人が生きるという事の中核は,欲に覆われている。少なくとも,人の個的存在の中核となってしまっているのが、欲である。この世も,欲で成り立っている。欲によって生きているのが人間である。そして、欲から,喜怒哀楽が、文化や文明も育ってくる。
例えば、1903年だっただろうか,ライト兄弟が初めて有人飛行を体験して,たった100年しかたっていない、とは思えない程の,文明の発展ぶり。凄いとは確かに思うし、恩恵だって被っている。だが、その変化のスピードは物凄い。
1903年に,ライト兄弟の有人飛行と、時を同じくして始まった,ハーレー・デヴィッドスンというモーターサイクルは,“原初の味わい”を基盤に、ゆっくりとしたスピードで進化して来た、のが好対照だ。時には、生きている実感なんて見つからない事さえある。速ければいい、便利だからいいといった単純な問題だけではないと思う。眼に見えない諸々の事も引っ張って来たんだから。
近代文明は,人類に大いなる果実をもたらした。変わりに様々な能力も奪って行った。もしかすると,有史以前の人類の能力,今では想像を絶する能力が会ったのかもしれない。文字を持たない民族程,他の能力に長けていたんではないか等と想像をしてしまう。
地球温暖化なんて問題は,文明のアンバランスから生まれてきたんだと思う。そんな中で、自分なりの、程よさってもの、基盤を見つけなくちゃね。人が生きると言う事の中核には,欲が現れる以前にあったものがある。それを忘れてはならないと思う。
週刊誌を開いてみれば、女性のヌードが反乱し,セックス記事が,これでもかと言わんばかりに,充満している。それを飽きもせず,人々は読み続ける。それで、肝心なところを押さえてしまうと,どうなるか? 方向づけだけして,後は野となれでは、堪ったものではない。小学生や中学生だって,大人の真似をしようとするだろう。成長に一番大事な時期だってのに… 学校の先生だって、おかしな事になっているようだからね… 最近は。異常犯罪だっておこるよ。
自由という言葉はいいけど、それは本当の自由じゃない。それは、勝手気ままであって、意味が違う。自由と言う言葉は,言葉であって、自由を象徴してはいても,自由、そのものではないのだから。自由には、自ずと責任が伴うし、又、本当の自由ってのは、そんなものではない。生きてみれば判る。
夏休みが終わった頃,産婦人科の病院が繁盛しだす、という“笑えない珍現象”が煩雑に起きてくる。女性にとっても,こういう時代は,恥じらいを無くして,本来の女性の魅力や力をスポイルしてしまうことになる。何と退化してしまったんだろうか! 責任も恥も外聞も無くなってしまうんだよね、こうゆう事が,あまりに表立ってくると。
性は秘め事でいいんだと思う。そうすれば、うんざりするような事も少ないと思う。性、そのものには悪い事はないんだけど、付随する事には注意が肝要だよね。エゴではなく、大きな視点で見ればいいんだ。本当は,簡単な事なんだ。性的エネルギーもそのままだったら、枯渇するだけだけど、意識や愛にも、無心にも変容して、もっと学ぶ事も出来る、と言う事を知っておいた方がいいと思う。人にはもっと可能性があるのだ。エネルギーをセックスばかりに向けたり,使ったりするのは,もったいないと思う。愛がある時にセックスはいいと思うけど。
ところで、愛と情欲との違いはなんだろう? 愛では,相手が重要だが,情欲では,自分が重要になる。セックスは、意識という柱の、一番下の段階なのだ。上にはまだまだたくさんの世界が,無限にあるというのに… 何も知らずに終わってしまったとしたら,生きてる意味が無くなってしまう。
若いうちは,性欲は盛んだけど、一方で,抑制する力も,同じく位、盛んなんだと思う。只、押さえるばかりでは能がないから,運動するとか,スポーツやるとか、本を読むとか、何か楽しみを持つとかするといいと思う。エネルギーを循環させる事。瞑想の第一歩だよね。若いうちにそれをやっとかないと,年取ってから,融通も利かないし、多面体の世界の一面でだけしか生きられなくなってしまう。もったいないよね。多面体のいくつか旅をして,トータルな何かを掴む、それからでもいいんではないか?
