2007年4月5日木曜日

アンタイトルド 2


 時代劇やサスペンスの映画、テレビ番組をたまに見ていると,言葉遣いが気になるものである。
昔の時代小説や映画ならば,死骸は、おろくとか屍,死体と呼ばれていたようだ。
ところが、現代の番組では,サスペンスでも時代劇でも、死体を“ほとけ”と呼ぶ。
“ほとけ”と言う日本語は、仏陀のことであろう。

 辞書を引くと、“ほと”は仏の転とされ,“け”は、“気”を表すという。
“仏気”という事らしい。となると,一種のスピリットと言えなくはない。
“ほとけ”は、“悟りを得た覚者”,とあるが,他にも色々ある。
そして、死体の事も“ほとけ”となっている。言語として通用していたのだ。
“ほとけごころ”という言葉もある。それは、悪い意味ではない。心に形はないのだが、きっと誰にでも、ある心なのかもしれない。
勿論,仏陀は死んだものでもない。
生きていてこその仏陀である。だからその意味が良く判らない。
心には形がないが、古代中国においては,“名実”という論が発達していた事を思い出す。
名とは言葉の事であり,では、実とは何だろうか?
名は,実に対して、志向的にされたものとして,理論上、理想上は、名と実には一対一の,直線的な関係が成り立つ筈なのであるが,実際には,多少のずれ、ゆがみというものがある。子供の算数ではないのだ。
それは,時の流れとともに変容していくものなのだ。それは誰の所為でもない。
これは,日本ならではの,“曖昧さ”という価値観に依るものだろうか?
それともいい加減な、無意識の言葉なのだろうか?

 仏陀、それは“目覚めた意識”に他ならない。それはあらゆる条件付けからの自由の事で
意識本来の指向性として、脱自我的に向かっていく。
それは、やがて光の柱として内観できる。
ゴータマ・ブッダとは、その事を、無常の原理(意識と言う鏡)を体現した人の事だ。
その後、沢山の仏陀が現れている。
勿論、その前にもシヴァ神(瞑想、タントラ、ヨーガの創始者とされる)の様な根源的な存在があった。
そしてその真実性は、是非に及ばない。是非は二元性の世界でしか意味がない。

 勿論、死体は、ブッダ、ブッディー(仏性)、魂が、体からはなれた抜け殻だ。
仏教の国で,こんな言語が使われている事、事態が,おかしく,変で、何か歪んだものを感じてしまう。意識や、仏陀、仏性を知る人には、気になる言語である。在る意味では,面白い。その事を通じて探求が出来るからだ。

老子の名言がある。
曰く、
 “常に無欲、以てその妙(みょう)を観、”
 “常に有欲,以てその徼(きょう)を観る。”
“常に無欲”とは深層意識の根源的なあり方を表し、“妙”、すなわち超意識を意味している。
超と言っても、これは純粋な“意識”を意味している。
意識に目覚めなければ,内なる視力を失ってしまう。

 一方,“常に有欲”とは,物質的、はっきりとした輪郭線で仕切られた,物質的、言語的な存在のあり方を、表層意識を意味する。これに関しては,誰でも知っている。
ものに執着する心である。本質を言い表している。

 私達には,皆、その両者(シヴァとシャクティー)が、本来備わっている。
しかも根本的に異質な,常に無欲、常に有欲、との間には断絶がない。しかもその二つが一つの意識構造として“円成”する。瞑想を通して、この辺りを探求すると面白い。
“正念”と呼ばれるところである。
“不思議な事に、妙”が目覚めれば,“徼(きょう)”は自ずと付いてくるといわれている。
“シャンカラ”(ヒンドウー哲学者)が“不二一元論”という所以である。
思考は,同時に二つの物事を考えられない。
純粋意識だけが複数を同時に見る事が出来る。
形あるもの、そして形なきもの。二つの種類がある。
この時点で,言語こそ違え、タントラ、仏教、タオは次元を共有している事になる。
探求するなら,何処から初めても善いと思う。

