2007年5月8日火曜日

イマージュと深層コスモス

 “心地よさ”というものは,“心が地について”、安心している事から生じてくる。個人的なものと,環境的なものとがあるが,いずれにせよ,心地よさは大切である。
 緊張度の高いと言う状況は,その辺の心の不安定さ、異常から起こってくるのかも知れない。理性的になろうとしている努力の現れだ。根本的な事が,無視されて、等閑(なおざり)にされているからかも知れない。

 人々は古くから、時には何世代にもわたる、何らかの“先入観”を持っている。そして、自分達の先入観の裏付けが欲しい。それ故、裏付けを与えてくれるものの側に集まってくる。それが普通である。嘗ての古い政治もその辺りに焦点を絞って来た。自分の先入観、無知を助長してくれる所では、まがい物でも、不自然でも、一応幸せになれるからだ。
 だが、生は生きている。生は自然だけを生かし続ける。誰しも気がついている事と思うのだが、古い先入観や固定観念では,今や対応しきれなくなって来ている。生とは、諸行無常。それでも、自然に基づいた生き方なら、間違いは少ない筈だ。


 いろいろ探求してみると,東洋,特にインドのインナー・サイエンス、英知、洞察力は,生の現実は幾つもの“層”になっている事を,古代に於いて既に発見して、それを発展させ、今に至っている。
 優秀な民族でありながら、長い間眠りこけていたインドの人々も、20世紀末頃から目覚め始め、今や5,000年前の、黄金の時代に、再び入り込もうとしている。
科学、文明、文化、医療、芸術、宗教あらゆる面で、“インドと言う宇宙”が活性化を始めている。インドに行ったことのある人の中には、全ての人とは言わないが、何らかのスペーシーなものや気付きを見つけてくる事、にも現れている。“知”に興味のある人には、他に比べようも無く、魅力に溢れている。

 一方、西洋の生の現実とは、一つであって,それは“物質”と関わる次元である。
確かに、西洋は、物質の可能性を広げて発展させて来た。御蔭で、豊かになって来た。
だがそれだけだと、精神まで、物質化してしまう。どうしても,科学用語の“反物質”という概念まで生まれてしまう事になる。
それ故、世界中の“心ある人”の意識は、自然とインドに向かう事になってくる。
古代から、西欧やアラブ、地中海沿岸、東アジアの人にとっては、インドは“夢の国”のようであった。あらゆる概念を越えていて,魅力ある、ユニークな世界だからだ。
正式名、バーラト国、天竺、それがインディア。
一つの国というよりは,“宇宙”と言った方がぴったり来る。

 物質主義とは、ものを通して、外的な物質的現実に、因果関係を求める事にすぎなくなってくる。どうしても、内容よりも、外形に眼を奪われてしまう。
何よりも怖いのは、思い込みを強めてしまい、リアルな事から遠ざかってしまう事だ。
 それは、あらゆるものを、生命さえも、物質化して、観念化してしまう力を持っている。
そうなると、何時しか知らず知らずのうちに、外部の物質的な現実と、真の現実とを同一視してしまう。
 それだけだと、当然、カオス(混沌)が起こってくる。全体性の回復など、思いもよらない事になってくる。目覚めてさえいれば、それはそれで、結構、面白いものなのだが…
 それが、いいとか悪い、とかではなく、生命感が失われ、うんざりして,退屈してしまう。そうとは知らずに、“生”からどんどん離れていってしまう。
それは“物質”そのものに原因がある訳ではなく、関わり方や“主義”に問題があるのだ。

 主義は、それが何の主義であれ、凝縮して物質化してしまう。固定概念化してしまう。
そして、明晰さが奪われ、偽善が生じてくる。
それ故、根本的な事が確立して来ないと、主義は歪んでしまいがちになる。
いいとか悪いとかを別にして、そういう性質があるのだ。
勿論、主義が消えても、“もの”が、この世になくなる事は無いし、ものは大事にして、上手く使っていきたい。
“もの”には、何の罪も無いからだ。

 漢字が入ってくる以前の、日本の古代に於いては、“もの”には二つの意味が在ったのだ。それは“物(もの)“と”霊(もの)“との二つの見方であって、元々は、”一つのもの”なのである。
分析、分解すれば、一つの事が枝分かれして、いくらでもでてくるかも知れない。
何か、“ものものしくなってくる”。
一方、源をたどるという事は,逆作用の法則に則る事である。

