冒頭の写真は、ほぼ30年前の、コー・サムイ(サムイ島、タイ国)。1970年代の後期。チェワン・ビーチの朝。自然が豊かだった頃の事だ。人も余りいなかった。最近は,少し様子が変わったようである。
当時、良く、ここと、ヒマラヤとを行ったり来たりしていた。ヒマラヤには、この上ない、ハイがあり、サムイには、寛ぎがあった。自然であること以外には何も無い。何も無い空間は,詰め込み過ぎの世界と比べれば,遥かに力がある。ステージすら違う。何も無いと言っても,実際、何も無い訳ではない。詰め込み過ぎの世界には無い、際立ったものがあったのだ。日本語で言うと,“産霊”(むすひ)、転じて“結び”、と言う事なのだと思う。それも強力な,特別な力があった。
生気もスピリットも,自然も,“ものでないこと”、エネルギーは充満していた。
当時の,コー・サムイは、他に比べようも無いほど、素晴らしい空間であった。
実際、ヒマラヤもコー・サムイも、両方とも素晴らしかったが、言語で説明出来ないほどの、微妙な楽しみの違いは、確かにあった。
そして,何よりも、心配する事が、何も無かった。
又、例え何かがあったにせよ,それを消し去るくらいの力は,充満していた。
そして、自然宇宙には、それだけで満足出来る何かがあった。
スペースそのものが、“生きて”いるのだ。その力があらゆるものを生かしていた。
そう,スピリット,そしてそれを感じる知覚力も充実していた。
シンプルで力があり、虚飾がいらない。それはリアルだからだ。
実際、何もいらなかった。生きている事だけで充分であった。
人は本来そうやって生きれば良いと思う。一度、“生”を味わってみる事だ。
そして、それを基本にすれば良いと言う事だ。
私にとっては、最も充実していたときの事であった。
そして、是非を問わない、全面的な受容性と言うものを知った。
全て良いのだ。それは滅多に起こる訳ではないが,本来,何処も全て良い筈なのだ。
健康で、体調が良く、実にさわやかで爽快な時、実際、性欲と言うものはそれほどではない。
エネルギーが循環し、横溢し、セックスばかりにエネルギーを使う気もなかったし、セックスはそれほど重要ではなくなっていたのだ。自然体になっていたのだ。
エネルギーをチャージする時期だったのかもしれない。
勿論、瞑想を覚えていたからだ。
そこにいれば、爽快でリラックスしていられるし、例え、たまにセックスが起こっても、それは、楽しみともなるのだ。その時のセックスは愛になる。
それは、むしろ、「昇華」、或は、クンダリーニ、と言ったらいいだろうか。 タントラには、タントラの性行為、「サンボーグ」がある。そこにあるのは、寛ぎだ。
まず、欲望を否定せず,呼吸法を変えれば良い。欲望を否定しないのは、タントラだけである。
欲望も,エネルギーに変換してしまう。感情は感性に変わってしまう。知性は知覚と一体になる。
タントラに於いては、興奮している時に、性交渉してはならないという。
興奮しているときは,エネルギーも荒く,浪費しやすいのだ。
瞑想から始め,静かに音楽的に,調和を意識しながら始めれば良い。
あたかもダンスのようであれば良い。セックスが生を高めるようにするのが良い。不安が無ければ,そして、闘争が無ければ、射精はいくらでも延ばせるのだ。
愛が深まれば,射精なしで,1日でも2日でも愛し合えるのだそうだ。
それは健康にも,長寿にも良いとされている。
5000年も昔,タントラの時代,人々は150〜160歳くらいまで長生きしていたと言われる。
だが、下手をすれば,セックスは死を助長するようにもなってしまう。
健康も,エネルギーも消費するだけになってしまう。
タントラに於けるセックスの意味は,リラックスだ。そして愛だと言う。
それを通して,様々な秘密が解き明かされて行く。
これは、シヴァ神の直伝といわれる、“シャンバーヴァ・ヨーガ”の教えだ。
真に、深いセックスにおいては、体の事は忘れてしまう。それが,真のセックスだといわれる。
つまり、物でないことの一部に入り込んでしまう。魂になってしまう。
タントラはセックスでさえ,瞑想にかえてしまう。
そして、自然に、無欲求になってしまう。そこにオルガスムが初めて起こってくる。
それは生命エネルギーの表現なのかもしれない。
それは、二人の男女の自然宇宙に於ける深い理解と分かち合いとなる。
タントラに依れば、意外にも、性欲は老人の方が盛んなのだという。
それは,不健康なもの、病人にもいえるのだが、エネルギーがなくなると,性欲だけは強くなるのだそうだ。それは深い意味で,自分に対する暴力とも取れる。
