2007年8月24日金曜日

ゼンス オブ ジョイ(Zense of Joy) 前編

 “ゼンス(Zense)”って何だろう?

 センス(Sense)、それは、感じる事、感覚、センス、認識力、自覚、感触、意識、価値、意義を表す言葉である。デリケートな言葉だが、何となくでも、誰でも知っている言葉だ。それに、ブームとなっている、禅(ゼン、Zenのエッセンスを加え、そしてZenith(絶頂)の意味が加わったものが“ゼンス”の語源となっているらしい。
 “ゼンス”という言葉は、タイやインド辺りでは、最近の流行語となっているらしい。禅がブームとなる等とは、考えもつかなかった事だ。


 アジアだけではない、欧米でも、徐々に浸透しつつあるという。“禅”の自然なスピリットを、街の中にも,世間の中にも、引っ張りだそうとしているかのようだ。
 “ゼンス”とは、“類い稀なるセンス”、“神秘体験でのセンス”、“絶妙なセンス”、“風雅さ”のことを言うらしい。具体的な姿形と言うと、ゼンスは無形のものであり、難しいが、昔、20年以上も前に行った事がある、南インドはタミル・ナド州、そこのマドウライという街にシヴァ神を祀ったヒンドウー寺院がある。そこに“1000本柱のホール”というスペースがあって、ことのほか気に入ってしまった。

祭壇には、“踊るシヴァ神”。全宇宙の有様を体現している。

石造りで、天井にはチャクラが描かれ、あらゆるものが,自分の内的宇宙と共鳴し始める。

これほど、静かで、しかも活気のある興奮を味わったのは初めてだったからである。

長い事、居続けたのに、又,行きたくなってしまう。

“ボム・シャンカール!”

 20世紀後半に現れたブッダ(覚者)、“オショー・ラジニーシ師”によれば、“山頂は、あらゆる価値のクライマックスとなる。全ての道は、山頂で出会う”という。

体験上、その通りである。

 山と対峙する。そこに、山が在り,そして、山と対峙する“私”がある。周辺部に於いては、それぞれが個々として、枝葉は、騒々しく、多様に存在する。だが、高くなればなる程,深くなっていく。山頂に近づくにつれ、様々な違った道を通って来たものが、近づいてくる。色々な体験がある、様々な道がある。出会いがある。

 やがて,山頂、中心に近づくにつれ、多様性は、溶解し、融合して、“ひとつ”に成る。そして,山だけが残リ,山と対峙する“私”は消える。

 二天一流の開祖、宮本武蔵に依れば、「空を知るという事は,何もない境地,俗世間しか知らない人には理解できない境地が,この世にあることに気付く。」という事であると言う。

