2007年8月23日木曜日

ストーンな石達 後編

 “仮説”とは、それがどんなに素晴らしく見えようとも、リアルなものではない。だが、仮説は、映画や小説、芝居や演劇なら何の問題も無い。空想や想像ならばそれで良い。要は適材適所であれば良い。さすれば、この世に否定するものは何も無い、全て良い! それは、楽しみであり,遊びだ。だが使い方を間違えると,大変な事になる。世界中が混沌としてしまう。芸術とは、華麗なる嘘、仮説なのだ。だから、深刻になる事は無い。

 仮説、ホワイ・ノット?
 人は、始めから、虚偽だと知っているから、戦争映画
でも、時代劇でも、深刻にもならず、逆に、安心してみられるのだ。特に平和な時には,戦争ものや,アクションものが面白い。“必殺”でも,“ターミネーター”でも面白く、安心してみられるからだ。そう言った仮説は,誰しもが,歓迎する。楽しめれば、面白ければ良いのである。感動できれば素晴らしい!

 “意味”と“真髄”とには、明らかな違いがある。“意味”とは,はっきりと表に現れている事、表面的な事。説明可能な事。上っ面と言ってもいい。世間や学校で教えてくれる事、枝葉の部分である。
 一方、“真髄”(スピリット、エスプリ)は、と言うと、隠れているものの事だ。根の部分である。言葉で説明が不可能な無形のもの。樹木で言えば、根っこの部分だ。意味を、体とすれば,真髄は、魂やハート、意識、根の部分にあたる。“意味”は,知性で,頭でも判るが,“真髄”を理解するには、頭では無理である。魂やハートが必要だ。それぞれ、役割が違うのだ。頭は、頭が役に立つ所、浅場で使えば良い。だが、頭は,意識の深みでは役に立たないのだ。美味くフィットさせれば良い。適材適所だ。

 例えば、味噌汁の椀でビールを飲んでも美味くはないだろう? ビールは,冷えたグラスで飲むのが,ビールへの礼儀というものだ。それが“美味い”という事に繋がる。セッティングが大事なのだ。只,充填する事では,力は生じて来ない。怒りや憎しみが生じたとしよう。このタントラ(技法)は、感情的な人には有効だ。

 怒りや感情的な何かが起こった時、“その煩悩を、押さえたり,止めたりせずに,何の判断もせずに、気を逸らさずに、ただ、眺める。”普通は、誰しも、理性で抑制しようとするだろう。

だがそれは解決策とは言えない。何れ,にっちもさっちもいかなくなるときが来る。

只,それを眺めている。何も判断を下さず、無為が大切だ。

ただ、観察する。感情の推移を眺めてみる。

それだけで良い。

 気付けば、観ているものは、少なくとも、“煩悩、感情を観ている”もの“であって、少なくとも、煩悩や感情そのものではない”。と言う理解、に到達する。

誰にでも解るよね。

次に、今度は,観ているものに気付けば良いのだ。観ているものは,感情でも,怒りでも,憎しみでもない。既に、奇麗に、純粋意識と思考とに分離している事に気付く筈だ。

詰まり、問題は,感情の高まりや怒りにあるのではなく,“同化”してしまう事に問題があったのだ。

あるタントラのマスターに依れば,この世に罪があるとすれば,それは“同化”という事だ,と言う。

 ここで、容易に、感情を越えられる事が判る。

少し、“真髄”に近づく事が出来る、というものだ。

 越えてしまえば、やがて,その煩悩は解消する。実にシンプルである。

煩悩(マインド)とエネルギーとを分離してしまう。

 それは丁度、空に浮かんだ雲の様なものだ。雲の様に、実体がない。

そして、純粋なエネルギーとして,自らを解放する。

それはエネルギーが源泉に戻ると,無携帯になるという事を知っておくといい。

エネルギーは。方向次第で,怒りにも,憎しみにも,喜びにもなる。

共感や愛であったりもする。

だが,源泉へと入ると,エネルギーは,無形態のエネルギーになる。純粋なエネルギーだ。それは憎しみでも,愛でも,怒りでもない。エネルギーそのものは、無垢なニュートラルなのである。

そこには、既に、現実を主体と客体とに分割する“二元論”という“仮説”は、もう存在しない。そこに、怒りや憎しみの対象となるものも、存在しえない。

無いものは、どうする事も出来ないではないか?

