“ストーンなストーンズ(石達)”、と言うと、“重箱読み”ではないものの、何か変に聞こえるかも知れない。だが、ストーンという“トーン”には、英語の、石と言う意味の他に,古代ケルト的な意味で“寛ぐ”そして“地に着く”、“安心する”というニュアンスが在る。そこには、“無為の心地よさ”がある。それは、心を石の様に固くすると言うのではない。寧ろ、心を開くコツ、の様なものであろう。
心には、これといった形がない事を発見したのは、ゴータマ・ブッダだそうだが、形あるものは、何時かは壊れる。だが、心の様に、形がないものが壊れてしまうと、修復するのは大変である。
人は緊張すると、思考力、判断力を、大幅に低下させる。人は誰でも緊張するものである。誰しも、四六時中緊張している訳ではないが、時には、緊張も必要である。どんな事も、緊張も悪い事と決め込む必要は全くないが、過度にならなければ良い。緊張に逆らわずに、身を任せてみると、寛げる。集中力が増せば,結果的に緊張度は和らいで来る。
コツがひとつ解ると、次々と解決法が見つかるものだ。
要は、過度の緊張の中でも、自分の能力を、充分に発揮できれば良いのである。
習うより慣れろ、という事なのだろう。
ストーンには、他にも、“実質”、或は“種”、“芯(コア)”という意味も在ると、聞いた事がある。
意識がそこにあると、自ずとバランスが取れ、体全体がリアルな自然体になるという事だ。
これは実体験すると、凄い事なのだ。
それでも、根本原理(ダルマ)の方からみると、実に、当たり前で簡単な事なのかも知れない。スピリチュアルな探求は、面白い。
今では、真に知的な人々は、若者でも,年配者でも、既に、上っ面の、表面的な情報には、退屈し、興味がなくなってしまって居る。
時代はアクエリアス。そう言う次元に入りつつ在るのだ。無論、逃げたら取り残される。タントラや仏教に依れば,もし幸せになりたかったら,悟りを開くしかない,と言う。
新たな次元、それは、嘗ての人々の世界観が、今迄、する事に集約されてきたからだ。だが、人が存在する為には、“する事”の他に、“在る”という事がある。
それを忘れたら、生は意味を失ってしまう。普通、意識はしていかも知れないが、生の要と言っても良いのが、“在る”、という事なのだ。
“在る”、という事を通して、プロファウンド(profound)と言ったら良いだろうか、世界が深みを増し、意味が広くなって来る。自分という存在の意味が分かって来る。
自ずと、する事にもユトリや拘りがでて来るのだ。今はそう言う時期かも知れない。
心ある人にとっての、“新たな発見”の旅とは,新しい風景を見つけたり,秘境に行ったり、世界遺産を観光に行く事ではない。
例えば、医師や看護婦が脈を診る。
只、脈の数を数えるのではない。それなら子供でも出来る。
脈の質(クオリティー)をみる。
早かったり、遅かったり、不規則な場合も在る。血圧もみる。顔色や、眼の色、呼吸の質もみる。話をしながら、患者の“受け答え”をみる。様々な視点で見る。
同時に患者に不安を起こさせない様な、微妙な配慮もしている。単に物理的な物事だけに関わった労働ではない。信頼感を産む事が必要なのだ。これも重要な治療の一環である。
患者は、ものではなく、生きているからである。
安心感とともに、そこの所を、明確に、理由を説明すれば、聞くものは、腑に落ちる。ひとつひとつ丁寧に相手に伝える。時分の思い込みだけが先行してしまうと,肝心な事はないのも伝わらない。
要は,慈しみ。さすれば相手は信頼し、納得する。
ただ、闇雲に、お座なりに人生をかっ込んでいた様な生活をしていた人にとっては、革命的な変化が起こって来る。そして、誰しも、納得しない人生は送りたくないものである。納得は大切である。
心がそれなしでは、動かないからである。
まず、大切なのは、真の視力、“新しい見え方”を持つ事なのだ。
これが、今回の“テーマ”とする所である。
その為には,充分なキャパシティー、“空性”が最も重要となって来る、のは当然だ。辞書には載っていないかも知れないが、“ストーンと言うニュアンス”を知る人には通ずる、新しいが、古代的なニュアンスのある新語かも知れない。
気付きのある人なら、年配者でも、若い人でも知っているかも知れない。
“ストーン・ヘンジ”や、アフィントン、マールボローの遺跡の“ホワイト・ホース”で有名なイギリスには、古くから、ストーンという“目方の単位”があって.ケルトの時代から続いている。キリスト教以前からあった、紀元前から続いている、ケルトのストーン文化と生活とが密接に関係している。
1ストーンは約6.35kgである。人の体重”以外に使われる事は無いそうだ。
ストーンは、常に人に関わっている。
あなたは,何ストーン?
