もうだいぶ昔の事になるが、15年位になるだろうか、タイ国の国王陛下(ラーマ9世、プミポン国王)と、お喋りをさせていただいた事があった。それは、たまたまのハプニングであった。そして、国王陛下の誕生日(12月5日)の事であった。
場所は、ワット・プラケオ、通称エメラルド寺院(翡翠で出来たインドの仏像が有名である)。タイの国家的中心となっている、有名な寺院での事である。丁度、王宮(儀式上の)と背中合わせになっていて、その事も、この寺院の重要さを表している。つまり、王室と仏教が表裏一体となっている事の現れでもある。
その日、国王陛下が民衆の前に現れるという事を、知らずに、何となく、プラッと遊びがてらやってきたのである。“何となく”、という事は、虫の知らせ、無意識の直感、アドヴァイスだったのかもしれない。その日に限って,妙に、ワット・プラケオに行きたくなったのだ。
寺院の入口で、白い蓮の花を一輪、買い、人々は、王様の御出ましを、今か今かと、静かに待っている。中には,沢山。花を買う人も勿論いる。
寺院の庭園の広場には、人々の持つ白い蓮の花が咲き乱れ、人々の笑顔が満ち満ちている。
空は,何処までも青く,抜けるような快晴であった。
ここは只の寺院ではなく,時として聖地なのだと一瞬、思った。
事実,ここはタイ語で,“ドウシット”(浄土、極楽)と、されている地域であるからだ。
空から見たら,実に壮観であった事だろう。
王様が現れると,人々は,さっと引き始め、国王の動く為のスペースが、丸く出来てくる。
その所為で、たまたま、その円周の一番前にいる事になってしまった。
ワット・プラケオは,今でもそうなのだが,短パン,ゴム草履は,入場が御法度。女性も長いスカートか長ズボン、そして靴を履かなければならない。そういう規則なのだ。
どういう訳か,買い立ての、ランヴァンの、一寸,小粋な半袖シャツ、外国製のスニーカー、一寸,上等な麻の、紺のロングパンツ,首からかけた,ニコンの一眼レフカメラ,手には蓮の花、一輪、という出で立ち。
トーンもヴェージュと紺という色合いだから、目立つ訳ではないが、まあ,シンプルにお洒落をしていた事になる。あんまり薄汚かったら、こんなチャンスはなかったかもしれない。
国王が,円周にそってゆっくりと歩き出す。人々の感動する波動は,比べる事は出来ないが、チベット人に取っての、ダライ・ラマの人気に匹敵する。
王様は私の前にやって来られると,立ち止まり、私のカメラに眼を留められた。
びっくりしたのは,当然だが、カメラについて色々とお尋ねになられ、それに夢中で、答えるのが精一杯。無心そのもの。素直になるしかなかったのだ。
あがってしまう事はなかったが、緊張してしまった。
タイの一般人に対しても、声をかけられる事は余りないと言う。しかも私は外国人。
周りのタイ人達もびっくりした。
そして、いきなり,見事なキングス・イングリッシュで、単刀直入に、カメラについて、尋ねられた。私は、タイ人には見られなかった訳である。当時の東洋人で,ニコンの一眼レフ・カメラ等を、ぶら提げていたのは、90パーセント日本人だと推測なされたからでもあろう。当たりである。
好奇心旺盛な御様子で、いろいろと質問され,それに一つ一つ,こちらも,判りやすいように、丁寧に答える。ズームレンズや自動焦点がお気に入りのようであった。時間にして,5分か10分だったかも知れないし、もっと長かったか,短かったかは判断できかねた。それは,無時間の、無我夢中の出来事だった。
説明が,終わった時,王様は私に尋ねられた。
“タイでは何をなさっていられるのですか?”と。
そこで,正直に、“御蔭さまで、タイの文化、仏教、ヒンドウーの勉強をさせて頂いております。タイは魅力が一杯です。”と、言うと、
“それはいい,あなたが、羨ましい。”と,仰られた。
タイの国王ともなれば、大変な事は判っている。
政治的な元首ならいざ知らず,文化と宗教、国民を背負ってたたなければならない役割である以上,余人の推測を超えていると思う。それは,日本の天皇にも当てはまる事かもしれない。
王という言葉の真意は,突き詰めると、責任という事であるらしい。非常に孤独な、しかも大変な仕事だと思う。
“羨ましい”と仰られたのは,きっと,私の持つ自由で素直な感じ、王様の近くにはない波動であったのかもしれない。
そこで,気分を和らげるつもりで,“陛下は,ジャズがお好きと聞いておりますが?”