それはタントラならではの、深い洞察だ。
一方、若くて健康なものは,性欲に惑わされる事は少ないと言う。
愛の方が重要になる。抑圧が無ければ、世間はどうあれ、彼らにとっては、セックスは二次的なものになってくる。
勿論,性能力に関して、健康なもの、若者の方が勝るのは当然だ。エネルギーがあるからだ。
エネルギーが増すほど,性欲は減ると言う。そのとうりかもしれない。
エネルギーが充満し、循環が上手くいくと、性的なものだけに、収束する事は少なくなる、と言う事だ。
そして、在る一点を超えてしまうと,エネルギーは変容し,覚醒に至る。ダルマ大師がいい例だ。 抑圧には色々ある。観念や記憶から起こるものもある。思い込みもあるだろう。そして、一つには、社会的な抑圧がある。社会には、それがどんな形であっても、個人にとっては、不満、抑圧は常にある。
だが、普通の社会環境の中、人は、誰しも、対応する為にも、偽りの顔を造る。
そして、人はそうとは気がつかずに、偽りの自分を演じ続ける。
それがいいとか悪いとかではない。人はそうするのだ。
これは,毒素を溜め込んでしまうことになってしまう。より抑圧を感じやすくしてしまう。
逆効果になってしまう。
そこで、セックスが解毒剤の代わりになってくる。
社会の中に於いては、セックスだけが,生の源にも見えてしまう。
ある種の人々にとっては、唯一の宗教になっているかもしれない。
それは抑圧の所為だ。それはそれでいいと思う。
自然の少ない所では,セックスが唯一の救いともなってしまう。
では、真の自分とはどんなものであろうか? と、当然疑問が生じてくる。
多くの人は、自分の真の顔を知らない。
そのことにも気づかない。死に直面した時に、初めて気づく人もいると言われる。
だが、真の顔は、達成するものでも、努力するものでも、開発するものでもない。
達成するのは、むしろ、偽りの顔の方かもしれない。
これには,努力も工夫もいる。世間を見ていればよくわかる。
真の顔は、既にそこに在る。只、発見すればよい。仏性(ブッディー)の発見と同じである。
どんな努力もいらず、究極的な意味で、自然で、素直であれば良い。
そしてまず自分がいらなくなる。そこからが始まりなのだ。
ゾクチェンでは,“原初の境地”,禅では,“本来の面目”という。
自然体,と言う事である。
ここの所は,何度来てもいい。健康で自然に戻れるからだ。
自分の偽りの姿に気づき、その執着を離れれば、すぐに真の顔に戻れる。
だが,どうにもならないくらい,固まってしまっている人もいる。死んでもエゴからはなれない程の人もいる。心身ともに老化する道筋に入ってしまっているのだ。
その為には、表面上はともかく、本当に生きる為には、瞑想は欠かせない。
それが唯一の、自分の真の姿を現すための技法なのだから。
自分の真の姿を知れば、真実の物が見えてくる。それが素晴らしい!
勿論,その逆に、自分を消す事も,瞑想を通じて自在に出来るのだ。
瞑想の中では、思考がたとえ現れても、眺めている訳だから、抑圧はいっさい無い。
もし抑圧を感じたら、それは瞑想ではない。
イデオロギー、哲学、判断や理論も関係ない。
それらは、未知について何も知らない、現実を見ていない、と言う事なのだ。頭だけの遊びといってもいい。それらは、全て、マインドのなせる技。それはそれなりの使い方がある。
一方、タントラや禅は、目の前の事が大事である。
一度、からにする。そうして初めて,スピリットが入る余地が出来る。
直の生に解釈はいらない、観念もいらない。
それは単に,思い込みにすぎない。それは、視力をなくす事でもある。多くの人は,そうとは知らずにフィルターを架け、自分の世界を狭めたり,視力をなくそうとまでしている。真実を避けているのかもしれない。
直に体験すれば良い。それは,常に新鮮だ。
エネルギーを効果的にチャージする事ができるのだ。
これが、若返りにはとてもいい。ストレスも消える。 若い頃,モーターサイクルと釣りが好きだった事を思い出す。モーターサイクル(南アジアでは,普通、“モーターサイ”と呼ぶ。)は、文明の利器ではあるものの、積極的に、自然と一体になれる,良い道具である。しかも、交通機関でもある。使用目的は違うが、カメラやコンピューター同様に、いや,それ以上に、それを知るものにとっては、素晴らしい相棒になれるのだ。モーターサイクルを通して,関わり方を通して、この世の,超えた部分がある事に気づいた。私という“キャパシティー”が広がった。それが,私にとっての、瞑想の始まりだった。
モーターサイクルにも,それぞれ個性があって、どのモーターサイクルがいいとはいえない。
