日本でもよく使われる言葉、“魚心あれば水心”というのがある。元々は仏教用語、タオ(道)の言葉であると言われている。それは、寂静の境地のリアリズムを象徴していると言われる。さて、寂静の境地とはどんなものなのだろうか?
例えば、一つの思考と次の思考が生じる合間には、普通、自覚されないが、空間、隙間がある。
運動は休む事なく続き、そして、思考のない空間、隙間は静まり返った湖のようである。
一方、思考の動き、運動は、湖の魚に例えられる。
水とはこの例えでは、環境、理解、基盤、無心、意識、空性を表し、魚とは活動、企画、行動、思考、エネルギー原理、生命力を意味すると言う。
この二つの状態、静と動は、どんな生き物にも、どんな世界にも共通する。
例えば、車輪が回る。それは、動である。
だが中心には、車軸というものがあり、全ての動きを生かす、不動の要,静として機能する。
普通は,動にばかり囚われて、気付かれないのだが,この一見なんでもない“軸”ということ,その効用の大きさは計り知れない,
地球にも軸が一本在るように、軸なくして,動は成り立たない。
人が走ったり,運動するとき、無意識かもしれないが、どこかにセンターを定める。
そのセンターが定まらないと,動きがちぐはぐになってしまう。運動神経の鈍いとされる人は、そのセンタリングやタイミングの取り方が下手なのだ。静かになれば上手く行くのにと思う。
試しに,頭に中心を持ってきて,ボール投げでも、鉄棒でもやってみるといい。上手く行かない筈である。
頭中心では,生は認識されないということになる。
そのリアリティー、言葉を変えると,バランス、柔軟さ、丁度よさという認識力が必須になってくる。
普通の場合、明晰さが欠如、つまり、私達の中で、眠りこけていて、覚醒してはいない。
思考に頼れば、思考と言うものの特徴として、全体の把握が難しいと言うことが在る。思考は一度に一つのことしか考えられないからだ。
そこで,自分本来の知恵ではなく,どうしても、安直に、表層的な知識や観念に、縋ってしまうのだ。
明晰さ,或は,仏性と言ってもいいが、それは、判断なしに、その両者、静寂と動き、を認識している状態。不二一元体の認識に近いところ、陰陽の出会うところに在る。
この三つが大切な要素となっている。空性の理解、エネルギーの顕現、そして光明、或は明晰さである。
外の世界が、清浄であれ不浄であれ、空性との関わりに於いて感じられると言われる次元である。
その時点に於いて、二元的な世界、二元論は消え、一つの世界になっている。
それは、理解力、認識力に依って起こってくる。
“観る瞑想”に於いても、“見るもの”、“見られるもの”、“見る事”の三本柱の建立、三つの要素の認識で、世界が現れるという。仏教では、普通、浄土と言われる。
これはチベット仏教、ゾクチェン、タントラ、大乗仏教の基本的な土台となっている。
静、動,明晰さの三つである。
それらは全て,私達の中に在る。
まず、自然体として、寂静の境地を見いだすのは大変だが、決して、寂静の境地に留まる事だけが目標ではないのである。基盤としては、勿論、重要である。
だが、それは、第一歩にすぎないようである。
“魚心、水心”を深く吟味できると,生きる事は面白くなってくる。
2007年4月13日金曜日
魚心、水心
時刻: 1:56