いいことわざがある。
“牛乳を配達する人は,その牛乳を飲む人以上に健康である”
私の青春時代、バイクと釣り,山歩きと水泳、読書と音楽(主にジャズ)で十分楽しんだし,世間に振り回される事もなかったのだ。夢の中でシヴァ神に出会ったのは子供の頃だったけど、北斎や広重の版画に感動したのも、老子の本を愛読し、妙、無心という次元を知ったのも、その青春時代だった。将来にヴィジョンと言うか、夢があった。ロマンがあったのだ。それは無心が基盤となっていた。好奇心は、意識も頭もこころも活性化させる魔法のような働きがある。
今でもそうなのだが、若いうちは特に、好奇心を大事にしよう。そうやっておけば,大人になっても,人生楽しめるんだと思う。60過ぎても、未だ青春は続いてるんだよ、私の場合。
現代社会の矛盾をつけばそれこそきりがない。価値判断は,永い人類の歴史を見るまでもなく、所詮は,相対的なもの。そこから新たな認識が生じれば、それはそれで納得できるというものだ。
生活の基盤、衣食住についても、欲を出せばそれこそ際限がない。何らかの、欲しいものがあれば、誰でも欲しくなる。その欲しいものを得る事で,生活上のメリットが出てくるからである。場合に依っては,自分への投資という言い方も出来る。これは,ポジティヴな言い方だと思う。、欲しいもの全部と言ったって、状況に依って,無理も出てくる。だからトータルで見ないとだめなんだ。例えば、高価であったり、状況が不完全で、欲しいものが手に入れられない時には,そういうときがくるまで,待てばいいんだよ。その間、他の事をしてればいい。簡単な事なんだ。意外と人生ってのは、長いからね。
それに、物事は,インスタントには行かない事の方が多いと思う。焦点を変えるってのは,クリエイティブな事への,生きる事へのアプローチなのだ。表面的な事だけに囚われて,一番大事な,“質”を失ってしまうと,生きる意味も無くしてしまう。又,恵まれた環境で,何でも手に入る人は,逆に不幸なのかもしれない。何するにも,刺激や,楽しみ、喜びが無くなってしまうからなのだ。
創造性とは,特定の職業とは関係がない。それは,頭や心よりも深遠な“意識の質”と関係があるのだ。表層的な、人の意志や願望とは関係がないのだ。仕事ばかりではなく,部屋の片付けでも,掃除でもいい。洗濯でもいい。料理だっていい。なんであれ,創造的なものになりうるのだ。楽しむ事が肝要だ。それは,瞑想的に楽しむ,仕事や環境を愛するという事でもあるのだ。創造性は,無心な時,自ずと現れるものなんだ。
日本には、俳句や和歌や芸術にしても、あまり“欲”をテーマにしたものを聞かない。欲に眼がくらむと、物事の真実が見えなくなってくる,という事にも人は気付いていた。生きる本来の楽しみや、価値観をスポイルしてしまうからである。
“タントラ”では,“欲望を捨てる必要はない”とまでいう。“呼吸を変えれば良い”という。それは“焦点を変える”という事である。欲と言うエネルギーを旨く使えばいいんだよ。エネルギーそのものはニュートラルなんだから,欲にでも,セックスでも、創造性にでも,知恵にも,喜びや楽しみにもなるのだ。
欲望の源は,エネルギーである。エネルギーが何らかの対象に出会うと、そこから欲が出てくる。いくら理性で押さえ込もうとしても,欲望の我慢、それは人、本来の姿ではない、という。無理している事になる。欲望の枠組みに,取り込まれてしまっている事になる。人の心は自然から離れると,頑(かたくな)になってくる。我慢というものには,自ずと限界があるからだ。エネルギーの方向性を変えれば,常に欲望に苛まれる事はないという。質そのものが、根本的に変わるからだ。こんな素晴らしい事はないよ。
タントラに於いては、何事であれ,無理矢理という事は,クールではない。スマートではないと考えたのだ。その背後にあるもの、空性を知っているからなのだ。まずはそこからだね。
エネルギーとは,生きている喜びのこと。成長とはエネルギー現象なのだ。なんの理由も無く,只嬉しくなる事がある。それはエネルギー現象だ。比較や競争、葛藤や野心に囚われず、又,自分以上のものになろう等と考えなければ、エネルギーはどんどん溢れてくるようになる。無駄な浪費が無くなるからなのだ。創造性は,あなたの意志では無く、そこからやってくるのだ。
“侘び,寂び”という美学がある。禅から発生し,茶道も見いだそうとした,日本文化の基本的な美学である。判りやすく言うと、”欲しいものを少なくして,豊かになる”、と言う“変容の知恵”である。根本的な価値観、意識を変えるので,欲望に取り付かれるという事も少ない。そして新たな美意識を見いだそうとする。寛ぎである。禅によれば、生のエッセンスは“寛ぎ”にあるからだ。そこから新たな質感の美学が生まれた。
それは、欲望を無視するとか,欲望から逃げる,という事だけでもない。むしろ,欲望から抜け出た上で,欲望を吟味する、といったらいいだろうか。そういう寛ぎも在る。欲望に瞑想すると,欲望は消えて行く。という性質がある。元のエネルギーの状態に還元されるからだ。その中で,どうしても、必要なものだけを,残しておけばいいのではないか。ユトリができてからでいいんじゃないの。欲望と必要とは,若干、質が違うんだよね。欲望には,遊びの要素もあるのだ。
人が生きて行く上で,食べる事,眠る事、これは必須条件で、普通は欲望の内に入れる事は少ない。勿論,そこに欲を持ち込めば,そこにも際限はない。
又,身分不相応というものも在る。たまたまならご愛嬌だが、ポケットに500円くらいしか無くて,最新のベンツに乗るのもどうかと思うし、ブランドもののシャツに、イタリア製の靴を決め込んで、工事現場に行っても,場違いで、クールとは言えない。形に囚われすぎるのは,クールとは言えない。
タオの言葉に、“足る事を知るものは、常に豊か”、というのがある。それは所有物の多さではない。心のゆとりの事である。
少し、ゆとりができたら,その範囲内で、誰にでも欲しいものが,一つや二つは在る。欲しいものを夢見るのは楽しい。そのものが個人的な物事でも,新しい仕事の企画でも、なんであれね。イメージ作りから始めると,楽しみになる。そんな夢や欲望は、いいと思う。生活にも張りが出てくるし、希望だって膨らんでくる。仕事だってやる気になってくる。今度お金が入ったら,あれが欲しいとか,いい方向に使えば,欲は悪いものじゃない。使い方が肝要なのだよ。
身分や,状況に、不相応じゃなかったら,欲しいものがあることは,いい事だと思う。時には無欲、時には有欲。いいと思うよ。