 もうひとつ気になる言葉がある。
それは、主に女性に関して使われる言葉で,“蓮っ葉な女”とか“蓮っ葉な言動”と言った事に使われる。
善い意味ではなく、中傷したり、非難する言葉である。
蓮のような美しい植物に何故,ネガティヴな意味を持たせたのであろうか?
しかも、蓮の実や蓮根まで、人々は食物にしている聖なる植物。
蓮は仏陀のみならず,ヒンドウーの神々、ヴィシュヌやラクシュミ(吉祥天)にも好まれる聖なる花。インドでは、美人や聖者の代名詞にもなっている。
タイに於いては国の花。国中に蓮の花が咲いている蓮の花咲く国。
誰が見ても美しい筈の花が,何故? と不思議に思ってしまう。
“蓮っ葉”と言う言葉の語源も判らずに、未だに納得できないでいる。
それは、“沈黙の到来”。ものを分節しない、と言う事だろうか?
何らかのニュアンス(陰影)を感じさせる何かなのだろうか?
まさか、蓮の葉の上に暮らす“カエル”の事でもあるまいに?

 人は頭で考え,心で感じて、体に住んで生きているが、
その根本には,意識というものが基盤にある。一本の柱である。
それは自意識という事ではない。
本来,意識は脱自的なものだ。自分を捨てれば、より大きな自分(ハイヤーセルフ)になれるという事だ。
自意識という言葉は,自我に関わっていて,純粋意識ではあり得ない。変な言葉である。
意識は、頭を生かし,心を生かし,体を生かし、センタリングをする可能性を与えてくれる。
全てをつなぐ要である。あらゆるものを生かしている。
意識の科学,それはタントラの科学であるが、頭も心も感情も二次的なものと心得ている。

 意識が目覚めていない人は、無意識の状態と呼ばれ、自ずと、視界は狭く、頭も心も,一定のパターンでしか機能しなくなってしまう。融通が効かない。
仏教的には、未だ生まれていない、という状況である。
“妙”の理解の部分が欠けているのである。
現代人は,技術的、科学的には進歩したが,自らの実存,“在る”という事を忘れてしまったのかもしれない。あまりに物質化して、鈍感になって,退化してしまったのだろうか。
何事も,度が過ぎれば,思いもかけない方に展開していくものだ。
“自己を十全に自覚するという事”“意識の目覚め”、すなわち,“仏性”を失ってしまったのかも知れない。

“へぼ将棋、王より飛車を大事にし“

 大部分の人は,無意識に生まれ,自我を生き、苦を生き、つかの間の快楽に身を委ね、無意識の内に死んでいくといわれる。果たしてそうなのだろうか? 
今では、意識に目覚めた人、仏性に気付いた人々が徐々に増え始めている。
 仏性にあるものに取っては、いかなるものも固定的に見る事は無く,物事を意識する事も無く、欲望も否定せず、日常的な世界にありつつも,無心の境地に留まり、無為を行い、また言語に依って分裂、分析される価値観(二元性)にも動かされず、超越の境地に在るといわれる。
それが東洋の英知とよばれる。私達はそこから、無から、意識の源からやってきている。
決して死体等ではない。

 意識の目覚めは,“私”と言う観念、自我が落ちた時,無我である時に現れる。
完璧な,無心が達成されるた時,そこに意識が目覚めてくる。
そこにはどんな死も見つけ出せない。
 意識は,大空のように,海のように広がり始め,際限というものは消える。
タントラに於いては,純粋意識と呼び,男性原理(シヴァ)と言われる。
一方、女性原理は、本質、根本原理(シャクティー、エネルギー)と呼ばれ、両者の融合から,物事が生き,展開を始める。
“シヴァ・シャクティー”と呼ばれる宇宙原理(ダルマ)である。タオと呼んでも,悟りと呼んでもいい。