そこで、このタイトルは“寛いだ石達”ととってもいい。
ナヴァホ族の、深遠な言葉に“人は石である。石以上に石である。”と言うのを、聞いた事があった。
平常と違って、意識が変化した現実に、足を踏み入れると、物事を直に体験でき、新たな意味が観えてくる。
意外に思われるかも知れないが、人の知性とは、単に心の中で、思考を創りだしているに過ぎず、“現実に対する仮説を立てる事に”あって、自分の,たった今の、“リアルな精神の妨げにすらなっている”、という事実がある。
知識が心眼を遮断しているのだ。
多くの人には、もしやとは思っては居ても、“自我(エゴ)にとっては、受け入れがたい事”である
実際には、自我(エゴ)こそが、障害になっているのだ。
古い習慣に、観念的に仮説に慣れ親しんで、真実に鈍感になっているからだ。
石の中でも,クオーツ・クリスタル、水晶は、人と,明晰さを通して繋がり、より地球に意識を向ける様になり,又、地球の方も,それに答えてくれる様になってくる。水晶は、人の意識に、敏感に繋がるストーンなのだ。小一時間も、水晶と遊んでいると,自分のオーラが漂白されて,白くなってくる。意識もクリアになって来る。
ストーン意識、それは,今に始まった事ではなく、それに沿った研究が、とうの昔から既に始まっていたのである。様々な、イデオロギーや、過去の信仰の宗教の形式化、無意味さ、があった事に、人々の多くが気付き始めたのは,1970年代に入ってからの事だ。嘗ての古い習慣や認識、古典的な信仰の宗教の中には,全てとは言わないまでも、自然の流れを阻害するものもあって、どうにもならない所まで,行き着こうとしていたのであった。人々が“リアリティー”に目覚め始めたのは当然の事と言える。
論理、理論というものには、矛盾を認めない、という特徴がある。これは良いとか、悪いとかを言うのではない。飽くまで,性質、特徴だ。だから、矛盾が生じると、にっちもさっちもいかなくなって、壁にぶち当たってしまう。それ故、論理に同化している人は、あらゆる所に、無理にでも、“無矛盾”を見つけだそうとする。論理も理論も、矛盾のない所では、よく働くからだ。そう言った、矛盾のない“特殊な場”に置いては、役に立つ。だが、それはリアルなものに沿ったものではなく、人の思考モードにあわせているに過ぎないからである。気付いた事が在るだろうか?