 全ての物事は,他の物事の繋がりや関係から生まれ、別の物事へと移り,やがて、変容したり、消えていってしまう。

詰まり,物事の実態は,“無”と捉えている。禅に依れば、しかもその“無は全て”でもある。

それに気付いた時,人は迷いから解放されるという。拘りが落ち、「空を知る」という事に到達する。

 武藏、曰く、人が「空」に至れない間、道を知る事が出来ない間は、往々にして,自分は、絶対正しい、良い人間だと思い込み、勘違いをする事がある。

勘違いの人生とは、その人生を全く無駄にしてきた、という事だ。

しかし,この世の道理に気付き、そこから宇宙を観ると、自分の拘りの心、歪んだ見方の所為で、真の道に背いている事、に気付く筈である。と。

空こそ道の到達点であり,道は空の為に在る。空には善があり悪はない。

智、道理,全てが備わった時,空に至ると言う。

気付く事,拘りのいない事,そんな我執からかいほうされた時,空の意味を知る。

「空を知る事」は、武蔵の到達点であったのだ。

だが、今や禅はタントラやタオとも、とうに融合して、武蔵の到達点を、折り返し点とみる。そこからアr棚天海が起こって来る始まりなのだ。

そこから、キャパシティーが大きく広がっていく。

 何処かの国に、こんな言い伝えがある。

“次から次へと、生を輪廻していくに連れ、苦や痛みは自分の中に溜まり、まるで固い殻の様になってしまう”、というものだ。

 時には、良識故に、真面目さ故に、理性に依って、笑いも、涙も、痛みも、苦しみも、抑圧され、あらぬ方角ばかり見ていた事、と言う事になってくるやもしれない。

思い込み故に、視力を失っていたのだ。

 あらゆる社会は、喜びや涙を抑制する事で、人々に抑圧と弊害を与えて来た、とも言える。だが、全ては、その人次第とも言える。

泣いたり、笑ったりするのは、肉体的にも、スピリチュアルな意味に於いても、健康的だ。正気を保つ為にも、時には、必要になってくる。

 不思議な事に、笑いも涙も、ともに人々を誘発する。

固い殻が、何らかの刺激で、壊れてしまう事がある。誰しもが、爆発しそうになってしまっているからだ。

“笑い”は、緊張がはじけた時、根源に潜むエネルギーを表面化させる力がある。

そして、“涙”には浄化の力がある。

両方とも、誰もが持っている力である。

 本当の笑いには、瞑想と同じような力がある。

カミのお気に入りの音楽とは、笑いの事だからだ。

それは“踊り”や“音楽”、“瞑想”とも共通する。

笑いは、無心、無思考状態へのプレリュードと成る。

空っぽになれる喜びがある。

 悲しくもないのに、涙があふれて来たり、おかしくもないのに、笑いが溢れて来る事がある。

泣くか、笑うか、一度、思い切って試してみるといい.きっと、すっきりする。

笑いが、暫くの間。消えると、誰でも深刻になってしまう。そうとは知らずに、潜在意識の闇に潜んでいたものの虜になってしまう。

 笑いが極まってくると、涙が出てくる。

思いっきり泣くと、それで後、さっぱりして、笑いが出てくる事がある。

何かに感動しても、涙が出てくる.これは自然の法則なのだ。

 水は極まってくると,ワイオミングのイエローストーン公園にある“間欠泉”の様に、垂直に高く吹き上がる。

一方,燃え盛る火は,極まってくると,地を這うように広がっていく。

一寸、笑いや、涙に、似ているよね。

 笑いや、泣く事、これは“スピリチュアルなスポーツ”と考えると良い。

既に、はいってしまっている事だが、21世紀には色々な事が始まる様な気がしてくる。それは、人々の生きようとする意欲次第だ。

全ては、精神次第だ。メディテーション(瞑想)として、薬や治療(メディスン)として。二つの言葉は共に,語源を一つにする。

たまには、寄席にいくのもいいし、感動的な名画を見に行くのもいい。

それも治療(メディスン)のうちだ。

 山頂、中心に近づくに連れ、多様性は、一つに融合される。

自分を発散し、浄化するには、一度、笑いや涙を、全て引き出してみる必要がある。

 人は何らかの原因があって,一喜一憂する。朝起きて,一日働く、仕事、或は、遊ぶ、寛ぐ。出会い、日常、天気,あらゆるものが変化する。時には怒り,時には喜ぶ。ほめられれば、誰しもが、いい気分になる。非難されれば,気分は悪くなる。何らかの原因があって,嬉しくなったり、悲しくなったりする。天気が悪い,暗い気分になる。自分に起こっている事を、暫く“観ている”といい。

 なんであれ、原因があって,起こっている事ならば,気に病む事は無い。

“ノー ウオリーズ”だ。それらは,やって来ては去っていく。禅的に言えば,幻の様なものだ。幻は、幻として楽しめば良い。映画の様なものだ。

幻覚剤等要らない。現実以上の幻覚剤は無いからだ。

気に病めば,同化すれば、なんであれ、それが病気の原因となる。

 中心に於いては、あらゆるものが“ひとつ”になる。

個々にあった複数の価値感は消え、全てが“ひとつ”に溶解する。

究極にたどり着いたときは、言語は意味をなさず、全ては一つになる。

存在と一つになる。

嘗ての、自分を成り立たせていた“古い観念”が消え失せて、溶解してしまう。

 究極なるものに原因は無い。それを起こしているものも居ない。

その原因が何処から来ると言うのだろうか? 

