイのバンコク。
そして地元の人が “クルンテープ•マハナコン(天使の都)”と呼ぶ、タイ王国の首都である。世界的にも,最も都らしい都なのだ。


 この都、クルンテープの守護神はシヴァ神。”軸”、”宇宙軸”、ダルマ、瞑想、タントラ、ヨーガとインド音楽を教えてくれた神様だ。ドーティーと言う褌一丁で、”勝利”を意味する“マタンガ”という象に乗って、雲上を、悠然と歩いている。タイ国の始まりよりもズーッと古くからここに居るそうだ。スワンナプーンが、お気に入りの様だ。
 ヒンドウーの最高神にして、仏教では自在天。世界で最も古い、しかも地上に降りた最初の神様だが,今、最も新しい。それは、水瓶(クンブー)の持ち主だからでもある。今の時代を現している。

 特に用事が無くても,たまには、地下鉄やスカイ・トレイン,バス、或はチャオプラヤ川や運河を上り下りする船のバスに乗って、川風に涼みながら、街にでてみたくなる。船だと、交通渋滞が全くないからだ。
 ココナッツでシャンプーし、爽やかな気分になって、熱いエスプレッソのタイ・コーヒーと焼きバナナ(炭火で、モンキーバナナをやいたもの,生よりも甘みが増して来るのが不思議。)軽く腹ごなし。
気合いを入れてから動き始めると、ビルの谷間や横町にも,何かキラッと光るものが見える事がある。何とも刺激的。今日も元気だ。ストーン•クールに行こう。

 何気なく素通りしてしまえばそれ迄だが、ゆっくり丁寧に見ていくと,なかなか素晴らしいものが観えて来る。何ともエキゾティックに、光り輝く、活気ある、黄金の都である。タイでは,黄金はブッダやシヴァ、ヴィシュヌ、神仏を表している。寺院は,黄金に埋め尽くされているかの様だ。
 “都”には,活気と華やぎ,何よりも“魅力”が無くてはならない。さもなければ、何の魅力もない、只の都市、只の街だ。都と呼ばれる街にも色々あるが、バンコクの他に、イスタンブール、デリー、ジャイプール、ヴァラナシ、ジョグジャカルタ、ロンドン、パリ、ローマ、ヴェネチア、フィレンツェ、クアラウルンプール、マラケシュ、カトマンドウー、嘗ての、戦争前のバグダッド、昔のシェムリアップ、日本だったら、東京は無論、そして、鎌倉、金沢、仙台、京都と言った所が、古都ではあるものの“都”と呼ばれているようだ。新しさや華やぎ、活気は無論だが、何か伝統的なものや民族的なもの、文化が無くては、深みというものがないし、何よりも都の風情や趣が無くては、らしくない。近代合理主義一辺倒では,風情や趣がなくなってしまうし第一成り立たない。重要な大地の部分が欠けてしまうからだ。面白いのはそのコントラストなのだ。そこに、相乗効果(シナジー)も起こって来る。

 何か新しい発見や,新鮮さを見つけると,人は誰でも、嬉しいものである。なんであれ,“未知”に触れる事は楽しい。“未知”とは、新鮮な喜びだ。新旧に関係なく、冒険心、好奇心を刺激する。どちらかと言うと、寒い日本流の“暖かさの文化”とは違い、一年中暑いタイでは、クールで涼しげな方が、ここでは”価値がある”。
 それでも、たまさかに、革のジャンパーやセーターを着る事に”あこがれ”を抱いている様なタイの人達を、エアコンの効いたデパートやショッピングモール等で見る事が出来る。

 時代はエコロジー、無理をするよりは、自然に沿っている方が、フィットネス、スマートで格好よいと思うのだが… 街中のあちこちに、流水や噴水が,飛沫をあげ、水を吹き上げていて、爽やかで涼しげだ。水辺で一服したくなってしまう。それは、南国の水の都ならではの、豊かさの象徴だ。

 クールという言葉は、今では、決して”涼しげ”という言う意味だけではない。無論,冷たい事や、冷酷さ、寒々しい事ではない。今風の英語ならば、静かで、粋で、謙虚で、慈しみがあるということだ。決して、無理して突っ張っているのでも、格好だけで中身がない、というのでもない。環境にフィットして、力みが無く、生き生きとしているのがいいようだ。