それは、頭で作られたものだからだ。自然や,宇宙,そして,生とは縁もゆかりもない。それ故、頭で起こった問題や、組織のシステムや、数学の難問を解くには良い。だが、生は、論理から見れば、矛盾に満ちている。所業無常だ。丁度,陽に照らされた雪の様なもの。生は一貫性を欠いている。そして、生に於いては、双極性、対極性が、磁力を産むのだ。
一方,逆に虚偽は矛盾していない様に見える。混沌と秩序。それは人にとって、葛藤、矛盾として現れて来る。“生”は数学の様には出来ていない。生は何ものにも合わせていない。ただ自然であるだけだ。つまり,理論や理屈でもって全部割り切ってしまうという事は、実に簡単だが、元々,矛盾その物である人間が作った社会の矛盾、苦悩、傷といったものは、広がっていくばかりになってしまう。
生に於いては、まず、矛盾を認める事で,矛盾は緩和されるものなのだ。全て理論的に,押し進めようとしたら、人の世界というものは,実に味気ないものになってしまうのではなかろうか? 物事,簡単に白か黒かで判断できない所に,生の“妙”たる所以がある。
生に於いては、一+一が二と決まっている訳ではない。一であったり、三や四であったりもする。生の“心地よさ”の秘密は、その神秘性故に在る。それは,論理から観ると、理屈を越えている。感性豊かな人には解る筈だ。生は矛盾に満ちている。非論理的、矛盾的。生そのものが、生きるべき神秘なのだ。
相矛盾する二つ、或は複数の多層的な潮流を互いに対流させつつ、その間合いにひねりを入れて、転換していく事も可能である。生きるには“知恵”がいるのだ。学校では教えてくれない。学校で教えるのは、お座なりの、社会的な、表面的な知識であって、生ではない。生については誰も教えてくれない。生は、正しい訳でも、間違っている訳でもない。現実を直に知覚する為には、知性が起こし続ける“思考”の流れから、一時的であるにせよ、自らを解き放つ方法、“知恵”を身につける以外に方法はない。それは、洞察であって,寧ろ、反思考と言える。要は“頭を落とす能力”の事だ。
人は誰でも,“至福か苦悩か”と問われれば,大抵の人は“至福”を選ぶ。
よほどの人か、へそ曲がりの人でない限り、決して,“苦悩”を選ぶ人はまず居ない。そこに逆説が生じて来る。
というのは,“至福”とは,“無選択な何か”だからである。
それ故、“至福”を選ぶとすれば,それは選択であって、そこに、必然的に“苦悩”が生じてしまう。自分から苦悩を起こしてしまっている。
“選択”が生を分割してしまうからなのだ。選択に漏れた部分が、自ずと生じてしまう。
たとえ苦を選択したとしても,状況は変わらない。選択、そのものに問題があるからだ。生とは,一つの全体、しかも動きなのだ。
何かを選べば,その否定されたものが,どうしても、顔を出して来る。
行き過ぎた行為は、往々にして、反対の結果が生ずる事がある。
だが純粋で,何の拘りも無くなった時,全力を出し切った時、結果は兎も角、その時は特別だ。
無選択で,選ぶ事無くあれば,至福の方からやって来る事がある。
今まで,気付かなかった、何か新らたなものが、何処からとも無く、湧いて来る。
そこに、ストーンな意識の可能性が生じてくる。そうしたら、その幸せを、楽しめば良い。
それ故,“至福か苦悩かの選択”ではなく,“選択か無選択か”の選択というおかしな事になってしまう。
人生の根本部分が,頭だけではどうにもならないのは,その為なのだ。
考えてもみて欲しい。もし、人の人生が、意志と知性とで固められたものだとしたら、又、何らかの目的や願望成就の為だけだとしたら、それは、きっと恐ろしく詰まらないものになってしまうかも知れない。又、人の幸、不幸も、物質文明だけに負っている訳でもない。
無論,日常的に、小さな問題では,常に選択を迫られる。
誰しもが、“選択に次ぐ選択”という毎日を送っている。
それは仕方が無い。否応無しに追いまくられる。
それは、何らかの欲望や、願望、目的が在るからなのだ。
日常とは常に“何らかの選択”の連続のようである。
