2007年6月3日日曜日

泰国木陰日記3 泰の海

 静かな海はいいものだ。内海であるのと同時に,珊瑚礁なので,大きな波は吸収されてしまうからかも知れない。久しぶりのシャム湾。ここは大きな波が立たないのだ。海がまるで湖の様に見える。空に浮かぶ月にもあるが、ここは“静かな海”なのだ。

 猛暑のバンコクから一転して、ここは風の楽園。ここは,タオ島。シャム湾に浮かぶ,小体なガーデン・アイランド。
 海は、いつもの通り、透明度が高い。深いインディゴ・ブルーの空と海、鮮やかなエメラルド・グリーン、浅場の真っ白な砂浜に映えるターコイズ・ブルーが、眼にも、意識にも、心地よい。そして、光の具
合で,様々な色に変化する。不思議な事に、いくら見慣れていても,飽きる事は無い。2〜30メーター位の海の底まで、丸見えなのだ。嫌が応にも,クリスタルな意識に、ストーンしてしまう。

 空気の旨さと心地よさは,天下一品。又、大らかな気持ちが戻ってきたかのようだ。自然に,クリスタルな気分になってしまう。心なしか,私の盟友とも言える、水晶や石達も嬉しそうだ。たまには、海水浴をさせてあげようと思っている。

 日差しは強いが、南太平洋から吹いてくるそよ風が心地よい。体を通り抜けていくかに様だ。“一風千金”の値を感じてしまう。取り分け、朝夕は涼しい。鳥がさえずり,蝉の声、そして咲き誇る花の間を舞い踊る、蝶達。光と蔭が乱舞している。砂浜に打ち寄せる波の音,木立を吹き抜ける風の音。暫く,意識を変え、光を聴き,音を観ている様にしていると、そして何事に関しても敏感で開いていると、感性も成長してくる。暫くすると、それを通して,生気が生じてくるのが判る。

 エネルギーが上昇してくると、人は“本当の一瞥”を得られる様になってくる。そしてやがて,エネルギーは、“天頂(サワスラーラ)”へと達し,解き放たれれば、人は無限の至福を得る事が出来る。そのプロセスは、まるで眼には見えない稲妻のようだ。そこには,無限の心地よさが、そして、生きている喜びがある。

 この次元には、何度来てもホッとする。“静寂”とは、一般的には、否定的で、虚ろで、単に,“音や騒音が無い事”と理解されている。この誤解が世間一般に行き渡っている。一般には,静寂とは、只、単に音が無い事、サイレンスとされている。それは、単に、表面的な意味になってしまっている。その理由は、ほんの僅かの人や瞑想者しか、“真の静寂”を体験した事が無いからかもしれない。

 瞑想に於ける“静寂”とは,実在の中心。石も、花も、樹々も、空も沈黙している。静寂こそが、最も実在的だ。現代の人々は、静寂を全く失ってしまったかのようだ。何もしていないときでさえ、沈黙していない。マインドは、常に、ああでもない、こうでもない、あれこれとやっている。何もしないでいられなくなってしまっている人も少なくない。だから真の静寂には中々参入できなくなってしまっている。観念や思い込み、決めつけは,リアリティーに対する暴力と言ってもいい位だ。その内側のお喋りの所為で、不自然となり、なにものとも、“直に”、触れ合う事が出来ないのだ。意識を閉ざして、無意識でいる故に、真に自然が理解できないのだ。

 ストーン(寛ぐ事)出来なければ、愛でさえ不可能になってくる。愛とは沈黙の花と言われる。愛は情念や欲望と言ったものとは全く違う。愛は、微細な波動の交流、融合の中でのみ、花開くからだ。だから、無心になれない人は、中々、愛の次元には入れないのだ。
 例えば、石を手に取る時、石には内側のお喋りが無い故に、無防備で開放的、しかも受容性に富んでいる.用意の出来ている人なら、誰でも歓迎してくれる。波動の交流も起こり易い。だが普通,人は、ああだ、こうだ、いいとか、悪いとか、余計なおしゃべりを続けている。石に判る訳が無い。言語が全てを破壊する。石と対話するには、石にならねばならない。石の言葉を理解しなければならない(前記事「水、水を観る」参照)