あくまで,趣味の問題でもあるから,どれがいいとは一概にはいえない。
その使い方、状況次第で、意味は変わってくるからだ。
ただ、昔は、シングル(単気筒)か、ツイン(二気筒)の物が多かったし、四気筒に比べ,軽く、車体の幅がスリムだったのが,私の使用法には適していたと言う事だ。
整備もしやすかった事も在る。
又,瞑想的に楽しむ為には,頭で乗るのではなく、センタリングを行いつつ,意識を腹に定めると,エネルギーが上手くコントロール出来る事もわかってきた。そして、又、エネルギーがチャージされやすいのだ。又,センタリングを通じて,内観も起こりやすくなり,あらゆる状況に於ける“私という宇宙”をくまなく探査、内観する事ができた。
意識が目覚めていれば,両目が前を見ている一方で、意識はセンサーとして働き、あらゆる内的、外的状況を伝え続けるのだ。つまり,第三の目が機能し始めるのだ。
もっとも,これは上級者に限られるが、時間をかければ,何れ可能となってくる。
勿論,普通に,ゆっくりと走れば良いのである。生き物のように、丁寧に味わうのである。
さすれば,金属の固まりにも,スピリットが入り,乗り手に共鳴する事が出来るのである。
そこに愛着が湧くと、機械でさえ生き生きとしてくるのだ。
暴走させたら,元も子もない。意味が無い。心地よく、気持ちよく走れれば良い。
モーターサイクルに無理に負担をかけてしまう。
ネガティヴな事を出来るだけ,排除する。
釣りに行くと言う事は,豊かな自然の環境にいくと言う事。
環境に配慮しなければならない。
釣りを実際にせずとも,山深い、美しい渓流で魚が泳ぐ姿を見ているだけで,心が和んだからだ。
生エネルギーは、意識や神経と直結している。
そして、神経には随意系と不随意系との二種類がある。
自分と言う宇宙の中では、不随意系が働く。
眠っている間にも、休みなしに働いている。いつも、すごいなーと、脅威の念で感心して見守っている。
モーターサイクルに乗っていて,センタリングを行っていると,この不随意系の働きを実感することがある。
心臓の音、呼吸音,脈拍、それから内部へと感覚の触手を延ばして行く。
不随意系の神経は、いつも休みなしだ。それで、たまには。ゆっくりと瞑想することで,不随意系を休ませるようにはしている。まずは,呼吸をゆっくりにする事だ。これが一番だ。
お茶を飲む事、食べ物を食べる事は、随意系だが、食べたその後から、不随意系がすぐに働きだし,消化し,胃腸へ、腎臓へと送り込む。
勿論それだけではない。結構,忙しい、大変な作業だ。
健康であるなら、後は放っておけば良いのだ。全て、ゆだねてしまう。すごいシステムだと思う。
ヨーガやタントラの目的の一つは,筋肉であれ,内蔵であれ、普段使わない,或は意識しない部分を活性化させ、トータルでより健康で自然な心身を造る事なのである。生きる喜びや、楽しみは倍加する。いや、もっとかな?
勿論、人でも,動物でも、意志の力で、手足や、口や、あらゆる事をする事もできる。
だが、達人でもない限り、内蔵や血流を直に変容する事はできない。
手足や体、意志は動かせても、内蔵は動かせない。
つまり、普通、体に於いては、自由は、表面上の事に限られる。
後は、不随意系に任せるしかないのだ。そこで、不随意系を正規のバランスに維持するためには、どうしても自律神経の健康が是非にも必要となってくるのだ。
不随意系の働きを、内観する事ができると、直接、触れる事はできなくとも、バランスは維持出来ると言われる。
これは、ヨーガの科学である。
とはいっても、ヨーガもタントラも、ともにシヴァ神の発明だ。
セックスも、始めの内は、随意系が使われるが、やがて境界が現れ、その一線を越したら、
不随意系にバトンタッチされる。ここからが,真のセックスと言われる。
そこでは、もうマインドも、意志の力も、頭も、何も及ばなくなる。
只、委ねるしか無い。
その一線を越えたら、自我(エゴ、偽りの姿)は消えてしまう。初めてのときは,死のような感じがするのは,その為だ。これは瞑想も同じである。
エゴやマインドを捨てきれなければ,不随意系は,完璧には、上手く働きださないと言う。
それでは,真のセックスを知る事,真の生を知る事は決して無い、とさえ言われる。
そして、その次元では、不随意系であるが故に、制御不能になる。
それが、エクスタシーである。
そして、宇宙的な意味で、受動性が起こる。
ここでは、能動性は役に立たない。試してみればわかる事だが、意味がなくなる。
そうして初めて、そこに、オルガスムが現れる。それは、男でも、女でも現れてくる。