 真に生きる為には、人は自己を知る必要がある。これはどんな知識にも優先する。
それは“自我“という事ではない。
自我とは,未だ知らない自己の”代用品”にすぎない。
人は,自分が誰なのか,何のか知る必要がある。
子供の内は,社会に生きるにも、自我は必要であろう。
でも,いつかは,本当の自己を知りたくなるのは,当然の欲望だ。
自分が判れば,全宇宙が判ってくる。生が判ってくる。
そこで,初めて,知る,わかるという言葉の価値が判ってくる。
後はフィットさせれば善いだけだ。
世界中のありとあるゆるものや知識を知ったとしても,自己とは何か? を知らない限り、生を知らない限り、何の意味もない。
丁度、要のない扇のようなものだ。全てが無駄になってしまう。

 自己、それは血統的な血筋や,もの、肉体的なものとは全く違う。
自分という宇宙をあらしめている源,意識とは何か? 存在とは何か? という疑問なのだ。

 その疑問には,答えがない。その答えに在る次元においては,言語は意味をなさないからだ。
だが,疑問を消す事は出来る。それが“妙”の働きだ。
それは、人生の目的の中核をなす出来事だ。
それが判れば,人生の目標をほぼ達成した事にもなる。
だがその為には,渇望や欲望は、邪魔にこそなっても、探求に於いては必要はない。
それらは,エネルギーが物質化して,形を持ったもの。欲望とは物質に他ならない。
又、もとの中立のエネルギー状態に戻しておけば良い。
探求が終わってから,どういう形であれ。使いたいように使えば良い。

 本当に自己を学ぼうとするものは,その時点で,もう既に、ちっぽけな自己(エゴ)を落としている。
既に、観照者になっている。意識そのものになっている。
あるが侭をあるが侭に見る事。感じる事、聴く事。我も汝もない。
自己を学ぶものは、観照者、そこに、真の自己がある。
それが意識の量子的飛躍と呼ばれる。
内なる大空において価値があるのは,自由(解脱、ムクタ)である。
それこそが、他のどのような至福や喜び、法悦にも勝る。
寛ぎながら,覚醒している。サマディー(三味)、無自己(アナッタ)と呼ばれる状況だ。
仏陀は、そこに本来の自己性を発見した。非常に逆説的では在る。そこに神秘は在るのだ。
不思議な事にこの事が、無達成なるものが達成されると,苦は無苦へと変容を遂げてしまう。


 知っていようといまいと、生まれながらにして,人は仏陀である。
仏教、仏法を知るものは,その事を知っている。
それが単に知識ではなく、実体験できれば言う事はない。
単なる知識だったら,借り物でしかないからだ。
何れ,その事に気付く時も来るだろう。慌てる事もない。人生は長い。

 それはゴータマ仏陀と同じ,あるいは、真似という事ではない。真似しては“仏陀”にはなれない。
たまたま,意外な時に起こる事なのだ。只、気付きがあれば良い。
それは全ての,仏教,タントラの人に取っては,当たり前の話なのだ。
どんな姿勢でいようと、二次的なもの,形式、言語、見かけは無関係になる。
リアリティーが重要になる。
それは頭でない事、思考やものでないことだ。
気付きという事に集約される。
 悟りを得たものの多くは、
自分が仏陀ではないかのごとく振る舞いたがる。
それも仏性(ブッディー)の働きの一つかもしれない。満足してしまうからかもしれない。
仏性、それは想像や創造の産物ではない。
只、再発見すればいいだけだ。

 また、こんな話を聞いた事がある。
 中国の皇帝が,禅師に尋ねる。
“人が死んだら,どこへ行くのでしょうか?”
師が答える。
“何故,そのような事を聞かれるのか?”と。
皇帝は続ける。
“あなたは,禅のマスターでしょう?”
師が答える。
“だが、まだ死んでは居らんのです。”
暗に,いかにして死を知り得よう,と言っている。

 ゴータマ・仏陀とマハカーシャパという二人の仏陀は,言語に依らずに,花を通じて“笑う事”で、仏性を、この世に明らかにした。それは自己に対する笑い!
禅の源は,言語にあらず、仮説にあらず、人にあらず、深刻にあらず。
それは、無形のもの、非言語のコミュニュケーションから、そして笑いから始まった。
真実から起こる笑い程、素晴らしいものはない。

             人、山を見る。山、人を見る。
               又,楽しからずや……