コツさえ解れば、その間合いを見つけ、楽々と抜け出す事が出来る。

その応用で、煩悩をも変容させる事が出来る。

だから、“タントラに於いては、煩悩を否定する必要もない”。と言われるのはこの為だ。何でも変容できるからだ。煩悩すらも知恵に変容できるのだ。

 それ故,憎みたいものには,憎ませておけば良い。そういった人々は、他人を憎む事で、自分に叛いているのだ。何も解っていないのだ。

そして、彼らは何とか、人を怒らせようとする。

それは、心から気を逸らせようとする“謀”に過ぎない。

エネルギーの無駄遣いなのだ。

どうせエネルギーを使うのなら,喜び,楽しみ,愛に向けた方が,ずっと賢く、建設的で、素晴らしいと思う。

 人の興奮がピークに達し,或は、疲れきってしまえば,興奮も終わる。

だが、対象が無ければ、興奮は起こらない。起きようもない。

若者や、エネルギーが、満ちあふれている時には、興奮も悪くはないが,疲労度は大きく、生命力も奪ってしまう。アドレナリン型の快感の特徴だ。

 一方、悟りのエネルギーは、一寸、次元が違う。意図的にはどうする事も出来ない。何故なら、容易の出来ている人には、エネルギーの方からやってくるからだ。

それは、途切れる事の無いエネルギーの流れである。

最近では,ベータ・エンドルフィンとも呼ばれるが、大昔から“アムリタ(甘露)”と呼ばれ、悟りの一環として、今、に伝わっている。

あたかも,“永遠から湧きいずる泉”のようだ。一切の限界を超えて,自然にわき起こってくる。それは,何か人為的に造り上げたものではない。

 人は生まれ、生きて、やがて死ぬ。

そうなれば、死は必然。病気や怪我や、嫌な死に方はしたくないけれど、死を怖がる事も無い。避けられないものを、恐れても仕様がない。

その事を深く理解したら、死を克服した事になる。執着心も克服できる。

一切皆空、怖いものは何も無い。そこから,生は新たな意味を持ち始める。

 “生は,死を恐れぬものにのみ、与えられる”と言う。

そして、“真実は,勇気あるものに,喜びは、孤独を苦にしないものに与えられる”、と言う。

“生の真髄”とは“逆説的な理解”を通して、初めて理解し易くなる。

生は非論理、不条理、矛盾と見えるのはその為だ。

自然の物事は,常に一方の極から、反対の極へと変化しつつ,循環している。緊張しているものは緩み,有り余るものは減り,空虚なものは満ちてくる。

 ストーン意識は、同時に,現代で根本的な問題となっている“自律神経系”の制御が可能となる。

病気を治す力は、健康体である場合,元々,誰にも,動物にも、植物にも、その“復元能力”が備わっている。健康である事の、根本的な鍵は,“意識的な心と無意識の心とを、繋げる通路を開く”という事なのだ。其所から意識も目覚め,自律神経も機能を始めるのだ。全ては繋がっている。

 この通路は、普段、目覚めた状態では、閉ざされているが、普通、“トランスやハイ”と呼ばれる。この意識の変化した状態に於いては、通路は繋がっていて,その時、人は解放されている。

だからハイなのだ。

それ故、中空の竹の如く、“繋げる通路”を持っている人には、問題が少ない。

たとえ、外的な問題が生じても,苦労が少ない。

その為に、重要なのは,“脊髄”である。そこに肝心な、シルヴァー・コードという意識の根源、これは物質ではない、が存在するからと言う。

その中心に、不可視の深い神秘が生きているのだから。

ここにタントラの基本がある。それが、ヒンドウー教、仏教の根本も在る。

とすると、ヒンドウー教も仏教も、タントラのヴァリエーションという事にもなる。

 “魂とは何か?”と、問われても、生まれたときから一緒なのに,答え様がない。

丁度,魚に“海とは何か?”と,問う様なものである。

たとえ、魚に言葉が話せても、答え様が無い。

時間とは何か? 答えられるだろうか?