と伺うと、知的でしっかりとした表情を崩されて、にっこりと微笑まれた。
今,思い出すたびに,その“笑顔”が何とも言えない程、嬉しかった。波動が交流した。
それは、“最高の御馳走”であった。
“嬉しい”という情緒感は、精神が小さな“まとまり”から,大きく宇宙的に拡張する状況を意味している。
受容性の情緒感である。それは,“生命力に溢れた情緒観”であるから,どうしても、“能動性”に移行しようとする傾向は顕著となる。それが“喜び”である。
笑いを基盤として、嬉しさとなり、始まりとなるのが,“嬉しさ”であるように思う。
意識が拡大する。それは“タントラ”という言葉の本来の意味でもあるし、ある種、精神的な興奮の情緒でもあり、やがて“喜び”へと展開する傾向を持っている。
“嬉しさ”という受動性が、“喜び”という能動性に変わって行く。変容という言葉の意味が,お分かりいただけたと思う。
これは、“幸福の法則”と言ってもいいかもしれない。
それは、笑顔に始まり、嬉しさ,そして喜びへと変化して行く。その背後に,エネルギーがか活動を始めて、宇宙的に展開するという事にも留意しよう。そこに創造性を見る事が出来るではないか?
そこに、“楽しみ”が生じてくる。“嬉しい”という感覚的なものから発展して,精神的なものへの移行が起こるのだ。
精神性とは,一切の欲望がない時にだけ起こる。
何らかの出来事が,笑いや嬉しさを起こさせるならば,その状況や,対象に,人は愛を感じ、もし、悲しい事ならば、苦や憎しみ、寂しさを感じてしまう。
“嬉しい”という言葉の語源は、“うるはし”から転じたとされるが、「心(うら)愛(はし)」という事らしい。
生きているって事は,この上なく深く、底なしに“面白い”。
“楽しい“については,以前、ブログで説明したが,もう一度説明すると、“楽しい”の語源は,“天照大御神”にある、という。
故事に曰く、
“たのし”は、天照大御神が、天磐屋戸を出られて,諸神が“手伸して“(手を伸ばす)、喜び歌ったところから来ているのだが、“手を伸ばす”と言う事は、空間的な広がり、“自由”という意味の他に、時間的な意味も在る。
時間的な意味とは,即ち,“未来への展望”を意味している。
笑顔や嬉しさが円の中心とすると,喜びや楽しみは,円の周辺へのびて行こうとする遠心的なエネルギーであると思う。無心は,求心性と自由を意味することになる。
さて、驚いたのは,翌年の事。
再び、タイにやってきて,驚いたのは、国中に貼られている王様のポスターであった。
そこには、何と,王様が、背広姿でニコンの一眼レフ・カメラをぶら下げていらっしゃる。これには吃驚した。
後にも先にも,ブランドのついた製品,それも海外のものを身につけたポスターや写真は,嘗てない事であった。よっぽど,気に入られたに相違ない。
タイに於いて、これ以上の宣伝効果はない。王様の無言の“鶴の一声”ってところだろうか。
これは,ニコンだけではなく、日本の製品がタイで、公に,そして大衆に認められた,という事でもあった。
その後、日本製品がタイで発展する事となり、タイの為にも,日本の為にも良かったのかなと,内心、満足している次第。今では,日本食までブームになってきていて,何か嬉しい思いがする。
だが,私は何かをした訳でもなかった。
何の意図も、野心も無く,只そこにいて。素直に,丁寧に説明しただけであった。
即ち,“無為の行為”であったのが、良かったのかもしれない。
“王様の笑顔”が全てを凌駕していた。“笑う角には福来る”、である。
この話を覚えているタイ人は,もう今では少なく、僅かの知り合いの日本人位しか覚えていないだろうが、又、滅多に人にも話さなかった。