現代の様に、多様な、選択肢が増えているのは、それで結構だが、肝心“要”の“無選択”を忘れてしまう事にもなる。“表層意識”の陥り易い、落とし穴だ。
生の真髄を観る時、理解したい時、生全体を観る時,チャージしたい時、大きな視野に立つ時、真に寛ぎたい時、選択は、全く無意味となる。
無選択こそが、重要となって来る。
何も排除しない。インテグラル、総合体,トータルとはそう言う事だ。
時には、選択に次ぐ選択から、一歩退いて、無選択で居られる時間を持つ事は、生きるに就いて、重要な事なのだ。
“間合い”に気付く、という事だ。
その間合いを少しずつ広げて、味わってみる。その間合いを、日々の生活の中に、タイミングよくとけ込ませる。それが瞑想と呼ばれるアートだ。
選択は、部分を取り出し、残りを排除してしまう故、完全なものではなくなってしまうからだ。合理性の問題点は其所にある。
真に観る為には、無選択が鍵となり、それが、ストーン意識となる。無論,無選択の状況ばかりが続けば,同じ様なことが起こって来る。
スローであれ,テンポの良いものであれ、生には、リズムが必要なのだ。
リズムがなければ,生は一面的で、のっぺらぼうで、深みのないものとなり、生は、本来の意味を失ってしまう。
シヴァ神が,鼓(ドウンドウ−ミ)を持っているのは、その事を示唆している。(前述のブログ“能と世阿弥とドウンドウ−ミ”を参照の事。)
インドでは、リズム(ターラ)は,音楽の父と言われている。
世界の、主だった深遠な宗教や思想、哲学と言ったものが,個人(シヴァ、ブッダ、クリシュナ、ムハンマド、ダルマ、老子、ジーザス)の“意識の変化した状態、頭を落とした状態”から生じたものである事は,万人の知る所である。そこに彼らは、オアシスを造った。
オアシスばかりにいる訳ではないが、人には、時に、オアシスが必要なのだ。
それは、何らかの、些細な事かも知れないが、“気付き”という一滴の雫から起こっている。
プシュカル(タール砂漠、ラジャスターン、西インド)の湖には、そんな、ブラフマ(創造神)の伝説が伝わっている。他にも幾つも在ろう。
直感力に優れたブッダや老子のような天才は,有名無名に関わらず、芸術にしろ、何にしろ,夢,瞑想、白昼夢といった、意識の変換した状態としばしば結びついていた、かのようである。嘗ては、一部の人のマニアックな探求であったものが、今では世界に浸透し始めたという事なのだ。誰もが知りたがっている、昨今である。
クリスタルを始めとする“パワー・ストーン”には、人の体にある、意識センター、チャクラとも心霊的に密接な繋がりがある。それは電気ではないが、電子の様な、霊的な繋がりだ。それは意識の進化,成長と発展に関わり,相互的な関係を持っている。水晶のパワーは,意識の深みへ至る,“触媒”になる。
水晶と遊んでいるうちに、何時か、自然に、自分の内側にオアシスが出来てしまう。
インドの伝統、禅の瞑想は、人の意識の最深部まで、くまなく、リアルな探求が進んでいて、そこから新たな理解が生じてくる。今や、インナーサイエンスと呼ばれている。物質ばかりに、かまけてきた国々の人々は、只、“唖然”としたのであった。
そこに,世界的に、“生の探求”が起こってきたのである。
言葉というものは,時として全くの役立たずになる。
人は過去を悔やんだり、過去の知識を彷徨ったり、未来を空想したり、夢を見たり、先の見通しを立てる事で,何となくという、惰性の内に、リアルではないかなりの部分を消費しているからである。マインドや言語や言葉は、他者と関係する為には必要だ。習慣性、観念、思い込みは、副産物として、当然現れて来る。こう言った、“無意識の偏見”は、我々の知覚と知性との間に、フィルターの様な働きをして,リアルなものを見えなくしてしまう。
その時、人の“見るものの中心”となっているのは“記憶”である。
記憶を中心にして、判断の基準にして、何かを見ている。
それは過去からの投影なのだ。
その事だけを取り上げても、それは一般的には実用的ではあっても、“リアルではない”事に気付くだろう?