無限をポジティヴに感じる事が体感出来るのだ。
そこに悟りの一瞥さえ現れる。
瞑想に於いては,“佳境に入る”、事になる。
不随意系に入らなければ、特別、何も起こらない。一般の人のセックスはそんなものなのだそうだ。
瞑想を知らないと、不随意系に直に入るのは、なかなか難しい、と言われる。 瞑想は何にでも応用が利く。平常の意識と違う意識に入った時、“無限をポジティヴに、”理解する事ができるのだ。これは,生に於ける、ヴィジョンを変える。
セックスばかりに夢中にならず、その時、瞑想状態に入れれば、二人は大いなる楽しみを得る事になる。その時の知覚は、究めてポジティヴな反応を起こし始め、直感力を始めとする未知の力を自分のものとし、遊びや仕事、生活にも応用する事ができるのである。
一つ,覚えておいた方がいいことがある。
それはセックスとスピリチュアリティーとは,エネルギーの両端であるのだ。
エネルギーそのものに変わりはない。セックスにも,瞑想にも使える。
エネルギーそのものの性質は,ニュートラルなのだ。
同じエネルギーが形も意味もかえる。一方の極から,他の極へも移動可能だ。
只,コツを学ぶ必要はあるだろう。それは,怒りにも。セックスにも、喜びにも,楽しみにも,憎しみにもすべてエネルギーが、方向性を持つ事で現れてくる。
例えば、ゴータマ・ブッダは,性エネルギーを慈悲のエネルギーに変容した。このプロセスはタントラのものである。それは、様々なものに変容出来る。エネルギーの使い方に関しては、タントラが主役になってくる。
タントラ以上に,エネルギーに関して,マスターしたものは、この世に無い。タントラを通じたものに,全面的な受容性や、無垢や,純粋さ、生のエッセンスが訪れるのだ。このエネルギーを使わない手は無い。
地球に,二つの極があるように,又,棒の両端にはそれぞれの端がある。
前述の,セックスとスピリチュアリティーである。
両極を受け入れて、初めて、“中庸”と言う次元が生じてくる。センタリングである。
タントラの重要なポイントはここに在る。
タントラは幾つもの究極を知っていても,決してそこにスタンスを於かない。
究極は,要素にすぎないのだ。
それゆえ、セックスを全く否定してしまうと、生の意味は半減以下になる。
タントラがユニークなのは、“全肯定的なメソッド”なのだ。
別に、セックス・ヨーガと言う事ではない。あらゆる事に関わり、普通、避けて通る、セックスにもダルマが在る事を発見した、と言う事なのだ。
そして中庸にスタンスを置く。
自然には、否定的なものも,原罪も、何も無い。すべてよい。
それが,エネルギーを知って,“中庸”である事のエッセンスである。
“エスプリ”といってもいい。
多くの宗教が,セックスをおとしめてきた。きっと彼らの神は,意地悪で、嫉妬深いに違いない。 本来は,ニュートラルであってもいい筈だ。
性は,自然のもの、要は,いかにエネルギーを使うか?
上手く使えれば,仏教にも,禅にも、タオにも,ゾクチェンにも入ってこられる。
どちらから初めてもいいが,普通はセックスから始める。
そしてやがて,精神性、霊性、スピリチュアルな道筋をたどることになる。
どちらから初めてもいい。人生,全て体験しなければ,真に生きたとはいえないではないか。
セックスから始めて、上昇するのも、スピリチュアリティーを学んでから降りてくるのもいい。
これは、より乙な方法だ。
色々体験して,吟味する事で、健康にはなれる。
少なくとも,ある種の新しい感覚への,気付きが起こって来て世界が広がる。
そうなると,セックスエネルギーをセックスの為だけには,使わなくなることも,多くなってくる。
性交渉が二の次になると、新しい次元が現れてくる。
これは,クリエイティヴである。
とにかく、自由に使いこなすことができるようになる。
それは食事と精神性にもいえることなのだ。
勿論,食事は絶つことができないが、エネルギーはいろいろと使える,精神にも,肉体にも使えると言うことだ。
その為には,体と意識の機能を知る事が大切だ。
生きているうちに,生きよう。
お茶を飲んだ後の、不随意系に注意してみよう。内観の第一歩だ。
*最初の写真はコー・サムイ、サムイ島。
二枚目は、ヒマラヤでクンダリーニ瞑想中のシヴァ神。
三枚目は、チベットの、ヴァジラ・サットヴァ(金剛菩薩)のヤブユム(マイトウーナ、交合)マンダラ。
モーターサイクルの写真は,1950年代のトライアンフ・スピード・ツイン。
*五枚目の写真は、チェンマイのお茶屋さん。美味しいお茶を入れてくれる。