2007年4月25日水曜日

何となく,コスミック(朝のヴィエンチャン)

 夜汽車は,朝の5時にノンカイ(タイ、国境の街)に着き、次いで、7時半発のタイとラオスの国境をつなぐ国際バスを待ち、メコン川を越えて、イミグレーションを通過し、ヴィエンチャンの街に着いたのが,8時半頃。夜汽車の窓から見えた、“黄金色の三日月と無数の星の輝き”の印象が,未だ、心に残像を落としている。

“名月や 星数限りなく 空は闇”

 いつもの事ながら、一国の首都としては,きれいな空気。車の往来も少なく、道幅も広く、街を歩くのが楽しい。気温は、30度を切っていた。涼しい!

 ここは,ラオスの首都、ガーデン・シティー、ビエンチャン。あちこちに緑が多く,南国の花が咲き競っている。何度も来ている所為か,土地勘もつき、街を歩くのが楽しい。ラオス語も少し覚えた。文字は異なるが、タイ語に近い。ヒンドウー語とネパール語の違いくらいのようだ。尤も、人々は、タイのテレビ放送を見ているので、問題はなさそうである。
 ここは,寛ぎの都。時間にゆとりがあれば,誰もが寛いでいる。しかも美人の郷としても知られている。知り合いもふえてきた。特別,何があるという事はないが、風情のある、居心地の良い街である。初めて来たのは、もう7〜8年前の事になるだろうか? メコンに橋(第1友好橋)が架かったときだった。嘗ては、“100万頭の象の国”と呼ばれた、タイの様な“王国”だったのだ。それが戦争で、全人口も500万になってしまった。

 だが、少しずつ、街はきれいに、そして確実に進化している。それでも,未だに、嘗てのヒマラヤの街や,チェンマイやチェンライの郊外や田園地帯の風情がある。なんと心地よい事か! それは,本来の自分に戻してくれるかのようだ。だが、それは“本来の自己”であって,まがい物のエゴ(自我)ではない、という事が唯一の条件だ。旅の途中で,虚偽を決める事もないだろうに…
 人は、その人自身にしかなれない。鷲がカラスにはなれず、蓮は蘭にはなれない。その逆も又真なり。他に道はない。他の道は,他の人の為のもの。だが,中には,自分以外の誰かになろうとしている。その事に同化しようとしたり,思考に悩まされる。それは留まる事を知らない。それは途轍もない、遠回りとなり,堂々巡りとなり、貴重な時間も無駄になってしまう。

 思考というものの性質に気付いた事があるだろうか? 思考、それは,一つの極端しか見る事がない。だから,小さい事,部分的な事、思考で起きた問題には役に立つ。だが,真実は二つの極を含んでいる。表層意識と深層意識、意識と無意識、昼と夜、陰と陽、静と動、存在と無。有と無、シヴァとシャクティー。東洋の伝統として、その両者を二重写しにして見る事の出来る人、意識の目覚めている人、ブッダとかシッダとか呼ばれる人が、この上なく、大切にされて来た。

 リアリティー、その事について、思考はその全体像を見る事は出来ない、という特徴がある。リアリティーには二つある。仏教では、二つの真実と言う。即ち、実在性、例えば心、そして、事実性、ものがものである事、この二つであって、ヒンドウー、仏教、イスラーム、タオ、全てが認めている。両者が一つとなって、生を成り立たせている。

 だが、思考自身には,それを見抜く事が出来ない。事の真のありようを見抜く事が出来ない。それは“いいとかわるい”という事ではなく,思考の持つ性質の事だ。

 一方、生は、両極性の融合の中に存在する。例えて言えば、丁度、メコン川のように、タイと言う岸辺と、ラオスの岸辺との間を流れるのだ。素直に、両極を同時に見て、理解しない限り,何を見ても,半分になり,そして、もし、その半分を全体としてしまったとしたら,観念、概念の幻覚世界に陥ってしまうのは、当然の事となる。そんな事があちこちで起こっている。頭でっかちになってしまっている証拠でもある。
 今日は,日本の詩や賢人を中心に話を進めていこう。

“ながむれば 我が心さへはてもなく 行へも知らぬ月の蔭かな”(式子内親王)

 この歌人の意識は、ものごと自体に、それほど焦点を合わせていない。遠いところを、静かに“眺めて”いる。詩的情緒的表現であるが、この焦点をぼかした視線の彼方に,何か越えたもの、無限性を感じてしまう。

 井筒俊彦氏の“意識と本質”という書籍を参考にさせて頂くと、“本居宣長”の言うところの、“もののあはれ”、“ものの心“とは、二つの正反対の次元で成立している、という事である。一方だけでその価値観は成り立たない。物事を、概念的、観念的、抽象的に見るのではなく、又、普遍的な認識を排除して、“直に触れる事で“、成り立ってくる。それは”生きた現実“でなくてはならないのだ。言葉で説明すると、どうしても遠回しでややこしいが、ここに日本的な、宇宙観の基本があるように思う。それは、在る意味で、東洋的な、仏教やタントラ、タオ的な価値観でもあると思う。