愛とは何か? 定義したとたんに、それは死んでしまう。

愛、慈しみ、それは生のエッセンス。無因のエネルギー。

ハートのチャクラに感応し、用意の整った状況に現れる、不思議な力。誰も、それを所有する事は出来ない。

それは、非常にデリケートなエネルギーの流れなのだ。誰のものでもない、宇宙的に流れているエネルギーなのだ。

もし、石と、真に触れ合う事が出来たら、何とでも、生き物とでも、人とも触れ合える。そこに,磁気が起これば、エネルギーが流れて来る。

 大きな樹もあれば、小さな草や花もある。背の高い樹もあれば、低い灌木もある。

だから、どうだと言うのか?

それぞれが、それぞれのあり方に満足している。

生に於いては、比較という物差しはナンセンスだ。

それは,物にしか適応しない。だが、生はものではない。

人も自然も、個々として完全に独立しているものではなく、何処か見えない所で、何らかの繋がりがある事に、気付いていたい。

 大切な事は,人の無意識の中に在る“心底の能力”である。

それは、気付かない人も多いが、自然な人なら誰でも持っている“力”である。

“テレパシー”もその一つだ。

それは,“同時に,他の人と同じ考えを、同時に持つ事”だが、無意識の体験として,割とだれでもやっていることなのだ。様々なブームとよばれる現象もその現れのひとつだ。

だが、多くの人は、それに気付いていない。

 この種の意識の中へ入っていく事を通じ、人と人,人と自然のダイレクトな、コミュニュケーションが生じ、先ほどの、ラトナ・サンバーヴァの“共有意識”が生じてくる。直感の力に気付けば、やがて“共有意識”、言い換えれば、オアシスにも気付く様になってくる。

個人的には,直感力、知覚力、そして、自律神経の制御、ストーンな意識、この共有意識という事が、地球全体に取って、今、根本的に大切なのだ。

物質を非難する気はもうとうないが、多くの物質文明の発達した国の人程,自然な人としては、歪んで、退化してしまって,危機的な状況なのだ。

 最も根本的なところに於いては、人は全て、民族、肌の色,男女の差別を越えて、意識レベルでは、“共有意識”が認識されている。

意識を共有できるのだ。多くの原始宗教は、そこに基盤を置いている。

それは、集団的無意識に関する事なのだが,無意識の在る次元に於いて、自我意識が消え,自他と言う垣根がなくなった時、時間や空間の制約を受けなくなる,“意識状態”に入っていく。其れは、人の本能的な,無意識からの願望なのだ。

一種の,陶酔、神聖舞踊、音楽、茶会、集団瞑想、集団酩酊、マリワナ・パーティー、ロック・コンサート、フルムーン・パーティーがある。

人が人である事を維持する為には、当然起こって来る。

本来の宗教が,関わって来ていた事なのだ。

それが、文化の基盤と言ってもいい。無意識のうちに気付かなくとも,多くの人は、多少なりとも体験しているのである。

 個々の違いや、あら探しをするのではなく、“共通するもの”を見つければ良い。

それが世界をつなぎ止める、という事なのだ。それは頭から,ハートに降りて来るという事だ。

瞑想すれば、何れ判る事だが、命というものは“一つ”であって、それをあらゆるものが。“共有している”という事を知っておきたい。

これは、仏教の、タントラの、“大いなる悟り”である。

見かけ上はともかくとして、根源を知れば、個々に独立して“命”がある訳ではない。

 華厳経に依れば、もともと、そこには、無限に繋がっている関係性があると言う。

時には、同調し、シンクロニシティー、共時性が起こったりする。

そんな経験をした事は無いだろうか?

全てのものが一つに繋がっている以上,好き嫌いはあるにせよ、敵も味方も無いではないか?