だからこの話は、私に取っていい思い出だが、内緒にしておいて欲しい。
私が、何かをした訳ではないのだから。
一寸した、シンクロニシティー(共時性)のハップニングなのだから。
それはともかく,王様には,これからも長生きして頂きたい、これはタイ人の切実な願いでもある。
余談になるが、笑いは、笑顔は、そして上機嫌で過ごす事は、頭を活性化させ、免疫機能を改善し、ストレス・コントロールにも役立つと言われている。血流の流れを改善し、体をアルカリ性に変えるとも言う。健康上にも優れた,タントラ・ヨーガの一つと言ってもいい。
何処かの国の“ことわざ”に依ると、“笑いが、心のうちに漂っている時、諸々の禍いは,影を潜めてしまう”、とか。良い笑いは、まるで魔法のようでもある。
又、タイが“微笑みの国”と言われる所以は,世界遺産、“スコタイのブッダ”、にあると言われている。
必要な事や、仕事ならしょうがないが、もう昔みたいに,遠いところや、始終、あちこちと出かける旅は、億劫になって来ている。人が旅をすると言う事は、普通の人間として,知らないところに,直に、行く訳だから、自分の好奇心を満足させる為だけ、でもないと思う。
一つには、色々な人が,自分をどういう風に見ているか? という事が少しは判ってくる訳なのだ。
色々な事、判っているようでも,以外と,自分の事は判りにくく,探りにくいものなのだ。
“私とは何か?”、そして、“自分を学ぶ事”、これは、人間にとっての、永遠のテーマなのかも知れない。
この人は,好感持ってくれているな、とか、機嫌が悪くて、今、嫌われてるな、とか判るのだ。相手が“鏡”になってくれるのだ。
以外と,自分を第三者の眼で見るってのは、難しい。どうしても甘い見方になってしまうしね。
だけど、そんなに神経質になる必要はないし、深刻になる必要もない。気楽でいいんだと思う。基本的には。旅なんだから。人生そのものも、旅なんだしね。
又,無理して,好かれようとしても、だめなんだよ。
それは、野暮と言うか、姑息な謀、愚の骨頂だ。
私自身、基本的には、私なりに普通でありたいと思うだけなのだ。窮屈な枠にはまらずにね。
嫌がられたら、それはそれでいいと思う。“間”が悪かったと思えばいい。
誰しも、いつも機嫌がいいとは限らないからね。
基本的には,寛いでいれば,それほど嫌な事に出会う事も少なくなってくる。
寛ぎとは,緩和する能力、そして、それは創造性が起こる源でもあるんだよ。
そこに、暮らす事を、お勧めする。
出来るだけ、普段の,自然体で旅しないと,自分はどんな人なのかは,良く判らなくなってしまう。人間は、頭だけで、計算だけで生きてる訳じゃないからね。旅は,本来の自分を取り戻す為のプロセスでもあるんだから。
又、よっぽどのアホでもない限り、何の利害関係もない第三者、他人、の眼に映った自分を見て、普段、気付かなかった事を教えてもらえるからでもある。それが,旅の面白さの,もう一つの理由かもしれない。
尤も、とんでもない解釈されたり,誤解される事もあるけどね。思い込みや,観念の強い人なんかだと……。
私という存在が、その人の,知的枠組みや観念の外にある場合なんか、特に,混乱してしまうのだと思う。仕方ないよね。自然体ってのは,外的な、枠組みに囚われない事なんだからね。
又、時には、動物や、野生の動物とも親密になれた時なんかは、大抵、自分がいい調子に在る時なんだと思う。
私を含めて,人間も動物の一員だし、そして動物達は、リアルだからね。嘘がないんだ。
下手な人間より,ずっと上等なんだよ。
動物だって、嬉しいと、動物なりに、笑う事もあるんだよ。ブッダとサルナートの鹿は,どうだったんだろうか?
うちの猫達はどうしているかな?