 そのことが,深く理解できれば,“生命の河”は流れ始める。何の滞りもない。それが自然、無為自然という事なのだ。“ものの心”を、知った事になる。その人は、“心ある人”と呼ばれる。

 只、理解力、耳の光があれば良い。人は生き生きとしてくる。喜びに満ちあふれてくる。なんとも、不思議な事だ。“妙”とは、言語を絶している。

 どうも、最近の我々の日常的世界は、この“肝心要の理解”を省略して、既に出来上がった、物質的見地による地平に、そして、表層意識という狭い部分に、観念的に押し込まれて来ている、ように思えてならない。効率や能率“だけ”が,有効であるかのようになってしまう。生が感じられないのだ。
 昔のジャズの名曲に,“スイングしなけりゃ,意味が無い”という曲があった。効率や能率も必要かもしれないが、生きてなければ,意味が無い。

 例えば,自分の使っている物,ペンでも、眼鏡でも、自転車でも、車でも,愛着が湧けば,そのものの存在は,只の“木石”ではなくなってくる。
石でさえ、光り輝くのだ。それは、意味を持ち始めるという事である。どんなものでも、金銭には替えられない何かになってくる事さえある。それは、“妙”の一端を知った事になる。誰しもが知っている筈の事である。“物の心”を知る、とはそういう事でもある。

“常に無欲、以てその妙を知る” “常に有欲、以てその徼(今日、言語的に分類されたハッキリした輪郭を持つ世界、即ち、ものに執着する心)を知る”

 “老子”の言葉であるが。どうも、その大切な、前半の部分を忘れてしまったのではないだろうか? 両方なければならないのに… それは相互依存に在る両極なのだ。どちらか、片方だけでは、何も始まらない。“隻手の音声”となってしまう。あなたは、本当に生きた事があるだろうか? 子供の頃は、どうだった。

 メコン川にそった宿(ラオ・サコーン・ゲストハウス)に部屋を取り、まずは朝食に出かけよう。マンゴー・シェイクで落ち着き、カフェ・ラオとフランスパンでの朝食。夕べ、汽車の窓から見えた、“黄金色の三日月”が心に残っていた所為もあるが、どの名の通り、“クロワッサン ドール”(黄金のクロワッサン、三日月)という、行きつけのフレンチ系の、カフェ・ベーカリー。
 相変わらず,タイ人、ラオの人、そしてフランス人のお客が多い。美味しいからだ。一人や二人の顔見知りもいる。人心地がついたところで,一眠りしたくなった。汽車の長旅に疲れたんだろうね。実際、夢ではなかったのだが、夜汽車の夢の続きとして見れたらいいな。

 目が覚めたら、夕方だった。もう6時を回っている。外に出てみると、真っ赤になった夕日はまさに沈もうとしていて、西の空は茜色。何時見ても美しい! 不思議な事に、この茜色という天然の色は、空の蒼さ、水の色、森の緑と同様に、見ていても、決して飽きる事はない。不思議だねえ。そして,三日月は、昨晩より一寸成長して,南の空に,今夕は白く輝いている。

“茜空 月は南に 日は西に”

と言った,案配。
 さすがに未だ昼間の暑さの名残が残っていて、少し暑い。だが木陰に入ると、そよ風が涼しい。もう少しすれば、もっと気持ちよい。涼しさに誘われて、一休禅師の和歌を思い出してしまった。私のフェイバリットである。

“二つなき ものとなりえて 一もなし 墨絵の風の さても涼しき”

 寒いのはごめんだが、涼しさというのは素晴らしい。引っ越してきたくなってしまう。ビエンチャンはいいところだ。“コプチャイ・ライ・ライ!”(ありがとう)
 タイの国境の町、ノンカイまでは,バスに乗ればすぐだし、それで、様々な、不便さも解消できる。

 それはともかくとして、何よりも静かで落ち着いているのがいい。今は、今を楽しもう。良い戦争というものは、嘗て一度もなかったし、又、悪い平和というのも存在した事がない。今は、ゆっくり,寛げるのが何よりだ。
 メコン川で、子供と一緒になって泳ぐのもいい。何であれ、川でも海でも、水の傍というのは良い。空気そのものが良い。オゾンが一杯ある。
 明日は、一寸、郊外に足を伸ばして、象に乗って、ジャングルや水辺をトレッキングしてみたくなった。最近では珍しいことだ。これは夢の名残からのメッセージかもしれない。

 このところ、運動不足が気になっていたからね。体も心も喜ばせないと… 命の洗濯だ。たまには、羽根を伸ばそう。

 ヨーソロー!(宜しく候)