2007年4月14日土曜日

寛ぎの技法5 アナパナ・サティー

 “アナパナ サティー”とは、呼吸法の名称の一つである。
人を不自然な状態から,自然体に変える。
仏教やタントラを学ぶもので,この技法を知らないものはいない。基本中の基本となっている。
少なくとも,このサンスクリット語の言葉が意味するところは,多くの仏教徒、ヒンドウー教徒、最近の欧米人でさえ知っている。

 この呼吸法の特徴は、呼吸という作用が、生命の本質の完璧な表現であり、意識と深層意識、表層と深層の意識を繋げているという事に気付かせてくれる、事にある。
呼吸を観察して、その調節が出来るようになると、自律神経系と意志的機能を結びつけている事にも、やがて気付くようになる。
呼吸こそが,精神の神秘,生命の神秘,肉体の神秘を解く鍵なのである。
生きるという事は,まず、息をする事なのだから。
いい呼吸が出来れば,基本的に、いい人生が送れる。
まずは,力まずに、偏らずに、普通に,ゆっくりと呼吸してみてご覧。

 調息法の大切な点は、一つの機能でありながら、二つの運動経路を、バランスの取れた状態にしておく事が出来るという点である。
随意経路が、意志を通して、安定して規則的なリズムを生み、それを、意志の届かない、不随意経路が、呼吸を通してこの繋がりが確立されると、そこから,心拍数や脈拍にも作用を及ぼし,他の不随意機能にも、遠心的、求心的に神経を通して広がって行く。

 そうすると、自律神経も,きちんと機能し始める,という事である。
意識と無意識とが繋がって来るのである。ここのところは。非常に大事である。
熟練してくると,自分の意志で,心拍、脈拍の調節も自由になってくる。

 アナパナ サティーは、苦行でもなんでもなく、簡単な技法、ある種のコツだから,思いついた時に,普段、日常的に行ってみるといいと思う。
バスや電車を待っている時にも,乗っている時にも,一服して,お茶を楽しむ時にも、気軽にできる。暇を見つけて,行うといい。忙しい時に,無理する必要はない。四六時中、やる必要はない。
一日数回、一回5〜10分位、この呼吸法を続けていると,一、二週間で生活は変化し始める。

 タントラの技法は,何も,人を特別なものにするのではなく、本来の自然体、健康体に戻す為の技法である。
というのは,殆どの一般の現代人は、自然体にないからである。退化していると言ってもいい。
つまり,自分は、普通だと思っている人も、単に、思い込みにすぎず,本当の意味での、普通、自然体ではないという事である。
自分という機能を知るには,この上も無く良い。
自分の思い込みと、本来自分の機能との間に、ギャップが出てくるだろう。

 一つ知っておきたいのは,真理は探求できない,という事だ。
それは見つける事は出来るが,探求は不可能である。探求する事そのものが,妨げになるからだ。
“求めざれ,されば与えられん”である。“探さなければ,見つかる”、のだ。
“精神性、スピリチュアリティー”とは,マインド、欲望がない時にだけ、現れてくるのだ。
真理が見つからないのは、只、単に“視力がない”だけなのだ、という事を知って欲しい。
 
 この技法(タントラ)は、シヴァ神により開発された112のタントラの一つである。
そして、後に、ゴータマ・ブッダに愛された技法で,“アナパナ サティー ヨーガ ブッダ”と言われる様になった。ブッダは,この技法一つで,開悟したと言われているからだ。
この技法は、元々は仏教のものでも、ヒンドウー教のものでもなく、シヴァ神が伝えた、タントラという技法の一つなのだ。それが、今や仏教にもヒンドウー教にも浸透して、両者の基盤となっている、という事である。これは、知識として知っても、何の意味もない。ナンセンスである。
あらゆる瞑想法と同じく、体験あるのみである。知識ではなく、意識に関わる行法だからである。

 前置きが長くなってしまったが,技法(タントラ)に入ろう。

 パルバティー(奥方)の問いに答えて、シヴァ曰く、
「光り輝くものよ、この体験は,二つの呼吸の合間に在る。
息が入った後、息が出る直前、そこに賜物がある。」

 要点は,呼吸と呼吸の合間、一瞬かもしれないし,一瞬の万分の一かも知れないが、その間合いに目覚める。そこに体験が起こる。意図的に,その間合いを,ほんの少し広げてみてもいい。
間合いには,二種類ある。入息後、出息後の二つの間合いである。
両者の違いにも,気付くであろう。
そこに、変わる事のない,永遠なる何かを知る事が出来る。やがて,視力もついてくる。
呼吸そのものには,訓練も,稽古もない。只,普通の呼吸でいい。誰でも出来るのだ。
只、細心の注意、“気付き”、そして“焦点を変える”という事が重要である。
呼吸には、呼吸が存在しない間合いがあるのである。
普通,人は自覚していない、ホンの僅かの間合い。そこに鍵がある。