 “充実した静寂”,と言ったらいいだろうか。そこには,新たな力も、道理も存在する。そして、周囲で起こる事は,まれにしかその深みには到達しない。
 タントラに於いては、静寂とは,全ての人の内側に、“既に”存在している“実在”の事を言う。究極のリアリティーだ。それは自分が所有する様なものではない。誰のものでもない。そこにその素晴らしさがある。又、それは、決して、否定的なものでもない。本人さえも気がつかない、最もリアルな存在なのだ。それは完璧にポジティヴな“実在”beingなのだ。そして、“それ”は決して新しいものではない、が、常に新鮮なのである。生とは,まさに神秘そのものだ。

 ここは,“コー・タオ”、タオ島。タイの言葉で“亀の島”と言う意味の、シャム湾に浮かぶ珊瑚礁の島だ。初めて来たのは、もう15年以上も昔の事だ。最近では,少し知名度が高くなってきたものの、嘗ては“秘境”とも呼ばれていた,ちっぽけだが、“とっておき”の風光明媚な島。
と言って何かがある訳でもない。特別なものは何も無い。

 強いて言えば,美しい緑のジャングルと珊瑚礁の海だけで。自然が豊かなだけである。又,そこがこの島の魅力でもある。何よりも,島の空気、温和な人々、そして雰囲気が穏やかで,静かなのがいい。便利さの点では,多少の問題はあるにせよ、私、個人に取っては,自然が豊かな“生命の環境”として,“ベスト・イン・タイランド”といってもいいかも知れない。瞑想環境としても,ヒマラヤと並んで抜群である。

 この島は、豊かな自然、強烈な南国の太陽、豊穣の海、生命エネルギーが高いのだ。只,いるだけで“ハイ”になってしまう。意識が目覚め、それに伴って、エネルギーが上昇するからである。初めて,クンダリーニを体験すると、人は初めて、この世に生まれたと言う実感を持つ様になる。あくまで、その人次第だが、嘗ての、只、生を引きずっていただけの人生から、ターン・オンしてしまう。

 意識が自ずと高揚して、エネルギーが、宇宙にシンクロしてしまう。それ故、年間を通して,ダイバーや、旅人、瞑想者が訪れる。瞑想するにも,ダイビングは勿論、山もあるので、トレッキング、マウンテン・バイクも楽しめる。ネットの仕事,原稿書き,読書や音楽、写真や絵画を楽しむのにもいいかな? 

 島のあちこちに在る、素敵な庭園を散歩するのは、これ又素晴らしい。好きな事が沢山出来る。色々な可能性が期待できる。“思いのほか“が活躍できそうだ。その上、ここは自由な人間が集まってくる。毎日が、充実した、楽しい日々となる。文明が、あり過ぎないのがいい。

 久しぶりのタオ島だが、落ち着いてしまうと、何時までとは言わず、ここをベースに暫く暮らしてみようという気になってくる。ここからでも、何処の国にも気軽に出かけられる。フェリーで、タイ本土の港街、チュンポンまで出れば、そこから、マレーシアやバンコクには、バスや汽車で行けるし、急ぐ人なら、近くのサムイ島からバンコクやクアラルンプールといった、様々な都市への国際航空便が飛んでいる。

 今は,五月の末,タイでは、最も暑い時期だが、海からの風と緑が多い自然環境の所為で、エアコンなしでも十分に涼しい。特に,朝、夕は格別だ。もっとも、この南の島にきてまで、熱砂の砂漠や、都会ならいざ知らず、エアコンはいらないだろう? 多い時には,多くのダイバー達や旅行者が集まるタオ島であるが、今は、シーズン・オフという事で,訪れる人も割と少ない時期である。

 静まり返った自然に身を任せながら、冷えた緑茶で一服する度に,人生の喜びを感じてしまう。何故だか,日本の緑茶が旨い。非常に暑い時には,冷えた緑茶に蜂蜜を溶かし込むと,スタミナ源にもなるようだ。

 何処かの国のことわざに,“闇を恐るるなかれ,明かりをともせば済むことだ”、というのがあった。まさにその通りだが,自分の内側深くにに光を灯すのは,部屋の電気をつけたり、ろうそくを灯すのとは、訳が違う。

