2007年3月11日日曜日

ダンディズムとクールネス


 今日は、吉行淳之介という作家の本を読んでいた。普段はあまり呼んだ事が無い人なのだが、彼のエッセイを集めた本の中に、“ダンディズム”と言う章があって,興味をそそられたのだ。
私の好きな小説家は,池波正太郎、この人の“剣客商売”が特に好きである。
他にも,鬼平や忍者もの、料理の本や,男の作法等があって,この人なりの美学があり,気に入っている。
二人とも,粋なり、ある種のダンディズムやエスプリを感じて,心地よい気持ちになれるからだ。

 今回は,その吉行淳之介の文を楽しみながら,遊んでみようと思う。
最初は,彼のボードレールの言葉の引用から始めよう。

 それは,“どんな男にも,ポーズがある。”と,いうものだ。
何事にも無関心なポーズ,気取らないのもポーズ,と言うのもあった。
また、ポーズは女にも勿論あるだろう。
気取るのがポーズなのは当たり前だが、ダンディズムとは、むしろ、老子の言う所の“無為”、取り立てて何もしないこと、にあるように思えてならない。
意図的なものほど,野暮や気障、無粋に見えるからだ。
とりたててマインドをしない事が,一つのポーズかもしれない。

 目立ちたがり屋という人も確かにいる。目立たぬ格好をするのがお洒落という人もいる。
実際いろいろな人がいる。
私の場合は,あまり目立たず,その地域にフィットすれば良い。
“フィットネス”が先行する。
それゆえ,アウトドアー的な,アースカラーや,無難で動きやすいものを身につけようとする。
着やすいものをきる。型にはまるのが,心地よくないからだ。
暑い時には,Tシャツと短パン、ゴム草履でいい。
これは,人それぞれ違うと思う。どういうのがいいと言う事は無い。自分で決めれば良い。

 又、彼のいい分に依れば、“私は人目に立たない事をお洒落のポイントと考えているので、時代より半歩,遅れる事になる。”とのこと。
先頭に立って走る必要は無い。先頭に立つ必要も無い。
これは、まるで老子の、“三つの宝”を体現しているようなものだ。
根源的には,“慈。”j
慈しみ、あるいは、愛と言ってもいいかもしれない。
ダンディーで賢い人は,知ってか、知らずか、老子的になって行くのだろうか?
だが、自我にかられて、一歩、間違えると、野暮、気障となって、正反対のとんでもない事になってしまう。

 他人の事にいっさい口を出さない,と言うのも、ダンディズムの一つかもしれない。
仕事や,何らかの関わりがある場合は別にして、他人の事は、少なくとも,プライヴェートなことは、その人に任せる。社会の事は社会に任せる。世界は世界に,神は神に任せておけば良いではないか。
問われたとしても、自分の事なら即答、少なくとも決断出来るが,他人の事は,ほんの表面的な一部分しか知らないので,何ともいえないのが本当の所であろう。
ならば,知ったかぶりをする必要もない。
言わぬが,花である。
口はむしろ,食べる帰途に使った方が良いと思う。

 自分の柄でもない事をするのも,ダンディズムとはいえない。
出来なければ,出来ないでよいではないか? 
“ノーバディー イズ パーフェクト”なのだから。

 生きると言う事に決断したのなら、生きて行く為に,自分に都合の良い事は,何でも受け入れて行った方が良いと思う。勿論、限度は在る。これは,タントラ的な,受容性だ。
その中で,自分なりの道を造って行けば良いのだ。それは楽しみになって行く。
人生とは,常に“未知”、“もしも”に溢れている。
そこが面白い所でもあり,苦労の絶えない所でもある。
だが,済んだ事を悔やむのは,女々しいと思う。意味が無い。
先に進もう。

 生きて行く事は,反面、毒化の作用でもある。
その事を,念頭に入れておく。
免疫性や、浄化のコツを知っておかないと,知らないうちに、すぐに老化してしまう。
今、エコロジーと言う言葉が盛んに使われているが、文明の利点はともかく,その反面,毒化の作用にも注意しなくてはならない。今はもう紀元前ではないのだから……。
汚れるのがいやならば,生きるのをやめるか、瞑想を学んで生きるか,この二つにしぼられてくる。
瞑想がわかると,少なくとも間合いが生じてくるから,一つ一つ吟味するゆとりが生じてくる。
スタンスが取れる。浄化の方法も解ってくる。様々な,工夫がクリエイトされてくる。
どっちもいやなら,鈍感になる事だ。
それではクールではないと思うが……。