その時、自分の中心は、”生きているものではない”、事になる。
それは、リアルな見え方ではない。その事を,人々は,日常性とか,普通とか呼んでいる。それ故,何らかの“禊”が必要になって来るのだ。
“世間並みという保護色”を通じては、何のヴィジョンも、英知も、生き生きとした新鮮さも、伝わってはこない。一見、それが普通のようでも、普通とは言えない。普通とは、“宇宙の普遍性が通ずる”、という事だからだ。
閉ざしている人は、普通とは言えない。
世間並みに合わせて,ただ、眠りこけているだけだ。
知性というものは,誰しもが持っているものだが、よくよく気付けば、それは心の中で“思考を創りだす、仮説を造りだす”、という事を習慣的にやり続ける“思考機械”に成り果ててしまっている事が解って来る。
それが、所謂、普通である。勿論,知性は、役には立つ。
道具としてはいい,最高の道具と言っても良い。
だがそれだけでは,生きる事に“直”に触れないばかりか,全くリアリティーがない。
何かの折り、ふと、我に返ると、思考にかまけて、周囲の風景等、全く見ていなかったり,樹々やそよ風や,自分の呼吸、鳥の姿や声にも気付かなかった自分、思考に囚われた、無意識な自分に、気付く事がある。
“何をやってたんだ”と,自問自答する様な事が良くある。
マインドが消えれば、未来も過去もない。自己の原初的な純粋さ、無垢の中に根付いている事に気付く。
又,突然,闇の中から,鮮やかな色彩で,様々な,考えもしない,思いもつかない,時にはサイケデリックな物事が,ヴィジョンとして沸き上がって来る事もある。生はエキサイティングだ。
極彩色のチベットのマンダラや、プリミティヴな原住民のサイケデリックな絵画に共鳴したりもする。一見、無彩色な墨絵の山水画や,ひょうたんナマズの様な、墨の一筆描き、禅画のセンスに心を奪われたりもする。色々な自分があることにも気付く。まるで,万華鏡を観ているかの様でもある。
しかもそれぞれにチャント対応できている自分、センタリングが出来ている、という事もある。
一体全体、“無意識な自分、と、気付いた自分”、何処がどう違うんだろうか?
少なくとも,この両者、そして様々なものが入り組んで、自分という、宇宙システムが成り立っているのではないか、と思えてくる。本来の純粋な意識とはどんなものなのだろうか?
その新しいリアルな次元は、“沈黙の心、静寂の心”、と呼ばれ、それは常に“現在”にあり、真に生きている。
そこには、過去も未来も無く、“今”だけがある。
本当に存在するものは、“ここ”という次元にある。
それは、次元であって、場所を意味するものではないが、誰の中にも、感応するポイントが在るはずだ。英知、仏性(ブッディー)とは,その“感応する能力”のことだ。前置きがとても長くなってしまったが、それを基点にして,石の聲でも聞きながら、ぐるっと、“ストーンな意識の宇宙”を散歩がてら回って観ようではないか?
“ウパニシャッド(ヒンドウー奥義書)”に依れば、神々の中の神、“ブラフマン”の姿として、石、ストーンも、その“現れ”と見られている。(*一方、“ブラフマ”は創造神の事である)
多くの、ヒンドウー寺院や祠も、シヴァ・リンガも、石や大理石で造られているのもその為かも知れない。
永く、インドにいると,ヒンドウー世界の石の建造物は、何ともひんやりして気持ちがよい事に気付く。石の近くには、プラーナ(生気)も濃い様に感じる。
石にはその事に関わった、不思議な秘密があると言う。
インドの“心地よさ”、“南アジアの心地よさ”は,日差しが強く暑い国なので、暖かいのではなく,涼しさ,ヒンヤリ感が、重要になってくる。“クールネス”、これが人々の快適さの共通認識となる。
丁度,美味いカレーを食べた後の様な,涼しげな感じである。
それは、寒いのではなく、内面から、気持ちがすっきりして、“爽快で”、しかも充実して、落ち着いていて、気持ちがよい。ストーン意識と言って良い。
“ブラフマン”とは,サンスクリット語で“拡張する要素”という意味、だと聞いた事がある。
それは、ものでも、形がある訳でもない。
眼には見えない、生のエッセンスの事である。それは“静の中の動、動の中の静”とも言える。
動く車輪と、不動の車軸の関係を思い出すといい。両方あって初めて機能する。
