2007年5月11日金曜日

ものの心

 ものはものである。AはAであって,Bではない。一見理論的で,正しい様に見える。部分的には正しいかも知れない。だが、客観的、分析的な、知的なマインドだけでは、物の実質は見えても、“ものの心”までは見えて来ない。左脳的発想である。実用的な、事実的次元ではある。

 “ものの心”、それは、知覚的、感覚的に“もの”を通して、“ものの本質や背後に在る何か”を見いだそうとする美学と言っても良い。“粋”という言葉も,本来、“生き”、と“粋(エッセンス)”の意味を持つ、日本人にとっての“日本独自”の美意識である。意味は全く違うが,この美学と何処かで繋がっている様にも思える。

 日本的なアプローチとして、“本居宣長”の“即物的思考法”というのがある。これは、当時の中国式の抽象的、概念的なアプローチとは一線を画す立場であろう。
それは、“物に直に触れ、その物の心を外側からではなく、内側からつかみ取る事”とされている。まるでタントラや禅を思わせる。


 外側には見かけしかない。それはそれでいいが、人が確信できる現実は,たった一つしかない。それは“内面の真実”だ。内側に何らかの確かさを見いだした時、初めて、信頼が起こる。充実感が起こってくる。
 そして、そこから、世界が変わり始める。前記事「水、水を観る」で述べた様に、見る側の意識を、内側にアップグレードさせ、その意識で,対象と対話する事なんだ。意識とは、光の事だ.内なる光。それは、前にも何度も述べた事だが、“光源なき光の事”だ。普段,思考や想い、自我の意識や、知識や物質に囚われて,ごっちゃになって、純粋意識(シヴァ)を直に観る事は,瞑想以外では、殆ど不可能なのだが…

 古来から,漢字が入ってくる以前から,日本では、“もの”には二つの意味が在ったと言われる。
ものものしいかも知れないが、それは,物や者、という意味の他に、霊(もの)という意味が在った。“スピリット”である。
この点に関しては,昔の人,古代人に比べれば、本来の人間としてのの能力は、現代人の方が,退化しているのかも知れない。それは,豊かさゆえの横着さなのかも知れない。だが,潜在能力として,幾分かはのこっている筈だ。

 “内面の真実”とは、所謂、“物のあはれ”を知る事とも言われる。
これは前述の事実的次元とは正反対の次元、実在的な次元となる。
物事の、事実的、概念的な把握、とは対照的な認識方法である。
アナログ、デジタル,何であろうとも,時代が変わろうとも,変わらないものがある。
それが、原点、内面の真実だ。

 さて……。
日本では、“物心ついてから…”、という言葉がよく使われる。
それは本来、この認識方法は、“人や生き物やものの心が、判る様になってから”という意味がある、と聞いた事がある。
昔の日本人は,今と違って,どんな身分であっても、古い観念や封建的な社会制度に縛られ、自由も少なく,窮屈な生活を余儀なくされ,栄養や医療の点でも、今とは違って及びもつかない事であったろう。
平敦盛や織田信長で有名になった、“人生50年”と言う“謡”の如く、今と比べてみれば,短い人生の中で生き抜く為の“深い知恵”を浸透させていた様に思えてならない。
自然と、そういう一見、表面的ではない知恵が浸透していたのではなかろうか?
自然と文化から生まれた,“粋”な計らいなのかも知れない。
“認識力がついてから”、と言った意味で、決していい加減な言葉ではないと思う。

 概念的把握の場合、どうしても、ものをものとして分析、分類して、全体性は失われ、対象を殺してしまう事になり、生き生きとした生命感は排除される。
そうなると,例えば、花は普遍的な意味での花でしかない。
リアリティは、観念的に,“花だから美しい”という様に、決まりきっている訳ではない。
それは、単に習慣的な、思い込みの言語にすぎない。
生きた言葉ではない。“なんだ、花か”で終わってしまう。
花を生物学的に分析しても、花は、瑞々しく、そして、生き生きとしてくる訳でもない。
花の“真の意味”は伝わって来ない。それは,文章の行間の様なものだからだ。

 花は“溢れ出るエネルギー”の端的な表明なのだ。それはエネルギーの開花、それが“花が咲く”という事の意味である。
エネルギーは、花弁となり、色彩となり、香りとなって溢れ出る。
花には、何の目的も、理想も、野心も無い。誰かの為に咲くのでもない。
花は、只、咲く。
この一見、単純で、自然の事の中に、生命と全宇宙が凝縮されている。
それが、生きている花の美しさであろう。
この美学、即物的思考法には、なんであれ,人をして“深い心の感動”を絶対視するところがあって、実に素晴らしい。
右脳的な発想からハート、四番目のチャクラ、“アナハッタ・チャクラ”に繋がってくる。