 焦点を変えるとは、例えば,道路を眺めていると,次から次へと,車が動いている。
終わりが無く,流れは続いている。
車の事やブランドはどうでもいいから,車と車との車間距離、間合いに注意してみてみよう。
そのことだけでも,焦点が変わる。
寛ぎが始まる。
又、目の前の事だけではなく、横や後ろにも気を配ろう。
さもないと,現代社会は,生き馬の眼を抜くような混沌と煩雑さがあるからだ。見方を変えれば、らんちき騒ぎである。
 又,人は機械ではないし、物事は一度に一つの事しか出来ないのであるから,一つ一つ,完全に終わらせてから,次に行けばいい。そうすれば、過去に気を取られる事も無く、より自由に生きられる。昔の人に比べて、今の人は、退化しているのかもしれないからね。文明病だね、これは。
昔の人は、一つの事を集中して、やりながらでも、他の事にも“気を配るゆとり”のある人が多かった。これは体で覚えて行かないと、体得できないものだから……。だから、皆、腹が据わっていた。
慌てれば慌てる程,焦れば焦る程,物事は上手く行かなくなってくるものなんだ。“急がば回れ”,とはこの事である。
 マインドとは,“欲望する装置”だと思っていれば間違いない。環境も色々な条件も無視しがちなってくる。
“気配り”がないのだ。元々は,エゴから起こってくる次元だからだ。地球温暖化の,大本の原因でもある。
それは、四六時中、使えるものではないのだ。だが、欲望を捨てる必要はない、呼吸法を変えれば良いのだ。
無心が必要不可欠なのはその為なんだ。無心で物事の動きを見ていれば、判る事なんだけどね。

 正しい使い方が判れば,マインドは素晴らしい働きをする。要は、マインドも、エネルギーも使い方一つに懸かっているのだ。
それが、“中庸”と言われる次元である。
要は、なんであれ、使い方一つで、良い事にもなり、使い方に無理や不自然が多ければ、悪いことに繋がってくる。例えば、包丁一つとっても、おいしい料理も作れるし、人を傷つける事も出来る。
当たり前の話だが、包丁に責任はない。責任は、それを使う人にあるんだよ。

 一つ,又一つ、丁寧に、その方が,結果的に,無理も無く,間違いも少ない。
少しずつ,無駄な物事が,そぎ落とされて行く。真の豊かさは,そこから生じてくる。
そして、生活全体に,寛ぎを与えてはどうだろうか?

 根本は,自分の考え,マインドだけで、自分だけで生きているんじゃない,という事なんだ。
大勢の人間、植物、動物,自然の力で,この世は成り立っていて、人は,この世から様々な恩恵を受けて生きている,という事に気付く事、その視点から様々なものが生じてくるのだ。
例えば、木星、大きな星で、質量も大きい。その木星が多くの隕石を引き寄せて、地球を守っている事を知っている?
 
 地球は生きている。
砂漠でも、ヒマラヤでも、海辺でも、日の届かない深海でも、一寸眼をこらせば、そこに生命の営みが続いている。それも自分達の意識や体のどこかで、知っていたのかもしれない。
それは、感動的な有様なんだ。出来うる限り、そっとしておいてやりたい。

 損得、利害は当然、人も動物もが、生きる理(ことわり)、あっていいのだが、誰もがご存知の通り、この世は,損得,利害だけで成り立っている訳でもない。
眼には見えない,無形の力、蔭の力、自然の力にも気付かねば、“珠,磨かざれば,光なし”という事になってしまう。
日本でよく使う言葉に、“御蔭さまで”という言葉があるが、その意味が含まれているんだよ。
無形の、見えない力に感謝してるんだよ。陰で支えてくれる人にも感謝してるんだよ。

 ある禅師に依れば、物事の、深い意味が分からないと、心はいたずらに惑わされる。人の思いが囚われの中にあれば、真実は隠れてしまう。万物は、そのあるがままで、一つの精髄の現れになると言う。
判ってくれば、生の質、クオリティーそのものが,シンプルに、豊かになってくるものなのだ。それからだね。