それは、天然のインターネットと言ってもいいかも知れない。その事に気付く事が“知恵”と言ってもいい。“独創性”と言ってもいい。

その事は、イスラムの人々も、シャーマニズムの人々、ネイティウ゛な人々も知っている。

 平常と違った意識に到達すると、自分と対象、或は対立している事柄との関係性が変化する。

この体験は、ストレートな観念、死物を一掃するには、充分な力を持っている。

これは、とても建設的で、それを通じて、様々な問題を解決する。

それは、自我(エゴ)のマインドが造り上げてきた、現実に対する、概念、偏見やフィルターを取り去ってしまうからである。

現実を初めて、偏見なしに、“直”に見る事になるのだ

 例えば、これは、禅の“公案”にもなっている事だが、“ガチョウを、その身体よりも小さな窮屈な瓶に、無理矢理、押し込めてしまう”様なものだ。

窮屈なんてものではない。

では、瓶を壊さず、如何にして、ガチョウを瓶の外に出すか?

これが公案である。

 無意識であれ、なんであれ、人は自由を求めている。苦はつらいからだ。

生きた心地がしないからだ。

“自由があれば,苦は消える”。それらは両立しない。

 “グース イズ アウト!”、ガチョウは、(瓶の)外に出ている!

 禅に於いては、言葉よりも重要なものがある。言葉は補佐的なものに過ぎない。

禅は、“始めに無言ありき”の、探求の宗教である。

世界を変えたければ,まず,“座れ”、という。

座禅と言う。

 只、座れば良い。

 この、只、座るという、簡単な事が、この世で最も難しい事なのかも知れない。

只,座る事もまともに出来ないものに、何が出来るか?と、いう事でもある。

ただ座っていても、普通の人は、無心でもなく、腹が据わっていないから、旨くストーン出来ない。まともに座る事すら出来ないでいる。まずは、重力の作用に気付くことである。

 座禅は、垂直、縦軸に沿って、重力の働く方に身体を添える。

まずは、重力に沿い,重力に委ねるのである。

垂直線は、身を重力に委ねつつ、一定の緊張を保ち、しかも寛いだ,安定した静の形である。瞑想、目覚め,気付きの相である。

座禅は“縦軸”、背骨を垂直に立てる事に意味が在る。それが中心軸となる。

そこから,宇宙観が生じ、空、中心軸、人、自然、世界のあらゆるものへとなっていく。○,△、□の働きが認識される。

時空間の因果関係が転換される可能性が、初めて起きて来る。

あらゆる物事は,それが越えられて,初めて対応が明らかになって来ると言うものだ。世界は越えられて,初めて,自分に取っての世界となる。

世界には中心がない。だから何処でも,設定して中心にする事が出来る。

幾つもの中心が出来て来る。中心と中心とが交互に変換されて,一見めちゃくちゃのようだが、トータルでは,不思議と調和が保たれている。

人はそんな風にして、この多種多様な,折り重なった世界と言う,響き,煌めき、生起と消滅、発展と衰退を見守っていく事になるような気がして来る。

 禅やタントラの瞑想者は,“縦軸”を媒体として,自在を知り,そして、それを得る事になる。そこを生き,食べ,歩き,不思議さ,素晴らしさ、様々な物事に出会う。垂直方向に,昇ったりも,深く潜航するのも自由である。

だが、気付いた事がある。

 この意識の宇宙に於いては、上昇と下降とが、何処かで、出会う点がある。それはスリリングで,エキサイティングだ!

恐らくは,それはメビウスの輪の様なものに沿っている通路なのかも知れない。

チエも力もここから生じて来ると言う。

エッシャーの絵や、インドネシアのガムラン音楽の様に、昇り詰めて、昇りきったと思った所が,底であったり,潜航を深めるにつけ、どんどんとハイになって来る。不思議な感覚を感じてしまう。まさに“妙”だね。 クンダリーニもチャクラも思うがままになる。疲れたら休めば良い。

仰臥の形は,“縦軸”とは対極に在る。言ってみれば“横軸”だ。詰まり人の中には,既に、両極が含まれているという事だ。すると,食べたり,生きたり,歩いたり,働いたり,遊んだり、旅をしたりというのは,“斜めの軸”という事にもなろうか? Xという事になる。しかし,それら全ての軸が交わる点、自分の中の何処かと交わる点が、自分の中の、何処かしらには必ずあるものだ。だが,基本は,縦軸に在る。縦軸に沿い、重量に沿い,しかも意識レベルでは、重力をも越える事も可能となる。一度、コツを掴めば、ゆっくりと、少しずつ、様々なことが起こり始める。

