2007年4月12日木曜日

寛ぎの技法4 ホのトーン

 誰にでも、イライラしているとき、緊張している時、感情的になっている時、不愉快な時、不安なときがある。人は,理性でそれらを無理矢理、無意識の中に押し込んで,或は,何かでごまかして、何とか平静を保とうとして生きている。何度も言うようだが、生きるとは、状況に依っては、毒化の作用でもある。
 知る、という現象は、何かについて考えるという事とは違う。言葉も意味も全く違う。知る事と、考える事は全く違う。知るという事は、深く理解するという事だ。それは頭の善し悪しとは関係がない。意識の問題だからである。結果的に,安心や信頼が生じてくる。

 それは、過去、未来ではなく、今、ここ、直前のものに関わっている。科学が理解しようとするものは、あくまで対象であり、物質的現実である。一方、タントラや仏教と言う科学は、眼の背後、表層意識の背後に在る神秘を探ろうとする。非物質的現実である。両方あってしかるべきだと思う。それゆえ、タントラも禅も、思考を重視しない。実践や体験を重視する点では、科学と同様である。今や、タントラや仏教が“インナー・サイエンス”と呼ばれる所以である。視力さえ付けば、その神秘を知る事が出来る。


 よくよく気付いてみれば、良くない事は、入息に重点が置かれ、嘘や、偽善、戦略や、でまかせを言うには、息を溜め込んでいるケースが多い。心理的には、自己の保身に頑張ろうとするからだ。
本当のことを言うときは、自分に取ってやましい事が何もないので、素直になれて、息をことさら、溜め込んだりしない。力む必要が全くないのだ。自然体に近いのだ。
そして、多くの場合、良い事、美しい事を言うときは、出息にスタンスを置いている。

 何らかの枠組みがあって、初めて、自由と言うテーマがでてくる。
何の枠組みも、抑圧も無かったら、自由と言うテーマは現れてこない。
闇なくして,光なしである。

 今日は、乾季だというのに,朝から雨。
それもスコールだから,土砂降りである。
涼しくなって,皆、ホッとしている。
そこで、今日は、“ホのトーン”と言う,言霊を中心に、自由の立場から、枠組みそのものを見直してみよう。

 無意識の偏見は、大抵の場合、何らかの、枠組みから起こり。観念となり、思い込みとなり、習性となってしまう。場合に依っては、意図的な偏見よりもたちが悪い。
遊びや映画、芸術、芸能なら何の問題はないが、見分けがつきにくいからである。
それがやがて大きくなると、“主義”と言う名の“怪物”も出現してくる。
 無意識の偏見は、意識と直結する知覚と、頭に依る知性との間のフィルターになって、真実、事実をゆがめてしまう。
当然、人の意識の成長を阻害してしまう。心も閉ざしたままになってしまう。
そうなると、心の時代もヘチマもない。当然、言葉だけが一人歩きし、形式化、物質化となって、生命感は喪失してしまう。
当然、深い意味は判らずとも、無意識から何らかの反応、反動が現れてくる。
それが道理である。

 人が出会うあらゆる物事に付いて、その本質を捉えたいと思うのは、人の本性であると思う。
本能的な性向といってもいい。
本質や根源と言うと、何か特別な事であるかのようだが、物事のことわりが、自分にとって、どんな意味を持つかを知りたいと言う事に関わってくる。
“自分と言う機能”はどういう具合、システムになっているのか、どうしても知りたくなってしまう。
自分と言う意識構造(それは心の深淵、背後に在る。心は二次的なものとなる)が判ってくれば、そしてそれにそって生きれば、ちぐはぐな事や矛盾も少なくなってくる筈である。心も生きてくる。

 誰しも、個人個人、老若男女、それぞれ違うのであろうが、その人なりに、説明の可能、不可能を問わず、“ホッ”とする瞬間や状況、空間を知っている事と思う。
日本語に於いても、“ホ”というトーンは、理屈でなく、耳障りのいい、心地よいトーンである。
ホンと言えば,本、もとの事である。日本の本でもある。本物の、のホンでもある。
日本の古神道には、“ホツマ”という言霊学がある。ホツマによれば、ホは神名の一つとなっている。
タイ語で、ホーンはヒンドウー教の神鳥、鳳凰の事である。
英語だとホの附く言葉で気付くのは、まずホームがある。ホーリーがある。
ホと言えば、保,帆、補、ホのつく言葉にはいい言葉が多い。“あなたに「ホ」の字”とか、いい意味が沢山ある。
“ホ”は暗に“地”に着いたトーンでもある。それは“オ”という大地、基盤を象徴する、母音が入っているからである。

 真に寛いで“ホッと”する瞬間、エネルギーもスピリットも、体も自然に近づき、自ずとトータルになれるからだ。
あちこちに、散漫していたエネルギーが,一旦,我が家に帰ってくるようである。
又、自分に自信が湧いてくるのだ。
気付けば、周辺、世界の様相にもなにがしかの変化が見えてくる。
“あなたが笑えば、世界も笑う”、のである。