 物質との同化、それが、意識と自我の同一視の現れである。
意識にフィルターがかかってしまい、そして何時しか、根源を忘れてしまう。
枝葉だけが,根から離れて,一人歩きしてしまう、
 この“物質主義的な概念”は、真の現実とは余りにも逸脱していて,この小さなイズムだけに、沿っていたら、環境を眺めるにも、世界を変えるにも、役に立つどころか,かえって歪めてしまう。先入観、観念や思い込みとは,物質なのだ。
それは、生きているものではない。そして、その論理は,行き着くところまで行ってしまう。

 思考とは一つの極端を見る事でしかない。
枝葉の先っ穂の事だ。
だが真実は,少なくとも、相反する“二つの対極”を含んでいる。
一つの現実に、二つの位相が現れるという事である。現代では、“相補性”と呼ばれている。
そして思考には、それを直に見抜く力はない。
人のエゴは、常に、あれか、これかを選択してしまうからだ。
思考が生じるのは,見えない事から、“視力が無い事”から起こってくる。

 “無”とは、何も無いという事ではない。
何も無い世界というのは、有り得ない。
“無”とは、「“ものでないこと”に焦点を合わせる。」という意味だ。
“無”は何も無いどころか、寧ろ,”有“の極限でもあり、全ての基底であって、存在そのものとも言えるのではないだろうか? 
その理解にたって、初めて、本来の“もの”の価値、“物の心”というものが観えてくるからだ。
*後記事「ものの心」参照。

 洞察力と言ったらいいが、両極を同時に見ない限り、何を見ても,偽り、或は、部分になってしまう。中庸(バランス)は、そこから生じてくる。もし、その部分を全体としてしまったら、人は,“観念の幻想世界”に入り込んでしまっている事になる。不自然である。心は、自ずと頑(かたくな)になってくる。それはもう“心”とは呼べない。
物事の悪循環が始まってしまう。
 想いがあるから、言葉があり、形がある。程よく使えばこんなに役に立つものはない。それなしでは、文明すら有り得なくなってしまう。だが、使い方を誤ると,使い方を知らないと、それは諸刃の剣ともなる事がある。ブッダが“中庸”を説くのはその為だ。タントラも仏教も、究極等を目指している訳ではない。目標とは,生きている事なのだから。

 “観ている”という事は、観るものは、少なくとも対象ではないと言う事を知る。
魔物に同化している心は,魔法使いや詐欺師の様に,色々としかけてくる。心を様々なもので一杯にしてしまう。
そして、なんであれ,抑圧したものは、自分の無意識に根をおろす。つまり,全て,そうとは知らずに、自分でやっている事なのだ。
 しかし、それにも囚われずに、魔物にも騙されずにいると、心の底を見続けていると、又、対象が何処から起こってくるかを、見続けていると、やがて物事はあるがままに留まる、という事が起こってくる。

 現実を、瞑想的に、何の偏見も交えず、あるがままの天地自然(空、風、火、水、地)を受け入れて、只、素直に観れば(観照)、光と闇で成り立っている事に気付く。それが、“空”を背景に、マンダラに描かれている事だ。そこに純粋意識(シヴァ)、根本原理(シャクティ)という二つの性質を持った“宇宙”があるからだ。形の無いものと、形の在るものとの、不可分の一体性である。

 現実は、形の無いものと、形の在るものとに分かれている訳ではない。言語的には別々でも、現実には、それらは一体となって、宇宙を、生を成り立たせている。
だから“ひとつ”という。
それは、数学で言う所の“1”ではない。
一を聞いて十を知る。“一即全”、即ち、全体性という事だ。このことの理解が回復するだけでも、世界は癒される。

 無意識だったものが、中心に入れ替わる。意識の目覚めが起こってくる。光は闇の内に在る。そして、闇は光の内にもあり、闇なくして,光なし。どんなものにも,正と負、明と暗と言った相対的な部分があって、それらが相互依存して,宇宙が、そして生が成り立っている。
 当然、“言葉の上”では、“善も悪も良い”、という、おかしな矛盾が生じてくる。
論理的にはおかしい事になる。だが、プラスが良くて,マイナスが悪い等という事は“絶対に”あり得ない。両者が必要なのだ。
一方だけでは、意味が無い。状況、性質、タイミング、時間差、様々な要素の違い、様々な視点、性質の特徴がある。生は,一瞬、一瞬、生きているからだ。
リアリズムとは、ダイナミックで、しかも、きめ細かいものなのだ。
矛盾が生じるのは、“言語”と言う,狭い分野での特徴なのだ。
二つなきものの次元では、言語は意味をなさなくなってくる。
言語は実に有益なシステムだが,万能ではない。真理を観る事に於いては、役立たずである。
しかも、生とは,名詞ではなく,動詞なのだ。

