2007年4月9日月曜日

水、水を見る

 禅の公案には面白いものが沢山ある。
“隻手の音声”、“瓶の中のガチョウ”,“麻三斤”、“これ!”、“無!”,“倶てい和尚の一本の指”といった有名な公案や回答がある。
それは、”山は山,山は山にあらず“の二つの極を行き来する。

 公案は決して、論理や理屈、普通の科学や頭では答えが見つからないものだ。
人の表層意識では見つからない。
普通の意味では、禅は無意味である。
頭を落とさないと、答えは見つからない。深みへ飛び込むには、瞑想が必須条件になってくる。
それは、悟りの境地を深めるもので、高度な遊びでもある。
一見、無意味な問答を通じて、二人の問答するもの同士に何らかのコミュニュケーションが成り立つ。それも、時として、生を一変するような、有意味な事が…

 “水、水を見る”という言葉は、所謂、公案ではない。禅の曹洞宗の開祖、“道元師”が示す、在る一点の事である。吟味すれば、シンプルで深い、素晴らしい言葉である。人の表層意識の視点だけで見るのではなく、“焦点を変える”という事である。量子的飛躍である。これは禅だけに留まらず、アプローチの仕方には違いがあるものの、タオ、ゾクチェン、タントラにおいても重要な要素となっている、意識の未知の部分に、深みに飛び込む事である。さもなければ、自己を知る事もない。自己を知りたくなければ、そして、生に直面したくなければ、禅は無意味である。
 
 曰く、“十方世界の水を、十方世界そのままの視点から見る、絶対無制約的、無条件な立場(自由な立場)で見なくてはならない”。
人や、個人や、神や概念、知識、常識といった、それぞれの狭い立場で、水を見るのではなく、“水が水を見る見方”を学ぶという事である。
“ものの心”を知る、という事でもある。
固定的に、観念的に物事を見ないという事である。

 禅的にも,現代物理学的に見ても、およそ,この世に固定的なものは何一つない。生とは動きである。石ですら踊っている。真に生きているものにはそれが判るといわれる。
芭蕉のいう、“松の事は松に学べ,竹のことは竹に学べ”,にも通ずる。

 曰く、“水が親しく水を悟るのだから、水が水を語り明かす事になる。”
この境地においては、人間の言語的主体性を超えている。
普通の言語にはなっていない。
というのは、“水、水を見る”、とは、水が水を見る。
水が主体になっている以上、言語的には、まず、水を見る“人”がいない。
“人、水を見る”、のではないのである。
“見る人は居ず、見る事だけが存在する”、という地点に、まず入る。
ここで気付く事は沢山ある。
ここで言う、見るとは、只、眼で見る事ではない。五感の全てを使ってみる事である。
そして見る人はいない。見る事だけがある。
逆説的だが、そこに、その人の本性というものが、“露(あらわ)”になってくる。

 禅を、一言で表現しようとすれば、『心,(有心)から出発し、「無心」に至り、その境地から反転して、「有心の心」で見ていた嘗ての経験的な視点を「無心の眼」、「無心の心」で見直すという事。』となろう。

 言葉を変えれば、禅とは、“自己を学ぶ事”である。
自己を学ぼうとするものは、その時点で、既に自己を落としている。
自己を学ぶものは、観照者、目覚めた意識、それが、真の自己である。
そこには何の,神学も、仮説も、虚構も、信仰も、観念も、哲学もない。
純粋なリアルな探求なのである。

 普通の意味では、禅は宗教ではない。
だが、禅こそ、本物の宗教である。
例えば、カイラス山も富士山も山である。
だが、知るものにとっては、カイラス山も、富士山も、只の山ではない、のと同じ事である。


 “水が水を見て、水、そのものの言葉で、自らを水と言うのである。”
水を水と言う物質として、科学的に捉えても意味がない。
言語的に水という言葉の概念に囚われすぎても、混乱するばかりである。
これをどう解釈するか、瞑想としても面白い。

“無”の、本質的な、真面目とされる。
答えは、言語的には、ない、といわれる。
あるとすれば、言葉を超えたところを如何に表現するか?
無を通じて,自分を無化し、それを通して、自己を開示するのである。
思考が、直感を誘発、触発する事はないと言われる。
そして、直感を押し進めれば、内奥の中心、光明という状況に至る。
根本的に、両者は別物ではないという事である。