 人は、興奮していたり、緊張していたり、不安が生じたり色々な状況があり、様々な問題を抱え、苦しんでいる。
ゴータマ・仏陀はサンサーラ、現世の本質とは“苦”である事を発見した。
リラックスする方法を知らなければ、状況はますます悪化する。
興奮したり、頑張ったり、感情的になったり、緊張したりすれば、苦をより深めてしまう。
悪循環はここから始まる。
そういうときは、“縫い針に糸を通す”といった、ごく簡単な事でさえ出来なくなってしまう。
何かの不安材料が起これば、人は緊張する。何の根拠も無く、疑ってかかったり、否定的に物事を見てしまいがちになる。
極端な言い方をすると,多少の程度の違いはあっても,一種の狂気ともいえる。

 仏陀は、マインドなしに、苦は存在できない、という事を発見した。
苦の原因はマインドにあった。
外の空と内なる空が出会う時、マインドも、苦も消える。
その緊張を解きほぐせば、リラックスは元々そこに在ったのだ、という事に気付く。
“緊張を解く”、“あるがままを、あるがままに見る”、“無努力”、“無自己”、“無為”、“無心”、色々な鍵となる言葉がある。
仏陀は、それを通して、“無苦”を発見した。

 どんな人でも、落ち着いたリラックスした生活を送りたいのが、当たり前である。
それは、気が散ったまま、散漫という状態ではない。
ぐうたらしている事でも,ない。
リラックスには、“覚醒”、“気付き”という“意識の目覚め”が必要不可欠となる。
勿論それは緊張でもない。緊張とは,エゴに、特に攻撃性に関わっているからだ。
スポーツならいい。
ヨーガの方では,まず、脊髄を,力まずに真っすぐにする事や、ストレッチが初心者にはまず有効であるという。意識は脊髄の健康に負っているからだ。
悟りの境地も、リラックスする事によって“のみ”生じ、そしてそこから成熟が始まる。

 チベットに於いて、“ホ”のトーン、言霊(ワード・スピリット)の意味は、“邪魔がない”、という意味であるという。
それは言語ではない,が、万人に共通の力のある音である。
腹に響かせるトーンである。
民族、国,宗教の違いを超えて、人の体や意識に直接作用する。
そのスペースに立ち返れば、エネルギーもスピリットも、バランスも再調整できるのである。
それはどこかに在る、特別な場所のことではない。
誰しもの意識の中に在る空間である。その空間は、自分でクリエイトしなければならない。
“ホのトーン”がそのスペ−スを呼び出す鍵となろう。

 一切皆空、仏教の基盤、大地であるが、そこには、恒常的に様々な思考が現れてくる。
生きている限り、それには終わりがない。
だが人が何かを考えるのは、見えないから、視力がないから考えるのである。
若し視力があったら、考える必要も、理由もないではないか。
考えるという事は、ある意味で、過去の堂々巡りである。
決して、未知、神秘に通じている訳ではない。又、真理に到達する事もない。

 思考の特徴として、一つの事しか考えられない、それは、一つの選択である、という事がある。
それは言語の特性の故でもある。
言語とともに、思考が現れ、選択が現れ、アンバランスが生じてくる。
アンバランスが生じるのは、人間だけである。
この事は必然的のように見える。

 思考で物事を見れば、全てが一面的になってしまう。それゆえ、文化も、宗教も、瞑想も、科学も、音楽も、舞踊も、芸術も、言語を超えたものを探求してきている。
言語は役に立つ。だが言語には特徴があり、枠組みがある。
そこの所を理解して、言語を使いたい。
思考は思考として、適材適所に、部分的な事に使えば良い。
例えば、思考に依って起きた問題は、思考に依ってしか解決しない。そうすれば役に立つ。
ところが生は、まるで、ヒンドウー世界のように、多極的、多面的である。

 例えば、光と闇という言葉がある。言語上、一見、二つのものになっている。
ところが、光と闇は、光の量、闇の量、程度の差はあっても、一つのもの。
昼と夜とで一日なのとおなじなのだ。
昔の日本では光と陰の両方を、一つの言葉で“カゲ”と言ったそうだ。
意識が目覚めれば、トータル(全体)を見る事が可能となる。
そこで、思考に邪魔されずに、背景となっている“空性”を知れば、エネルギーもエッセンスも満たされてくる。
内なる大空である。
あらゆるものが、背景の存在に依って、クリアになってくる。
 
 良い俳句がある。

           “満月や、星、数限りなく、空は闇”

 身体と意識(エネルギー)と心を一つになるまで、無理矢理ではなく、自然に静かにしていると、やがて整ってくる。無理強いした静寂は、真の静寂ではない。見せかけだけの事である。
それは寛ぎではない。
“ホのトーン”の力は、瞑想者の意識を、なんの邪魔もされずに,今と言う,唯一リアルな次元での目覚めを体験する力をくれるのである。

 腹が減ったら食べ、疲れたら休む。
そうしなければ、健康上にも無理が起こってくる。
執着の克服という事もあろうが、それはまず、欲しいものを少なくする、という事を通じて、豊かになるという事でもある。それには、食事と睡眠は,欠かせない。
執着の克服の第一歩は、自分の体の、あるがままの、自然な状態を学ぶ事にある。欲望を良く観れば、それはエネルギーである。
欲望を捨てる必要はない。呼吸の質を変えれば良い。

雨があがった。ヤッホー!