 蓮の花は,バラにはなれないし,鷲は雀にはなれない。
そばを注文して,ステーキの味がしないと文句を言っても始まらない。
あなたは、あなたになるしかない。楽しんでなれば良いではないか。
まがい物ではなく,本物の自分に……。

 この忙しい現代で、退屈するのは,贅沢で、貴重なことだ。
その事が、栄養源になって行くのを見守っていれば,退屈も悪くはない。退屈は消える。
人生の中では,思いもかけない“偶然”と言う,神とも魔物ともつかないものが突然現れる事も在る。
時々,途方も無い偶然が起きる事がある。期待しよう。退屈が恋しくなる事だってありうるからだ。
それは、何かの物事かもしれないし,気づきかも知れない。

 デリケートな心遣いとは一見女性的のようだが、本来は男性的な,或は、仏性の現れかもしれない。在る程度のマイナス面も口に出さずに受け入れる。そして、恩を着せない。
これこそダンディズムの真骨頂かもしれない。

 日本には古来から,粋、いなせ、侘び,寂びと言った禅や文化的なエスプリがある。
その組み合わせの妙から,それぞれの美学が生み出されて行く。それは、実にクールで美しい。
日本の文化は、インド、中国、アジア、欧米の要素を上手く調和させた、タントラ的な文化だ。
理解すればするほど、おもしろくなってくる。畳や縁側が何時になっても懐かしい。何故なんだろう?
曖昧さ、融通、微妙な濃淡、白黒はっきりさせない自由さ、勿論、アジアにもその原点は在る。そして多くの人がその事を知っている。生きるとは、極楽である事を見つけたのは、このアジアなのだ。視力も力もアジアに在ったのだ。

 人生は、寛ぎを中心として生きるべきだ。日本の文化は、そう言い続けている。
そこから,その理解から、様々な閉鎖性が少しずつ壊れて行く。
“色を求めるにあらず,色合いのみ…”。
これは、そこの微妙な所を言い表している。
 ダンディズムとは,全く同一とは言えないが、オーヴァーラップする面やセンスもあると思う。
エッセンスとかフランス語のエスプリ,英語のクールと言った言葉も,形に違いは多少あっても、なにか、見えない内側のエッセンスを感じさせる“粋”のようなものを感じてしまう。
状況に依っては,パワーとまではいかないまでも、生きる楽しみの大きな部分を占めて行くのではないだろうか。
センスがいいとスピリットさえ感じてしまう事もある。

 クールネス、クールと言う言葉は主にアメリカで使われる言葉だが、インド、南アジア、道教といった、アジアの影響が在ったのは明らかだ。
力みが無く、内容がきちんとして,つぼどころがちゃんと押さえてあり,しかも一寸,くだけているような様子や,スマートな生き方をクールと言うらしい。
内的な寛ぎと、大らかさも、必須条件に入るだろう。
しかも、人に緊張度を感じさせず,粗雑でもない事なのかもしれない。
日本語の“かっこうよさ”とも一寸違うようだ。
これは,たいていの場合、形式主義的なニュアンスが見え隠れするのである。だがじきに、新しいものが産まれようとしている。それは簡単だ。一度原点に返ればいい。
主義とは、それがなんであれ,クールとは言えない。世界を狭くしてしまうからだ。
主義の時代は、幸いに、全て終わっている。
クールネスは、目立たないお洒落な生き方かもしれない。
自己を知り,程よく自我も使う。
この辺りが、どうも新しいダンディズムの骨となって行きそうな気がする。
かっこうよさとは,主に外見に関わる言葉だからだ。それはそれでいいとは思うが、いかに在るか、が問われるようになるやもしれない。

 クールは冷たいと言う意味ではなく,涼しげで,慈しみがあるととってもいいかもしれない。
最近では様々なデリケートなニュアンスも加味されているのだと思う。
現代風の“粋”といってもいい。
冬のシベリアでは粋な言葉とは思えないが、暑いアジアでは人気のある言葉だ。

Cool it, man!