それこそが,全体でもある。

色々な呼び方が在るが、それは自分の中に,“無因なるもの”,不可視なるもの“、“ひとつなるもの”、“存在”を見つける事が出来たら、“中心なるもの”を見つける事が出来たら、人は,“自ずと、真っ当な正しい道にある”ことになる、と言う。

ただそこに居れば良い。

まるで、全細胞も入れ替わってしまうかのようだ。

努力は一切要らない。緊張も無い。

何ものにも同化しなければ良い。何事も、鵜呑みにしない事だ。

外の知識に振り回される必要はない。

そこに、寛いで在れば、自然に解るからだ。

 人には元々中心がある。だが大抵の人は,中心を外して生きている。その御蔭をもって、緊張、動揺、混乱、苦悩がある。人は自分のあるべき所にいない。バランスを逸している。それは何かに同化しているからだ。世間では、それを普通と呼んでいる。その事が、全ての,精神的緊張の根源になっている。度が過ぎれば,病気になったり,狂ったりもする。悟った人は,普通に、自己の中心に居る。たとえ外しても,復元力があるので,直ぐ、もとに戻れる。まるで、モーターサイクルかヨットやサーフィンのようだ。

 普通の人は、中心と外れた所との中間に居る、と思えば良い。

完全に逸脱しては居ないが,危機的な状況にも、遠くはない。

世間と同化している人には、特にそう言える。

何らかの原因で、異常が起こると、もっと遠くに、離れていってしまう様な感じがしてしまう。

しかも中心が何処にあるかも解らない。何かに同化している時には、視力はないからだ。

ものであれ、観念であれ、人であれ、何かに同化すると、例えば、“恋は盲目”と言うだろう?

 その遠さは地域的、物理的、距離的な意味での“遠さ”ではない。

存在的な次元だからである。

一時的に発狂する事や,混乱や病気になること位はあるかも知れない。

だが、中心とはどういうものかが解れば、何時でも、元に戻る事が出来る。

それには、“無心”が鍵となる。

中心を知れば、只,生きて楽しめば良い。

自信も意欲も、自ずと湧いてくるからだ。

 禅の言葉に次の様なのがある。

“人は,平凡になって,初めて非凡になる”。

逆説的だが、自分の“平凡さに寛げる人間”が,真の、“非凡な人間だ”、と言う。

ところが、誰もが,皆,非凡になろうとしている。これこそが、凡庸さの何たるかだ。

一方、非凡な人程,平凡であろうとする。

この世は、面白いねえ。

凡人程、力んで,緊張して、無駄にエネルギーを消費して、非凡になろうとしている意図的であるか、或は、無意識であっても、何かに突き動かされていたとしても、頂上、中心,目標に達するという、何らかの欲望があるからだ。

この“非凡でありたいと言う欲求”は、一体全体、何処からやって来るんだろうか?

 “非凡であろうとする,凡庸な欲望”は,平凡な心(マインド)の根本的な,一要素になっている、といわれる。それは自我意識と言う仮説から起こってくる。それは自己を知らないが故の仮説である。それは真の自己の代用品だ。本物ではない。“一切皆空”。そこの所を理解して、洞察すれば,全体像が観えてくるのではないだろうか? 新たな理解から、新たな自分が生じて来る。不思議だねー。

 詰まり,“平凡である事が,この世で最も非凡である事”なのだ。自分の平凡さを生きればよい。自分の普通を生きれば良い。逆説的だが、そこに唯一の非凡の可能性がある。そこに、“ゼンス”が起こって来る。それは正しい訳でも、間違っている訳でもない。

“真実は、是非に及ばず”

 それは、良いとか悪いとか、人の考えや判断を絶している。人、それぞれ、生き方も、在り方も、考え方も違う筈だ。平凡に決まった形というものは無い。自分なりに,生きたい様に生きれば良い。それがその人の平凡さ、普通と言うものだ。
 形なんか決めないで欲しいね。形をきめてしまったら、生は死んでしまう。生に気付けば、一寸した“悟り”でも、まるで、新しく生まれ変わった様な気がしてしまうかもしれないね。悟りとは、中心の一瞥だ。全ては明瞭になる。初めて、ヒマラヤに行ったときのようだ。細胞が全部入れ替わっちゃうかも知れないね! もう笑うしかない!

(以下、後記事ゼンス オブ ジョイ(Zense of Joy)後編に続く)