 今の時代、“波動の質”がテーマになっている。あくまで、クールとは、新時代を愉しく生き抜く在り方なのだ。街には様々なものが溢れ、只、単に新しい形、新しい製品という意味ではなく、伝統の中にも新鮮なものがある。新鮮な眼で見直してみよう。

 ”眼が新鮮であれば、モノゴトは須く(すべからく)新しい”

 詰まらなくて、退屈してるのなら、自分そのものが退屈なのだ。硬直していて、エネルギーがちゃんとフロウ(flow)していない、流れていないからなのだ。先ずは深呼吸からだ。

 エネルギーのある若い人は、眼が若く新鮮なんで、“未知との遭遇、出会いの為、なにか体験するために生きている”、と言っても過言ではない。その未知が、状況であろうが,ロックコンサートであろうが、ファッションであろうが、個人であろうが,モノであろうが,アメリカの新作映画、車やモーターサイクル、ムエタイ、サッカー、猫であろうが、象であろうが関係はない。何でも知りたい、体験したいのが、若さという美点である。年をとっても大事にしたい。

 未知である事、喜びである事、楽しみこそが重要になってくる。そこからヴァイタリティーがうまれてくる。
だが、そこにやはり何らかの筋金、軸、そしてハートがあると、若者はより注目して来る様だ。それに何よりも、若者はスピリットに敏感に反応する。誰しも、本物が好きなのだ。それに、スピリットがなければ,意味はないからだ。熱帯は、一目瞭然に光と生命力に溢れている所だから、余計そうなのかも知れない。

 最近のバンコクに於ける新しい事とは,日本やインドの“禅ブーム”に伴って、日本料理の店が増えた事である。美味い本格的なインド料理店も増えて来た。日本でタイやインド、ベトナム、地中海の料理がブームになっているのと平行して、タイでも、日本の味に“新鮮さ”(新しい旨味)を見つけた、という事だ。何処の世界も、無い物ねだりなのだ。しかも,バンコクには、日本人街等という特別な地域がある訳ではない。そこが中華やアラブ、他の文化とは,ひと味違う。ZENと言う名のデパートやカフェまでも出来て来た。伊勢丹も人気が高い。ロックやファーストフード、ジーンズ•ファッション、コンビニと言った欧米の文化と同様に、タイの文化に、“直に”浸透していて、それらがヒンドウー、仏教と共存共栄しているのがいい。両方あるのが何よりもいい。

 自動車も電化製品も、衣料品も,キッチン用品も、食料品も、デザインの良い欧米製も伸び続けているが、実用的な日本製の躍進も目立つ。日本のテレビドラマやアニメも人気がある様だ。日本への信頼感、親密感の現れ、と言ってもいいかも知れない。日本製品には、故障が少ない事が良いみたいだ。
日本人にとっても,日本のものが、殊更品質も良く、人気があり、上質に見えて来て嬉しい。タイでは,既に物質面に於いても日本が重要になって来ている。
インドや中国程ではないものの,タイの景気も上昇中だ。銀行金利もまともな様だ。未だに暫定政権だが,無関係の様だ。
タイの宇宙が体現して、発展しているからなのだろう。そして、まだまだ,伸び盛りだ。

 一方,日本人にとっても、タイは癒しの王国。観光客は年々増えてきている。ムエタイの修行にやって来る若者も少なくない様だ。また、最近は、女性の一人旅も少なくない。10年以上もの昔とは大違い、安心感が増しているのだ。それもシナジー効果の現れだ。欧米からの観光客はうなぎ上りだ。バンコクに居れば、それこそ、世界中の人に会える。先日も,タオ島で,夫婦で遊びに来た、ナバホのおばさんに出会った.素晴らしいトルコ石を首に下げていたので、チベットの人かと思っってしまった。

 尤も、もし何事も伝統だけにしがみついて、慎重にしすぎていたら、又、何の冒険もなかったら、固定化して、人生も社会も、退屈そのものになってしまう。陽気なタイ人にしたらとんでもない事だ。
伝統はそのままに,そして、それを発展させれば良い。伸びる可能性のあるものを延ばせば良い。
さもないと、マイ•ペン•ラーイの国ではなくなってしまう。
無論,人々は決して失ってはならないものも良く知っている。それが基盤となっているのがいい。