世界が変わり始めるのだ。

 途中、マインド(心)は、習性として、せこく、様々な仕掛けを仕掛けてくる。だが、根気強く続けていれば、いつかは、雑念は消え、やがて、日は昇って来る。旨く、ストーンできれば、これ以上ない満足感、自由が訪れる。こんなに素晴らしい事はない。

眼を少し細めて、半開き位が丁度良い。鼻先を見つめる様にすると、光が一点に集まり易い。色々試してみて、ベストな状況を見いだせば良い。

本来、教義はどうでも良い。

言葉や、教典や、知識や文字からは,悟りは得られないからだ。

只,入口までは連れて行ってくれる。

“光を聴き、音を観る、又、楽しからずや”。

 ブッダはこういったと言われる。

“蜜(甘露、アムリタ)は降り注いでいる。だが,瓶を逆さまにしておくものがいる。”蜜は絶えず降り注いでいるのに,人々は、瓶を逆さまにしておく。

 満たされる為には、瓶が空っぽである事が条件となる。それが満たされうる空間となる。

“空性の理解”はあらゆる理解への根本である。それが、“心の本性”となる。

何かに、背を向けている限り,理解は訪れないものだ。

何故なら、それが何であれ、“理解”という事が,起こって来ると,面白い事に,“支持と、それに反対する両方が消えてしまう”。人は、心から納得するのだ。

だから理解ということが起こると、すると、人は社会に,反目等しなくなるのだ。

 空は何かで仕切られる様なものではない。あらゆる所に行き渡っている。

果てもない。瓶の中の空間も,一時的に,瓶の形に依って仕切られてはいても、外の空間と全く変わらずに,繋がっている。

 そこに光明も,思考も,太陽も月や星も現れる。

全ての始まりから、この境地は,妨げられる事も無く,あるがままで,完全で,しかもそこから,“無限のエネルギーの現れる潜在性を”をも、現している。

 空っぽの器でなけれは,何かでいっぱいになっていたら、甘露は、注ぎようがない。そして、瓶の口を上に向けなければ、神秘の慈しみは判らないままだ。

何ともったいない!

意識は、全宇宙の“光と闇の空間”に開いていて、しかも前向きである事。

それがストーン意識の究めて大事な所だ。

それは、決してネガティヴなものではない。寧ろ,最もポジティヴな状態であると思う。

 だが、ゴータマさんの様な人は別だが、人はいつでも,澄んだ、ポジティヴでクリアな状態で居られる訳ではない。

日常的に,様々な事,思考も,行為も在る。煩悩も湧いてくる。

私達のパイプは,無意識や不安、自信の無い事,過去の影響,マインドの動き、あれやこれやで、いつも詰まっている。 人が最高の状態に在る時、無選択な時、真に生きている時、パイプは,“通々”に開いていて,神秘のエネルギーが、流れ易い状態になっている。この状況を良く覚えておくといい。

余裕がなければ、知恵は生じて来ない。そして、そこに閃きは起こって来る。

言葉で言うのは簡単だ。要は,複数の状態を美味く、調和するようにすれば良いのだ。その為の、最高の技は,“無為”と言われる。それはあらゆる、行為の基本となるものだ。無為なくして。真の行為はないと迄言われる。最高な状況へと“復元するコツ”を見つければ良いのだ。それは自分にしか解らない。他人にはどうしようもない事なのだ。

 ラヴ&サイレンス(love & silence)、それらは、宇宙の深みに於いて、やがては、出会うもの。そこで統一された意識(インテグラルな意識)、詰まり、“本当の誠実さ”こそが,古来から、“賢者の石,”と呼ばれている。

“光を好み,闇を好むものは,万物の姿を体現している。それは全宇宙を永劫不変に,自らの中に宿している。”、と。(老子、道徳教、28章)

昼下がりの,ストーンなラウンジにて…