 私達が、何らかの興味を持って、意識的にその“ものの心”を知ろうとすれば、どんな物でも、生き物は勿論、花も樹も、生き生きと自分の実在を主張している事に気付く。
それが“焦点を変える”、という事なのだ。
そこに心の交流があり、生きる喜びがある。
本居宣長に依れば、「自然でリアルな(実存的な)感動を通して、“深く心に感じる事”の他に“道”はない」、という。そう言う生き方の出来る人を、彼は“心ある人”と呼んだ。

 ものを学ぶ事で、自分の心も学ぶ事が出来る。自分を学ぶ事は,“禅”を学ぶ事でもある。それは信仰とは一切関係がない。物に心を観るとは、“微細な波動の交流”なのである。“コミュニオン”と言う。
 一方、頭の次元での交流は、コミュニケーションと言う。普段、誰もがやっている事だ。
“コミュニオン”、それは、大きな意味での、慈しみ、愛、と言ってもいいかも知れない。自分の心を対象の物に映して、その反映(リフレクション)を観る事にも繋がってくる。同時に花の波動をも受容する。内面的な、合わせ鏡の様な要素もあるだろう。そこに交流が成立する。それは一方的な事ではない。
 鏡では、表面的な面だけが強く現れ、面白くないかも知れないが、花でなくとも、その物の個性が反映されるものや、使い易さ、機能、美しさ、或はスピリットを鼓舞するものならば、その反映そのものが、豊かなものとなっていく。それは、実に、神秘的で“粋”な遊び方だと思う。

 日本人に限らずとも、心ある人は,人や生物,動物だけではなく、“もの”にも心が宿る事を知っている。そこに、文化や美学、芸術、様々な可能性が生まれてくる要因がある。そうなると、Aの意味も変わってくる。物質的な意味もあるし,人との関わりの中で,生じてくる別の価値観も生じてくる。
 少なくとも、AはA’に成れる可能性を秘めている。BやCにだって、成れるかも知れないではないか? もしAはAであって然るべき、として固定化してしまったら、一寸、大げさだが、Aはそのまま、何の可能性も無く、物のまま死んでしまうではなかろうか? 

 例えば、コップがコップであるのは、そのものをコップに“する”からであって、若し“しなければ”、歯ブラシを入れても、ペン立てにしても、食品や小物の容器にだって成れる可能性を持っている。大昔とまでは言わなくとも、石を拾ってきて,何かに流用したりしたんだから。
先入観を取っ払って,何にでも転用したりする。
こうも使える,ああゆう風にも使える,として,無駄なく使える事を善しとした所があって、日本人は、もの造りや流用が、巧みなのだ。
本来から,日本人の特質は、自然信仰の民だからであるからかも知れない。
日本では“見立て”と言う。それは“風流な美学”なのだ。そうとは気付かずに,普段無意識にやっている人も少なくない筈だ。
“色々な、ものの見方が出来る”、ってことは、“柔軟な,生きている力”を持っているってことなんだ。
何事も決めてかからない。その辺が,粋でいいね。

 人や動物や生物は別にして、身の回りにあるものでも、人には何らかの愛着のある物があるだろう。些細な物でも、何故か気に入っている物がある。
シャツや織物、気に入った装身具もあるだろう。
それは、道具であったり、機械であったり、腕時計やカメラやコンピューターの場合もあるだろう。陶磁器や眼鏡、細工物、気に入った石や水晶、万年質やライターの様な物の場合もあるだろうし、自転車や車の場合もあるだろう。
“石も何時かは、ブッダになる”と言われるくらいだ。
有名ブランドであるとか,ないとか、金銭的な価値とは無関係に、それらには、その人の心を和ませたり、気合いを入れたり、夢や知を膨らませたり、安心させたり、寛ぎや楽しみを与えてくれたりする。
長年の愛着があって、“波動の交流”があって、そして、お互いに生きているから、愛着も増すのではなかろうか?

 聞いた話で、あるインドの人の話だが、庭にある全ての樹に名前をつけていて、毎朝、名前を呼んで挨拶をして回ると言う。時には、音楽も聴かせるのだと言う。
朝のラーガ等はぴったりだ。庭にやってくる小鳥や、家族の猫や犬達も楽しむと言う。
当然、樹々達もそれに答える様になってくるそうだ。全宇宙が感応する。宇宙的コミュにオンだ。
優雅な楽しみ方だと思う。

“人生の 極意たるやも 常緑樹”

 創造性ということは、自分がやり手になって、何かをする、と言う事とは違う。
それは、人の意識の質と関わりがある。
する事ではなく,在る,という事に関わってくる。
無論、四六時中とは言わないが、たまには、無心になって楽しむ事が出来れば、その創造性に繋がっていく。
それは、一つの瞑想法と言ってもいい。自分で工夫してみれば良い。
それは、決して深刻になる様な事ではない。
瞑想とは、自分を知り、その上で、楽しみをクリエイトするコツなのだ。