 本来,“生きる”という事は、難しい事ではない。だが、観念的な人にとっては、易しいという訳でもない。相反する両者を認めれば良いのだ。そこに、“敵は無い”という事に気付く筈だ。
腹が減ったら食べ,疲れたら休めば良い。息は吸ったりもはいたりもする。息を止める、間合いも在る。丁度、潮の満ち干のようだ。

 人の深層心理は,まるで、底なし沼のように、神秘で不気味にも観えるものだ。
ニーチェの言葉ではないが,“深淵を覗き込めば,深淵もあなたを見返す”。
その深淵に住む怪物達から、様々な,イマージュ(心象)が出現してくる。
そのイマージュ次第で、天国にも地獄にもなる。勿論,普段は滅多にその姿を現さない。
それは,怪物達は、表層意識には住んでいないからなのだ。
それ故,自分の表層意識だけにしか住んでいない人にとっては、その怪物は、一見、存在しない事になる。だが見ようとしないのは、もしかしてと言う不安があるからなのだ。
だから人々は,真の自分に対面したがらないのだ。その道の途中に,沢山の怪物がいるのを,無意識のうちに知っているからかもしれない。

 元々、そこから生じてくるイマージュが“妄想とか幻覚”とか呼ばれているのは、日常的意識、表層意識の立場から見られるからであり、それらの本来の住処に於いては、妄想でも幻覚でもない。
それこそが“真の現実”なのである。表層意識こそが、妄想や幻覚の様なもの。自然よりも、人の都合を優先した結果である。

 無論、その事を知らなくても,人は生き続ける。
だが、人が。理性で押さえ込むほどに,怪物達は,反動し、増強し、力を溜め込む事になる。
そして何時かは爆発する。悪循環は繰り返される。
 多くの人の深層心理は、抑圧され,歪められているのが現状だ。
文明が,物質化すればするほどに、生の反動が生じ、問題は深刻なものとなっていく。
魂は病んでしまう。そうなると,どんな薬も,どんな医者も役には立たない。

 新しい言葉で、『共進化』という言葉が聴こえて来た。
これは、自然に沿って進化すると言う、文明の方向付けとなりつつあるようだ。
上手く行くといい。

 言語以外でも、チベットの金剛界マンダラや真言密教のマンダラは、イマージュ体験をもとに,宇宙観にまで発展させたスピリチュアルな宇宙図である。人に依っては,言語より、直感的に判り易いかもしれない。
 五元素を象徴する,五色の色を使ったデザインは,深層心理を整え、表層意識を穏やかなものにする。いい夢が見られる様になる。夢は、潜在意識の現れなのだ。“夢は人よりも賢い”と言われる所以である。それは、表層意識よりも、深層意識の方が賢いという意味でもある。

 人の意識は、本質的に、しかも、全体的に、イマージュ的なのである。
表層意識も深層意識も、現れ方に違いはあるものの、イマージュ的である事の変わりはない。
表層意識のイマージュは、過去の経験的な事実に沿った“即物性”が特徴となる。
深層意識のイマージュは、もっとディープで、経験的な事実とは“遊離”して活動する、と言う特徴がある。

“人が去り、葉桜、そっと深呼吸”
 
 誰しも、生きている間は、良く生きたいものである。
只、漠然と生を引きずっているようでは、生きている意味が無い。生きている喜びが無い。
それは意志や思考の問題ではなく、頭でも心でもなく、“意識の目覚め”から始まってくる。
“トータルな理解”、“耳の光”はそこから起こってくる。
さすれば、後の事は、自ずとついてくる。
思考も知識も上手く使えれば、何も問題は無い。
背景が落ち着けば、全ては、寛いだ、生き生きとした、好ましいものにする事も出来るのだ。

 生命の、エコ・システムは、深い理解からもたらされる。
世界も少しずつ、そのように動き始めようとしている。
“共進化”、それは、波動原理として、“共振”し始めるのだ。