生命力、神秘という不思議な力を現している。
だが、“ブラフマン”に“神”という意味は、何処にも無い。
この“神”と言う言葉は良くない。
どうしても、誤解を生むからだ。ゴータマ・ブッダが嫌ったのはその為だ。
“神”より“生”の方が良い名前だと思う。
ヒンドウー教では、“生ある所にカミは在り、生なき所にカミはなし”と言う。
“生より他に神はなし”。それは、ただ、自然である事だけだ。
そして,神と生とは“同義語”である事が解る。
普通の人には,“超自然”と映るかも知れないが,それは観念故に産まれた言葉だ。超自然も自然なのだ。あくまで“生”は“自然”なのだ。
ただ“感応する能力”に欠けているだけの事だ。
ヒンドウー、仏教を問わず、ケルト、アメリカ・インディアン、アボリジニ、あらゆるシャーマニズム、日本を含めて、世界中の石、ストーン信仰には、石を通じて、そこに“見えるものを越えた深遠な何か”があるからだ、と言われている。
石、ストーンに関わりの深い“神々,ブッダ,如来”は人気も高い。
水瓶座の時代という事もあり,世界的にシヴァ神の人気が高い秘密もそこにある。
ストーン(ラトナ)と言う名を持った仏教の如来もいる。
チベットやネパールの金剛乗仏教(ヴァジラヤーナ)には、五人の重要なブッダ(パンチャ・ブッダ)が居り、マンダラの中心になっている。誰でも知っている、有名なのは、大日如来(ヴァイロチャーナ)、阿弥陀如来(アミターブ)、が知られているが、今、重要な如来が“ラトナ・サンバーヴァ”、和名は、“宝生如来”と言う。
平等生智、共有意識の徳をつかさどり、南方の月輪に位置すると言われる。
午年の守護仏でもあるそうな。
チベット仏教を学んでいる時に、師の導きで現れた如来で、午年である所為もあるが、私とも相性がいい。波動が実に明るくて良い。元気になれる。
いつも力を頂いている。
大元の原理、ヒンドウー・タントラと仏教の知恵とを繋ぐ存在でもあるそうだ。
ブッダとシヴァを合わせた様な“存在”で、ストーン意識、共有意識を司っている。
とっかかりは,ものであれ,生き物であれ,人間であれ,まず、差別を取り払う事。
仏性(ブッディー)を始め、人の持つ“平等の共有意識”が前提となって来る。
真実は是非に及ばず。
一見、世界は虚偽で成り立っているようだが、真実においては,良いも悪いもない。
と、いう事に目覚めなくては、話にならない。虚偽を観るか、真実を見るかで、姿も形も、自ずと変わって来る。
人それぞれ、好みも、思考も違う。顔が一人一人違う様に、考えも、考え方も違うのである。厳密にいえば、同じ人は誰一人としていない。
意見が違っても、それはそれで良い。人にはそれぞれの道が在り、生き方が在る。
ハンバーガーが好きなものも,寿司が好きなものも居る、カツ丼が好きなものも,パスタが好きなものも、カレーが好きなものも居る。全部好きなものも居る。好き嫌いの多い人もいる。色々な人が居る。
好き嫌いは別にして,身体と心の状態に合わせて、適切に食べようとする人もいる。
タバコが好きなものも,お茶、コーヒーが好きなもの、酒が好きなものも居る。
寧ろ、皆同じだったら,気持ち悪いし、大変な事になってしまう。
百人百様であって、それが,当たり前で、普通である。
だが“意識”においては、即ち、“頭や,心を越えた所に於いては”、人は“共有意識”に同調する事が出来る。
個々には、国や枠組みを越えた、“文化的、宗教的な基盤”というものがあるのだ。
誰しもが同調できる,意識の要素だ。
それは当然,頭や心を越えている。頭や心は,もっと二次的で,派生的な事だからだ。そこでは、誰もが、共鳴するからだ。音楽も、食事も、芸術も、言語や観念を越えて、人々が同調しているではないか?
そして誰もが、ポジティヴになれるのだ。
頭や心に囚われない、ベースの部分、それが、純粋意識、意識、コンシャスだ。
稲妻もその一顕現とされる。取り分け,“内なる稲妻”を感じる時。意識に変化が訪れる。意識が蘇るのだ。
ストーン意識は,“見えないものを映し出す鏡”となっている。
雑念が、完全に消え、気付きの深まりとともに、姿を現して来る。
スピリット、グレート・スピリット、妙、如、タオ、神、生、ホワット・エヴァー!