 人々にとって、眼に見えない物事への恐怖から,宗教と呼ぶものの自然な種子となった、といわれている。これが、一般的な、信仰の宗教の始まりといわれる。

 過去を振り返ってみると,今、あるのは、長い過去の積み重ねの結果、今,ここにいる、のかなと実感してしまう。来るべくして,来てしまったという、何か、運命的なものを感てしまう。

 それで,一旦,過去の記憶の部屋のドアを閉めてしまおう。そして後は忘れてしまうといい。全ては済んだこと,今はもうない。あるのは記憶にすぎない。 これは記憶をなくす事ではない。ただ、一時的に、記憶の部屋のドアを閉じるだけだ。一旦、自分の心の空間をさっぱりと空っぽにするのが目的だ。言ってみれば,部屋の掃除だ。
 
心の空間には,何にも無い、がらんどうなのが一番いい。そうして初めて、健康になり、心を自由に活動させる事が出来るのだ。コンフィデンス(自信、意欲)も蘇ってくる。真に健康であれば、何の薬も、宗教も必要ない。メイディテーション(瞑想)とメディスン(医療)とは語源を一つにする。宗教とは、本来、医療的なものなのだ。

 私の中には、様々な部屋が幾つもあり、中心の部屋、自分の部屋には、常に何も無くしておく様にしている。そこが、私の瞑想室となっている。幾つもドアがあって,他の部屋にもすぐに行ける。知識の部屋も,体験の部屋も,創造的な、遊びや生活の部屋も在る。仕事や遊びや、人と会う時、他の用途には、それぞれに見合った、他の部屋を使う様にしている。これは私独自の、長年の経験から生じてきたことなのだ。部屋は幾つもあるが、中心の部屋はいつも空っぽにしている。空っぽで、充実していれば,心に空しさはない。寧ろ,エネルギーが生じ、心も意識も“生き生き”としてくる。過去を望めば,いつでも記憶の部屋に入っていくことが出来る。だが,今は必要ないだろう?

 瞑想の宗教は,恐怖故に、又、未来への期待故に、信仰を求めるのとは、全く違い、寧ろ、眼に見えないことへの探求の科学、深い真理、生の飽くなき追求と言ってもいい。現代では、タントラ、禅、タオ、ゾクチェンと言ったものが,代表的だ。今では,インナー・サイエンスと呼ばれている。それらは“本来の宗教”と呼ばれるが、信仰ではないし、葬式にも関係がない。詰まり、宗教には二種類のものがあるのだ。ごっちゃにしない事が大切だ。それぞれに特徴がある。

 人のマインドは,安易に、極端から極端へと移行する。一つハッキリしているのは,マインドは結果指向なのだ。そして、マインドというものの特徴として、先に進むか、遅れて後に引き返すかの、どちらかなのだ。そして、ああだこうだと、常にやりくり算段する。決して、今、現在にはいようとしない。つまりリアリティーに関しては、マインドは無力なのだ。それは自我(エゴ)の特徴でもある。そして、どんなマインドでも、マインドは実に狡猾なのだ。試しに、自分のマインドを暫く見つめてみると良く判る。

 そう言う意味で,所謂、一般的な世界とは,マインド・ゲームなのだ。それ故、当たり前の話だが、マインドの性質を良く知ってから,初めて、人はマインドを自在に使うことが出来る。旨く使う事が出来るのだ。それは、せこく、ずる賢く使うという意味ではない。トータルに、賢く、程よく使うという事だ。だが、もしマインドに同化していたら,マインドに振り回されてしまう。そうなったら、マインドを使う事は不可能だ。現実とは、常に今、常に変化しているのに、創造性もヘチマも無くなってしまう。世間で起こっている事はまさにこの事だ。

 “同化こそが地獄”とは、ゴータマ・ブッダの言葉だそうだが、未だ一般に認識されていない。同化という事が明晰に理解できて、初めて、飛躍できるのだ。

 ここに来たら,一度,観念や思い込みから,一旦自由になってみよう。自由とは自分(自我)からの自由という事である。他に意味は無い。その上で,それらと同化せず、どうしても、使いたければ,それらをを知識として使えばいい。世界の見え方が変わってくる。

 若し家が火事になったらどうする? “どうやって外に出られるか?”等と、人に聞くのはナンセンスだ。考える事も,時間もない。只、家の外に飛び出すだけである。

 さて、今回は、ノー・マインドでいい。無心でいい。無心とは、心を壊す事ではない。心(マインド)を一寸,脇に置いておく事なのだ。そのコツが判れば,容易に,“無心”になれる。無心を知れば、生きる上で、マインドは、役に立つ。使いたい時に使えば良い。