 熱帯雨林という、ブラジル、マレーシア、インドネシアとともに、公害で悩む現代にとっての、最も重要な“オアシス”を持っているタイ国だが、それでもこれからは、低公害車には税制に,大幅な免除が考慮されるそうだ。しかも,ガソリンの値上がりで,実質的にも様子は変わって来た。もっとも,世界中の車の方針は既に低公害車、低燃費車に転換していて,エコロジー、しかもエコノミーという新たなステージに移行している筈だ。新時代は、もう始まっている。

 タイ料理にしても,全てが単に“辛い”という訳ではない。その点は、美味いインド料理と同じだ。トムカーガイと言う,鶏肉をココナッツミルクや各種スパイスで煮込んだシチューや壷焼のタンドリチキンは,私の好物だ。始終、行ける訳ではないが、“ブッサラカム”のような、高級なタイ・レストランに行けば,品の良い爽やかな辛み、香り高く、こくと旨味のある、美味いタイ料理が存在する。タイの宮廷料理だ。特にビーフのカレーがうまかった。
 タイ料理には、さっぱりと魚や海老、蟹、貝類を梅やショウガとともに、蒸した料理を,ライムとスパイシーな、香り高い、ピリ辛ソースで食べるのもうまい。暑い国では,殊更美味しい。暑さが歓びとなってしまう。素材も料理法も素晴らしい。元気が出る事この上ない。風土に合っているのだろう。それはやはり、辛さと、スパイスの旨味に依るものなのであろう。それが、伝統の力だ。

 タイ料理は、高級レストランでも、安直な飯屋でも、屋台でも、何処で食べても、本当に美味い。センスが良いのである。
摩訶不思議なスパイスの使い方は勉強になる。インド料理と同様に、様々なスパイスを使いこなし、インド料理、薬膳料理、もうドラッグと言ってもいいくらいだ。無論、意識にも健康にも良い配慮がされている。
長い事つきあっているが、まるで無限宇宙に住んでいるかの様だ。
いや,もしかして、その無限宇宙の方が,既に私の中に住みついている,と言った方が正しいのかも知れない。魔法の様だ。
それでは、私って何なんだろう?

 タイの料理は、インド、マレー、インドネシア、ラオス、ヴェトナム、中国の影響もあって,様々なスパイス、その知識、伝統に基づいた、そして豊富な農産物、魚介類もあって,そのヴァラエティーが、無限の宇宙を創っている。
タイ料理とイタリア料理の融合したものを、私は“タイタリアン”、と呼んでいるが、和食風のタイ料理も、その逆も可能である。
本格的なモッツァレラチーズ(ヤギのチーズ)を使ったピッツァも、とてもポピュラーになって来た。どういう訳だか,ピッツァを食べると,ダイヴィングしたくなってしまう。何故なんだろう?
在るイタリア人に聞いた話だが,イタリア料理は,タイの方が美味いかも知れないという。いくつかの食材やソーセージ,チーズは,イタリアから輸入するしかないが、大方の材料はタイの方が,より多様で,野菜にも力があるからだと言う。タイタリアンという新語も,そこから生まれて来た。

 ざるそばの麺つゆに、紫蘇の代わりにバジルを使ったり、煎ったカシューナッツやピーナッツ、ライムもよく使う。
タイで食べる“ざる蕎麦”は、何故か殊更旨い。
ここの気候風土にもフィットする。冷えた、そうめんなんかも美味い。
カレーに鰹節、パスタに明太子はもう常識だが、昆布だしや貝柱もいける。
紅茶や緑茶にミントを添える。タイ式に,コーヒーに練乳を入れる。
しかもタイ国民は、日本人、インド人、中国人、イタリア人、フランス人の様に、皆、食い道楽。
最近は,アメリカ人やイギリス人も仲間入りしてきそうだ。美味いものを知ったのだ。


 タイは永い伝統文化の国、味の何たるかを、知っている。伝統も、新しいものも、両方が好きなのだ。センスに合えば良い。
いい加減と言ってしまえばそれ迄だが、偏っていないという意味にもなって来る。南国ならではの大らかさだ。ツボを押さえておけば良いのだ。
そのタイ料理、そのタイの文化に、直に“日本料理”が入ってきたのだ。
それにしても,“素材の美味さを引き出す事”を要とする、日本料理のブームは本物のようだ。椎茸、海苔、わかめ,昆布も売れている様だ。
何処の日本料理店も、大体、美味しいし、繁盛している。
ほっけ等の焼き魚に人気がある様だ.