言葉には色々な言い方が在るが、本来は、名なきもの。
深い瞑想に入り、やがて、見えるものが、消え去ると、見えないものが、無意識の中から浮かび上がってくる。
“直感”、或は“閃き”もその一つである。
宗教とは,他力的な力が大元をしめているが,その力を知る為には,自力的な“コツ”というものを知らなければ,旨く行かない,という事が解って来る。
ウパニシャッドに依れば、“光明”(エンライトメント)には、“始まりはあっても、終わりは無い”、と言われている。それは自力と他力との融合点だ。
水泳を一度覚えてしまうと、忘れる事は無い、といわれるが、一度、光明を知ると、種子(ビージャ)は残り、長らく忘れてしまっていても、訓練する事で、人は光明を永続的に得られる、と言われる。
それは、自分の中に、何の不満も無い時に起こるとされている。あるがままの自分を受け入れる事。それはもしかすると、日常的にも起こっていて、ただ人はその事に気付かずに通りすぎてしまうのかも知れない。余りに、当たり前の事だったのかも知れない。
光明は独創的だ。
他方、“地獄には始まりは無く、終わりがあり”、そして、“天国には、始まりも、終わりもある”、という。
その“独創性”の意味は“新しい”という事ではなく、常に“新鮮”と言う事なのだ。“源泉に通じる”という事だからだ、と言われる。
それは、永遠なる、“新鮮さ”なのだ。
光明”とは、習慣的、観念的、常識的な判断が入り込む以前,マインド以前の,“新鮮な知覚”が,“生き生きとした状態”を意味している。ここのところが大事だ。
普通、人は、習慣的に、すぐに判断したり、何らかの結果、結論をすぐに出したがるのだ。そう言う習慣になっていて,習慣に同化してしまっているからだ。生活習慣病もそこから起こって来る。それ故、肝心なものを、見過ごしてしまうのだ。
ストーン、石のスピリットと、真に触れ合うには,人は、沈黙しなければならない。無選択にならなければならない。その為に必要な事は、まず、熟睡する事が大事である。深い境地に達するには、利己心を、自我(エゴ)を捨てなければならない。必要ないどころか、通路を遮断してしまうからだ。
内面的に、静かに、寛いでいなくては、石と触れ合う事は出来ない。
それは、単に、表面的に“手で触れる”、“言葉を発しない”、“音を立てない”という事だけではない。人のマインド(心)は、説明の通り、常に、あれかこれか,ああでもない、こうでもないと、やりくり、算段。選択や判断、と言うお喋りが絶える事が無い。
内側では常に、マインド(心)は何らかのお喋りを続けている。
当然、石にはその言葉は判らない。そこに壁が生じ、全てを閉ざしてしまう。
だが、もし“沈黙の言語”を知っていたら、ものでないことや、そして、どんなものとでも、触れ合える。
無を通して、実際、無は“何も無い事ではなく、全ての事”であるのだが、
その“沈黙の言語”とは、“音の中の音”即ち“無音の音”を聴く事である。
物事が、如何に起こるかが観えて来る。
石ともコミュニュケーションが取れる。さすれば、人は宇宙の部外者でも、放浪者でもない。無限の世界に、既に、根を下ろす事になっているのだ。
又、ストーン意識を持続させている限り、事態はますます好転しつつある、という楽観的な感じが覆っていく。これはとてもいい。それは,常に始まりの地点に居るからなのだ。これはすでに“無限な次元”に入りこんでいる事を意味している。
そこに“限界はない”というメッセージが伝わってくる。
この体験は、恰も、全てを覆っていた様々な、ストレートな無意識の偏見、通常な観念をすっかり洗い去ってくれる。これこそが真の禊,真のガンジス川なのだ。
差別も区別も無くなり、無分別となる。(*前述のブログ、“分別と無分別”を参照の事)だが、それは知性や思考を捨て去る事ではない。
一寸、脇に於いておくだけの事だ。要は、知性、マインドに同化してしまわない事だ。さすれば,いつでも自由に使える。使いたい時には、使えば良い。
ここらで、一寸、一休み。一服しよう。閑話休題。お茶とビスケットがあれば良いね。
(以下、後記事「ストーンな石達2」に続く)