 20世紀の終わりに、重要な発見があった。嘗ての概念や常識が迷信であった事である。
ある科学調査が人々を驚かせたという事である。
それは、学生達の知能の調査であった。
その調査は最新の機器で行われた。そして、思いもかけない結論が現れたのだ。
それは、頭脳の活動が少なく、穏やかであればある程、知能が高いという事であった。
 これは、科学の常識、世間の常識に、真っ向から対立する。
だが、これは、インドの神秘家や禅の人々が、常々言ってきた事である。
“無心こそ、知性である”、と。
無心の時、思考が停まった時に、思考が消えた時に、純粋で清浄な“洞察力”が現れる、という事である。
禅を知る人なら、判るであろう。
無心は知性である。
それは、単に、頭が切れるという事、計算高いという事、知識が多い事やずる賢いということではない。
要は、明晰さ、頭と同化せずに、頭を使える事にある。
頭と同化していたら、それは不可能である。
一般の欧米人が、瞑想に注目し始めたのは、この事があってからと言われる。

 さて、現代の言語は、否定と肯定の二つの極の間に,何らかの中間的な位置、妥協の道を余儀なくされている面も多々見られる。
コモンセンス的な,公共的な視点は,日々代わっていくものの、誰にでも言語化する事は易しい。それはそれでいい。
だが微細な,個人の,純粋で,プライヴェートな事や,微妙な間合い、精神やマインドに付いては、又、ニュアンス、そして宇宙意識については,簡単には言語で、表現出来ない事の方が多い。
一つのものを見ても,10人10色。それぞれ見え方も、感じ方も違う。
価値観も違うし、好き好きも異なる。当たり前の話である。
言語化するには,非常な遠回りをしなくては,核心に至らない。
旅をするとは,そういう事だ。
そして、何時の日か、視力が付いてくる。

 例えば、愛し合う男女のコミュニュケーションには,言葉は不要とまで言われるが,言語、無意味な言語、そして非言語で、波動で、全宇宙でコミュニュケーションを行っているのである。
猫や,犬の親子はどうだろう?

 異文化間の交流においても,表面的な、コモンセンス的な言語だけでは,知識だけでは上手く行かない。例えば、極端な話かもしれないが、在る国の政策が,周辺や特定の地域で、安易に共感を受けないのもその理由の一つである。
今、不都合な真実として、地球温暖化という憂慮すべき事実が浮かび上がってきている。問題は沢山ある。あらゆるものを考慮しなければならない。
文化の違い、理解の不足、と言ってしまえばそれまでだが、ニュアンスや言霊のスピリットの理解にも違いは大きい。
知識は頭の働きだが、理解力は意識の働きである。
相手の土地の風土、文化、宗教をも在る程度、理解しないと,これからの時代,異文化交流が当たり前になっていく時代,憂慮すべき事態になろう。

 さもないと、コミュニュケーションが、物質面以外に、つまり損得や政治的利益以外に、成り立たなくなる理由にもなっている。
生命が通っていないという事になる。

 逆に,言語が通じないもの同士,例えば,インドのように多民族、多言語国家(180以上と言われている)であると、バスで隣り合わせに座った人と言葉が通じなくても不思議はない。それが普通である。当たり前の話だが、“普通”とはそれぞれの地域、文化、民族で違ったものとなる。
そして、言語を超えた同質性というもの、インドであれば、ヒンドウー、ジャイナ、パルシー(ペルシャの拝火教徒)、仏教、イスラーム、シーク、様々な部族、がそれぞれの共有意識を通じて,波動を通じて、コミュニュケーションが計られるのである。
自由とは、お互いがお互いを認め合う事でもある。
そうだとすれば、いじめ等あり得ないではないか?
今は、もう波動の時代と言われている。

 一人がヒンディー語,相手がベンガル語を喋っても,何とか判ってしまうのが凄い。
そして、そこの文化、基盤に心からなじまないと,言語だけでは十分に意味をなさない。
信頼性に欠けるのだ。
大切なのは、以心伝心である。
それは寛ぎの,コミュニュケーション。
人にも、植物にも、動物にも、石にも可能である。
言語の違いのない国や地域の場合,それはもっと容易であろう。

               

               水、水を見る。