今日はたまたま,美味しいお茶を御馳走になった。友人がインドのお寺で頂いた紅茶(チャイ)を、態々(わざわざ)届けてくれたのである。何とも嬉しい限りである。茶の葉はそれほど上等のものではないにしろ、美味しく入れてある。インド風ならではの、一寸強めの甘みとコク,ミルクの量、絶妙の渋みのスパイスの量で、下手な高級インド料理店のチャイよりもずっと旨い。程よい旨味が絶妙なのだ。心が籠っている。
まさに、茶は心である。全宇宙が蘇ってくる。その心とは、空のように、大きく開かれた心、普段、忘れかけていた感性、きめ細かさや美意識がある。“無選択の美”、を知っているだろうか? そんな心で、風流に遊んでみよう。
風流という言葉の意味は、形式化した世俗的束縛の中から、内面的に逸脱する“風の流れ”と言われている。根本には,禅や、タントラ、タオのエッセンスが見えてくる。そこには、自我(エゴ)の殻、観念的束縛を破るという、破壊的な意味も在る。創造性は,そこのとろを通して現れてくる。私達が自分を取り巻く環境や世界で,ぶつかる限界、快。不快、壁とは、もともと自分の想像や思い込みの中に作り上げてしまう限界、と同じものなのである。
世界とは,自分自身の反映(リフレクション)という事に気づく事から,風流の扉は,自ずと開いて行く。同じ風景が,別のものに見えてくる。それは、心を正して,俗を離れるという事である。少なくとも,お茶を楽しむ間に於いては…
風流研究の先達、九鬼周造氏によれば、“水の流れには,流れる床の束縛があるが、風の流れには,何の束縛もない。世俗をたち、因習を脱し、名利を離れて虚空を吹きまくる、と言う「気魄」が,風流の根底に無くてはならない。”と言う。
“風流の まことを啼くや 時鳥(ほととぎす)”

最近の、欧米の瞑想者や探求者の中にも、日本の、風流、粋、情緒を学んでいるものも多いと聞く。東洋が、深く静かに浸透して行くかのようだ。華やかなものも,侘びたもの、最初の寂びたものもある。面白いもの,幽玄なもの、細いもの。可笑しいものも在る。微妙な中間域にあるかもしれない。相反するものあるだろう。もっとあるかもしれない。
“静けさや 岩にしみいる 蝉の声”
原理的、語源的に言えば、
風流は、“体中の風(気)の流れ,エネルギーが,呼吸を媒介にして、碧空に吹く風に身を任せる”,という事であるらしい。
言葉を変えれば、“昇華”の表現と言ってもいい。
瞑想の、一プロセスの状態である。仏法、タントラの法にも適っている。
瞑想とは,贅沢な遊びであるが、その遊びに注目して,発展させたのが、風流と言える。
風流は、離俗性、耽美性、そして自然美という事で成り立っているからだ。
それは、タントラ的に言うと,世間的、日常的な、”焦点を変える事”である。
感情に振り回されたり、壁に取り囲まれる事もない。嘗ての限界というものも消えて,生と直面すると言う事にある。
蒼い空、雲のたわむれ,風の歌、水の流れ、波の音、全ての生き物達、石、花を愛でる心、それらは皆,生きている風流の家族達である。全宇宙と一つになること,自然であるという事。
日本の文化が,源を,自然を愛する事に,自然美に於いて,成り立つ美学である。
“痩せ蛙 負けるな一茶 これにあり“
名句を幾つか紹介したのだが、“風流は、自然に帰る、道すがら”と言ったところの、空間の、時間的には一瞬のプロセスである。
それは、例えば河、河が単に固定的、観念的な名詞の河では無く,水が流れている河、河が、河している,動詞の、生きている河である。それは決して型や枠、観念的に、はまったものではない。河には河のダルマが在る。本性と言ったらいいだろうか?
風流という美学を味わえば、人は、自分の好みや生活と自然とにギャップが少なくなってくる。意識と無意識との間の通路が開くからだ。
自分の嗜好や好みと、自然である事とにギャップの多い人は、極論すれば、言わば,不自然。健康も損ないやすいようだ。風にも,流れにも身を預けるユトリ,豊かさ、がないからだ。
日本に於いては、茶道は、禅に起源を持ち、自然美や人生美を追う、風流の前衛とまで言われ、そこから、旅や,恋、色の道、建築,、もののあはれ、文化、音楽、芸術、華道、庭道、香道、粋、情緒、人生道にまで,風流の楽しみは及んでいる。こと、現代に至っては、世界中の文化、宗教,ものの価値観にまで,広げる事が出来るというものだ。焦点さえ変えれば、ものは考え様、面白き時代に生きているのだ。

“高く心を悟りて,俗に変えるべし”
その時、“俗”は,出発点に在った俗ではなく、止揚した,“変容した俗”である。視力が蘇っているからである。そして、そこに,円が一つ完成する。 “旨い茶は 点心なしで 戸を開く”
“エク チャイ オーラ!“(お茶を,もう一杯!)最後に,拙句をもう一つ。
“木漏れ日が 模様を落とす 岩清水”