2007年4月21日土曜日

丸くて広いこの世界

 近くで,誰かがバンスリ(インドの竹笛)を吹いている。月夜の晩には、殊更、夜空を明るくする。静けさを引き立てるような、渋い、素朴な竹の笛のトーン。それは、宇宙のはてにまで染み通るような深みがある。音楽は旅の始まりかもしれない。そう考えれば,読書も,映画も、宗教も、芸術も旅である。旅を知る程に、旅は、人々を捉えて離さない。


 地球は丸くて広い。そこを、旅をしたくなるのが,旅心。誰もが持っている、心の情緒である。ただ、名所旧跡、世界遺産や、絶景な地点だけを目指す訳でもない。世も末だ,と言われるようなところから抜け出したい,だけでもない。自分と言う枠組みの外へ、出てみたいのだ。“あたって砕けろ、磯の波” それは、新たな自分に出会う為だ。

 気に入ったところは,いくつも在るだろうが、そこに至る直前,或は、そこにいることを通じて、心に触れる印象が強いと、その土地が気に入ってくる。何処であれ、美や神秘を感じる事がある。そう。象だって泳ぐ事が出来る。カワセミだって、ダイビングする。空飛ぶトナカイ? まさか? クリスマスでもあるまいに…

 それはともかく、心の最大の能力、感じる事でもある。子供の眼、人々の表情、蓮の花、虹、風の歌、鳥の飛ぶ様、森の動物達、無心の石や岩、海辺のアンサンブル。つまり、自分が意図していないことが、未知なる何かが、最大の理由になっている。そこに、美を感じれば尚更だ。只,未知だけを追い求めても,美は現れる訳でもない。

“求めざれ、されば与えられん“

 それは、たまたま,起こることだからである。対象そのものではなく、自分のあり方で、未知は起こり易くなる。そして、変化は新たな変化を生み出すようだ。

 一方,論理は,冒険することがない。論理は臆病もの、と言えるかも知れない。実際、生は論理ではないからだ。それは、只、決まったレールの上だけを動く。レールから外れることはない。

 旅とは、冒険である。日常的な旅,ということもあるが、基本的には,日常性からの離脱。旅を通して,新しい自分、色々な人達,様々な矛盾、自然や、未知なるもの、生そのものに出会うことでもある。その度に人は、少しずつ大きくなって行く。始めの内は、有為であっても、やがて、無為を知る。次第にそのことが楽しみになってくる。
 やがて、些細なことも、普通のなんでもないことも、楽しめるように、なってくる。そして、一切の矛盾を、抱懐する調和、その途方もない事に、生の意味を知る。旅が、“佳境”に入って来たのだ。旅が、瞑想になってくる、という事だ。そこからだね、人生が面白いのは。

 もう無理することはない。気の赴くままに、心の赴くままに行けばよい。“無事、これ名馬なり”、という。揺れない船に乗ってゆきたいものだ。

 花でも愛でながら、ゆるゆると…