 自然と、タイ料理にも影響は表れて来る。
その基盤に、タイと日本の食文化に“共通”のものがあるようだ。
無論、若者達だけでなく,和食は味その物がマイルドなので、年配の人にも受け入れられ始めている。それは仏教で言う所の“共有意識”に繋がっていく。
それはコモン•センスという、ごく表面的なものではなく、より深い意識に繋がる“コモン•コンシャス”、と言えるのかも知れない。

 何と言っても、ここは文化のオリエントにして、その上、文化の交差点。
元々,寿司にしても,茶や米にしても、東南アジア、インドシナ半島、雲南から東北インドのアッサム辺りが源流だそうだし,豆腐、納豆、醤油、塩から、味噌も東南アジアが源と言われている。
鰹節に至っては,インドの西南沖の島、モルディブと言われている。鰹の本場らしい。モルディヴは無論、南インドやスリランカでは、カレー料理に鰹節を使う事もある。私も、時には、昆布や貝柱、ココナッツと共にカレーにもタイ料理にも、ラーメンにも鰹節を使う様にしている。
又、最近は、スーパーで寿司も買う事が出来るようになってきた。一時、おでんを売っているスーパーもあったくらいだ。最近,見ないねー。
文化的な潮流が、古来から何千年にも渡ってこの地域を潤し、繋げていたのだ。もう何料理だなんて言えないね。

 余談になるが、南米のインカ帝国の成り立ちは,周辺を征服して,侵略したり、搾取したり、略奪して豊かになったのではない、と言われている。
世界の歴史の中では,実にユニークで、しかも実にクールな出来事だった。
インカの独自性は,“与える事で,豊かになった”事と言われている。
まるで、仏教やタントラ、タオのようではないか? 
何処かに同じ東洋人のスピリットが、南米のインディオにも生きていた事にもなる。貧しい部族に食料を与え、“和”を持って近隣の部族と友好を結び,豊かになったと言われている。
こういう帝国主義には,問題がない。共に豊かになろうとするからだ。
発想その物が、排他的でなく、和の心と言っても良いが、健康的だからだ。
さて話を戻そう。

 人には、何かを知ろう、疑問があれば、どうしても答えを知りたい、と言う性質がある。
“知る”と言っても,概念的に本を読んだり,知識を集めたりするのではなく,直に自分で体験する事を通して,理解して,初めて,“知る”ということが起こってくる。知りたくなる事は,それも出来る事なら、実体験してみたくなるものだ。
テレビや本という情報からだけでは伝わって来ない、ある種のエッセンス”があるのだ。情報は窓口にしか過ぎない。
そこの所が、“実質的な愉しみ(Nuts’n Bolts Pleasure)”なのだ。
それ故、人は、様々な、リアルな体験をしたくなる。
その中で,“自分に何が起こるのかを、見極めたい”と言う、本当の願望、欲望がある。“見ると聞くとは大違い”、という言葉の意味はここに在る。
直に体験して、始めて知る事が出来るというものだ。
これは誰にでも言える事だと思う。

 スマートなスニーカーを履き,小粋なシャツやパンツ、ジーンズで身を包んだ,タイの男女の若者達が、時には40度を越すバンコックの暑さ等、どこ吹く風、ビルの谷間にオアシスの様なものや,遊び場を創って様々なイヴェントを楽しんでいる。さすが,都会っこはセンスが良い。

 バンコクの”フォーチュン•タウン”という街の近くに、”カルチャー•センター”がある。タイの仏教やタイ国が支援している様だ。そこの庭園には、池が造られ、庭があり、タイ伝統の寺院と日本の禅風の東屋風の建物が並んで建てられている。両者の融合を目指している様に見える。
そこに行くと、男女の若者達、学生達が、様々なクリエイティヴな活動をしている。様々な展覧会や、ギャラリー、様々なイヴェントも企画されている。
何度か遊びに言った事がある。バンコクのジェネレーターの様になっている。
 
 若いネーチャン達に、今、世界中で流行の”臍だしルック”は,既に万国共通なのかも知れない。
どうも,インド女性の”サリー”のファッションや、アジアの女性達が着ている、ロンジー、ルンギーと言った、長い巻きスカートの伝統からきているのかもしれない。見た目にも素晴らしい。いいものだ。この姿を見るだけでも、何かホッとする。