 寛ぎの技法には、結果指向も欲望もエゴもマインドも必要ない。ただ、静かに、醒めて、気付けば良い。それがエネルギーをチャージするコツだ。

 そこで技法(タントラ)だが、何処かに緊張を感じたら、無理にリラックスしようとするのではなく、一度,緊張の極にまで持っていってしまうのだ。リラックスしようと、努力したら、リラックスにはならないからだ。次に、緊張度が最高潮になったところで、さっと、力を抜く。緊張の原因の多くは,頭脳にあり,顔に表れる。もしそうなら,意図的に顔の緊張を限界まで高め,それから,さっと,力を抜く。

 寛いで、楽な姿勢でいると、やがて、両脇の間に,胸の辺り一帯に、何とも言えない平安が訪れる。自分が楽になる姿勢でいい。無理して、ブッダの姿勢やヨーガのアサナの様に、決まり切った形にする必要は無い。只,アサナの姿勢は,重力の影響を最小にし、しかも脊髄という“意識のセンター”を真っすぐにするという効果がある。本来は,楽な姿勢なのである。大切なのは,自分が楽になる為のことなのだから、自分にとって楽になるようにすると良い。力を抜けば良い。そして、ゆっくりと呼吸する事だ。これはゾクチェン(チベットのタントラ仏教とチベット古来のシャーマニズム、ボン教との融合に依って生まれた瞑想法)の教えでもある。

 体が寛いだら,体のことは忘れてしまう。頭に寛ぎがきたら、頭を落とせばいい。今は、全てを忘れてしまおう。そうして初めて無心に寛げる。

 そして、体が寛げば、“自ずと”心の安らぎもおこってくる。人の心身は実に良く出来ている。今更ながら,感心してしまう。心には、“明かり”がともり、その結果,心は静まり,寛いで,調和してくる。そうなると、まるで、世界が“幻”の様に観えてくる。“今,ここ”が,唯一の現実なのだ。その他にリアルなものはない。科学的には説明できないが、この寛ぎには実に素晴らしい効果がある。意識はクリアになり、こころは生まれ変わったかの様に“生き生き”としてくる。

 平安は,ハートから生まれる。そして、平安から愛が生じ、磁力が生じてくる。丁度,夏の木陰のそよ風の様に,誰もが安らぎを感じる様になる。小鳥達も集まってくる。英知とは、感応する能力の事と言われる。

 ハートは“感じる事“の中心。センシティウ゛になれる。そうなって初めて、タオ島のエッセンスを味わう事が出来る。でもが、感性豊かに成れる。健康の基本でもある。平安の輪が自分の周りを回りだし,放射されるからだ。無心であればある程,その力は増幅される。

 これは瞑想の技法であるのと同時に,医療やマッサージや指圧にも応用できる技法である。実に簡単な“寛ぎの技法”だが、効果は高く,危険もない。朝起きたら,試してみるといい。
何日も続けると,だんだんとコツが判ってきて,エッセンスを噛みしめる事が出来る様になってくる。
 要点として、始めの内は“想像力”を技法として使う。だが自分の想像によって、何かを作り出しているのではなく、『想像を通して(想像力を触媒にして),既に、あなた達の中に存在している“未知の部分”に同調(シンクロナイズ)している』、という事なのだ。そこから意識の目覚めが起こってくる。深みの深淵に到達して、はじめて飛躍が可能となる。

 夕方になって、少し,風が出てきて涼しくなってきた。そよ風が,ジャングルの木立を通り抜ける。すると木立は、サワサワサワと歌を歌い始める。そして,野鳥や蝉達もそれに参加してくる。

 ここは,朝も素晴らしいが,夕日の素晴らしさも天下一品。日々,その姿を変え,人々を楽しませてくれる。夕刻の、数時間は,ゴールデン・タイム。それは、全宇宙が笑い出すからだ。

 寛いだ所で、タオ島の西海岸、サイリー・ビーチの夕日をご覧あれ…

“オーム・シャンティー”

“泰の海 終日(ひねもす) のたりのたりかな“

(前記事「亀の国」も参照)