2007年4月12日木曜日

四十八茶、百ねずみ

 日本には,江戸時代から,“粋”という、世界に誇れる、固有の美意識が在る。
欧米の言語では,なかなか一言で言い表すことは出来ない。いつも、欧米人に説明するのに苦労している。勿論、エスプリとか,シック、最近では,クール(慈しみ)とか近しい言葉はある。それも粋の範疇に入ると思うのだが,全く“粋”と同義であるとは言い切れない。

 “粋”、それは、微妙なニュアンスでありながら、生活全般にも及ぶ“宇宙観”でもあるからだ。宗教も、文化も違い,当然ちぐはぐな面がでてくる事になる。合わせる必要もない。だが、共鳴する部分は確かに在る。最近のフランスのブランドものの中には,日本から学んだのでは、と思われるようなセンスのものもよく見かける。

 “粋”の語源は,意気(スピリット)、生粋であること、生きている事、と言われる。
時には,媚びや諦め的な心情も無いとは言えない。
禅で言うところの,侘び,寂びの美学の影響もあっただろう。
ある種の洗練、垢抜けした美意識、そぎ落とした美学、そして,一見、“粋”に相反するような意味を持つ,“渋み”をも併せ持つからだ。
真に粋な人だったら,所謂,“野暮”でさえ“粋”に変えてしまうかもしれない。
禅的、老子的な視野に立てば,“宇宙的な遊び”と言えない事もない。

 この豊かな,特別な“意識現象”としての“粋”、自己を実現させる、ある種の媚態は,“垢抜けして”、“張りのある(意気、スピリット)”、“ある種の色っぽさ,気品、今風に言えば,波動の妙”と,こじつけられないだろうか?

 上品、下品、意気、野暮,派手、地味をも含めた,眼には見えない軸を持つ、自由自在な、微妙なバランス感覚、時には反骨精神とも言える。
一見、無力なこの“粋”という、理屈を超えた価値観が,大げさに言えば,当時の封建制度に反旗を翻し、やがて浸透して行った事になる。
水が流れるがごとき力,生命の力である。それは岩をもうがつのである。

 それは言語を超えた、日本ならではの、宇宙的センス、日本民族を代表するアイデンティティーでもあるからだ。
“粋”の研究者、九鬼周造氏に依れば、「粋とは、日本の文化を特徴付けている,道徳的理想主義と宗教的真実の理解に依って生じた、物心一如の、”自己実現“と言われる。
“粋”の美学は、江戸に始まった価値観ではあるものの、それは当時の封建制度、形式主義に対する“反逆”でもあった事にも留意しなければならない。

 “四十八茶、百ねずみ”とは、当時、“粋とされた色の微細なセンス”に依って現れてきた色のことである。
今回は,色に関わって楽しんでみよう。

 江戸時代の粋な色として、例えば,赤、橙、黄の様な,華やかで,飽和度の高い、異化作用の強い色よりも,緑、紺、青のように同化作用の強い色を“粋”としたようである。
又,褐色を除き、温色よりも,青中心の“クールなトーン”を“粋”としたようでもある。

 九鬼氏に依れば、“粋な色”とは、青や紺だけに限った訳ではないが、「華やかな体験に伴う“消極的残像”」であると言う。それは,後で述べる,灰色や茶色にも当てはまる。
つまり、“粋”は過去を擁して,未来に生きている、という事になる。
背後に華やかさを秘めた,静けさと、とっても良いかもしれない。
個人的、社会的体験に基づいた,しかも研ぎすまされ,しかも寛いだ、クールな認識が,“粋”なのである。
華やかな色を味わい尽くした魂が“補色残像”として,クールな沈静を好む色とされているそうな。
欲張った、贅沢な話である。
だが贅沢結構,それが“粋”であれば,なお結構である。

 粋な色に三系統が在る。今、述べた,青系統、そして、グレイ系、三番目が、カーキ、褐色、茶系統である。どれが一番という意味はない。
灰色、グレイ,鼠色。この色は、“深川ねずみ、辰巳風“とも言われるように、グレイは、江戸の時代から、現代に至るまで,”粋“な色とされてきた。実に,百に近い種類のグレイが在ると言う。
深川ねずみ、藍鼠(あいねず)、銀鼠(ぎんねず)、漆鼠(うるしねず)、紅掛け鼠(べにかけねず)、と言った微妙なニュアンスにおいて、“粋”な色となっていたようである。
只,グレイは,白から黒,黒から白に変異する,無彩色感覚の,いわば、クールで知的な、禅的な自由なセンスであったようである。
グレイは,飽和度の現象,色の淡さを表現している“光覚”と捉えられている。
“粋”だねえ。

 当時一番好まれたのは,褐色、茶系の色であるそうな。
前に述べた,温色の華やかな色調が、黒味を帯びて,飽和度を下げ,光度の減少したものが茶、褐色である。茶色が“粋”とされるのは、一方に華やかな性質,他方には垢抜けした色気、意気を表現しているからだと言われる。
今でも,ベージュ、タンやカーキ(ヒンドウー語で“土”の意味)という外来語もあるが,褐色、茶色には,魅力のあるものが多い。
一般に,江戸時代には、四十八茶とも言われる程のニュアンスの違う茶色があったそうである。
日本人のセンスは,デリケートだねえ。
有名なところで,白茶、お納戸茶、燻茶(ふすべちゃ)、焦げ茶,媚び茶、千歳茶、鶯茶、煤だけ色、栗色,丁字茶と四十八もあったそうである。又,歌舞伎の役者の名前から取った茶もあったそうな。
梅幸茶、市紅茶等がそれである。

 結局,只、理屈や、常識で、物事全て割り切ってしようとしても,無理がある。
それは時代が変わっても,変わらない。
元々が,矛盾だらけの人間がつくった矛盾社会で生きている訳だから、苦、苦痛、苦悶,心の傷というものは、無理したって,頑張ったって,矛盾は広がるばかりである。
科学や理論だけでは,絶対に解決できないのだ。それはもの、物質にだけは有効かもしれない。
だが人の心は,ものではない。それは実にデリケートなものなのだ。
間合いとか,融通、或は無為、と言った中間色や無彩色、無形性にも,本来、重要な意味があるのだ。
一方だけ観ていたら,とんでもない事になってしまう。
そのノウハウを知っている事も,無心(ゆとり)を知る事も、“粋な生き方”ではないかと思う。
無我を通して、意識に目覚めれば,それこそ言う事は無い。

 “野暮は揉まれて,粋になる”、とか、はてさて,現代に於ける“粋”とは、どんなものになって行くのだろうか?

 そろそろ、お茶にしようか。