 インド、マレー、ラオス、カンボジア、ミャンマー、インドネシアでは、いまだに現役だが、タイでも、田舎に行けば、今でも、年寄りも、若い人も、いまだに更紗風の、バティックのロンジーを観る事が出来る。
ヒンドウー、仏教、そしてイスラム世界でも、まだまだ主流になっているのが凄い。
 彼女達は,恐らく紀元前から、子供からおバーちゃん迄、腹、臍を出してい多様だ。紀元前から、変わっていないというのが,実に凄い。
寒い国ならいざ知らず、このままズーット続いていて欲しい。
それが、今、若者にもクールなのかも知れない。
地方に行くと,男の人のロンジース型も観る事が出来る。

 都会のオアシスとは、丁度,階段の踊り場,そして音楽の音階に於ける、ミとファ、シとドの様な “間合い”、異次元的な“捻り”の様なもの。
忙しく動き続ける大都市の中の、一寸した、“揺らぎ”の様にオアシスとなって居る。一寸した”間合い”になっている。

 一見、それほど重要ではないようにみえるが、あらゆるものを活性化する智慧の様なもの。誰もが元気になれる。創造性は,すべからく“遊び”から始まる。遊びがないと、力もゆとりも活力も生まれてはこない。間合いが大事なのだ。
大きなショッピング・モールやデパート等がスポンサーになっているようだ。
単に商売だけではなく,社会事業をやっている、文化に貢献していると言う、大きな意識がいい.結果的に,商売も上手く行くという訳だ。
 

 日常性の中でも、”狭間”、”間合い”というスペースに注意する事で、世界は新たになって来る。日本人なら誰でも知っている,常識中の常識だ。
例えば、呼吸の合間、吐く息、吸う息の狭間には、間合いがある。
タイだけではないが、インドも、マレーシアも、ラオスも、インドネシアも、街の木陰や公園で昼寝をしている人も少なくない。
アジアならではの、ノンビリした。何かホッとする光景だ。
多少時間はかかるかも知れないが、他の活動をしながら、その間合いに”注意する”様にすると、徐々に世界の見え方が変わって来る。

 そこから創造性が生まれ,シナジー効果が生じ、新しいファッションが産まれて来る。暑いタイ国ならではの,自由で、涼しく、着やすそうな,そして現代に見合った、クールなファッションが産まれて来る。手織りのものやバティックも、絹も麻も木綿も素晴らしい。
薄手で、しかも木綿の”絽”の様な、凝った織り方の生地で、Tシャツが出来ている。上質なTシャツで,涼しく,フィット感もよく、何時も愛用している。
上質なポロシャツならば、織り方も凝っており、涼しく着られる様だ。
見えない所のお洒落とは、この事だ。
日本のTシャツは、気候が違うのでどうしようもないが、生地が厚く、丈夫過ぎ、タイでは、とてもじゃないが、暑くて着ていられない。

 タイに進出している欧米のカジュアルな”ブランドもの”を見ていると,形や色彩にも、明らかに、タイやインド、ラオス、マレー、バリといった、色彩鮮やかな、南アジアの影響が濃くなっているのが“最近”である。生地も凝っている。
極楽思考になっている。
景気の良い事と相まって、少々高くても,ものが良ければ,感性にフィットすれば,売れるている様だ。
タイで現地生産しているものも増えて来た。素材に恵まれ,コストも、本国よりも安いからだ。冬のない国なので、冬物は問題外だが、やはり、オリジナリティーは、今や、南アジアの風土にあるようだ。

 しかも,現代は,南の時代.日本の言霊学に依ると、南とは、”皆見”、”みんな見る”というもう一つの隠れた意味が在るのだそうだ。
例えモノトーン調の、白や黒、グレイのものや、洗いざらしの麻ものでも、大人向けの渋めのバティックものであっても、ニュアンスとして禅やタオの墨絵のように、さりげないお洒落感覚が伝わってくる。南アジアは、センスが良い。
最近のタイで見るファッションセンスは実にいい。遊び心がでているのがいい。
豊かさの現れでもあるのだろう。
窮屈ではないのだ。重苦しくもなく、頭でっかちではない、南国ならではの特徴なのかも知れない。

 昔の話になるが,嘗て、日本には”VAN”と言うファッション•ブランドがあった。記憶にある方も居らっしゃると思うのだが,アメリカの学生達のファッションを取り入れた、アイビー•リーグと言う,当時としては、非常に斬新さで若者達を魅了した。一寸渋めで,キリッとしていながら,気楽さや遊び心もあったのだ。私も気に入って,ファンになった一人だが、何よりも,ネーミングが気に入ったのだ。VANという言葉の意味は、色々のだが、“付加価値通信網”という意味が在る。そこが特に知的で気に入ったのだ。
コンピューターもインターネットもない時代に,既に”先見の明”があったのだと思っている。

 家具のデザインも,タイの伝統に、欧米や日本のエッセンスが加わり,なかなかのものが誕生している。昔から名作とされる、北欧やイタリアの家具もタイで再生産されているようだ。値段も手頃で、つい欲しくなってしまう。自由が、産業を支えている様にも観えて来る。チーク材(今では伐採が禁止になっている。詰まり、材木は、現在の在庫分しかない。)の家具、藤や蔦で出来た家具等、とても高価なのだが、質感,トーンに魅力があり、つい欲しくなってしまう。

 いつも豊かな自然の中にばかり居ると,たまさかの“街”のウィンドウ・ショッピングはとても楽しい。以前は、街というと、割と苦手だったのだが、大分エネルギーが溜まっているので,ユトリが生まれたのかも知れない。
時々は、“元気な街”にダイヴィングする様にしている。
次から次へと,目新しいものが現れてきて,眼が回るようだ。
長く居過ぎると,麻痺してしまいそうだが,たまには、そんな刺激に触れるのも、悪くはない。眼から鱗が落ちるようだ。
欲しいものが増えて困ってしまうのが難点だが,愉しみにもなっている。
愉快、愉快。

 多くの店のショウ・ウィンドウは,それぞれ“意匠”を凝らし,“気合い”を込めて工夫を凝らし、伝統や現代のエスプリに満ちて、人々を魅了する。
そこにも、現代文明の“粋”を“垣間みる”事が出来る。
それも、一つの魅力あるアートなのだ。
最近のテレビのCMも、売らんかな、だけではなく、センスの良いもの、粋なものも現れ始めている。

 それは何処の大都市でも、同じ事がいえるかも知れないが,殊更,南国の都市は,光が強く、自然に、色鮮やかだ。コンクリートのジャングルの深い谷間に咲く、色鮮やかな花や、極楽鳥の様にも観えて来る。さまざまな想いが,色や形を遊んでいる。素晴らしい。

 さすがに南国の上座部仏教の国。葬式仏教ではない。現世を生き、現世に関わっている。仏教もヒンドウ−教も,生き生きと生きている。人々は、融合させ、スピリットを引き出し、自由奔放な、“遊び心”が横溢している。ここは太陽の国、暑さと、強烈な日差し、そして、仏教、ヒンドウー教の御蔭なのか、何よりも深刻さがないのがいい。
 “一切皆空”、“空即是色”が表現されている。自由自在だね。この意識こそが、世界が共有できる、現代のフリーゾーンなのかな、と思えてくる。エコロジー・ブームの影響に伴って、どうも都市のリゾート化が始まっているようだ。都会が魅力を増して来るようだ。相乗効果を生むといい。

             “レティット ビー!”(Let it be!)

*バンコクは,世界有数の国際都市。タイ国内だけに関わらず,今やアジアの流通と交通の中心である。タオ島へのチケットは無論の事だが,私が何時もバス•ツアーやチケットをアレンジして貰っている旅行社を紹介したい。無論、ホテルや、海外への格安の航空券の予約も出来る。
 元々は,タオ島の“ブッダビュー(BUDDHA VIEW、タオ島のダイビングショップ)”での“ダイビング”が専門の会社だったのだが,今では他のツアーも無論手配してくれる。代表者の「森田さん」は親切丁寧,クリアで、スマートな仕事ぶり、安心して任せられる。ビルはぼろだが,仕事はいい。クリアでクレヴァーな日本人は,タイ国では目立ってしまう。
 場所はバンコク、民主記念塔の近く、カオサン・ロードの中央部辺りに在る「サイアム・オリエンタル・イン」というホテルの目の前にある、“バイヨン・ビル”の中にある。

http://www.kaosan.info
info@kaosan.info

TEL +66-2629-3824、3981

 何でも、気楽に相談にのってくれるので,遊びにいってみると良い。