2007年3月17日土曜日

地球温暖化が目覚めさせる新たな国際化

 国際化と言うと、欧米化と勘違いする人がいる。だが、それは,もう既に一寸古いし,また狭量なものの見方だ。その国際化は、まだ部分的なものだ。欧米は,合理性と物質文明、そして新たな文化をもたらした。同時に大量消費文明も呼び込んでしまった。だが、世界はそれだけではない。キャパシティを広げれば、そこにはまた違った豊かさがまだまだ沢山ある。

 日本やアジアの文化について、地球の現状について、意外と現代の若者にはアジアや日本の事について知らない者も多い。又、日本の地方の文化,郷土の文化を無視しての国際化は意味を半減する。物質的な物事や、市場原理、目先の事ばかり目にするからでもあるかもしれない。自分に関わらない面については無知なのだ。
 だが、“ノーバディー イズ パーフェクト”。其れは,きっと,誰にでも当てはまる。それは、キャパシティの不足があるからかもしれない。深みを知らないと、見えてこない。しかし、聡明な人も少なくはない。彼らは、ものでないこと、形の無い事の重要さを直感的に知っている。気付きを持っている。粋で、クールで穏やかな日本が、静かに、そこにあるからだ。
 “素朴さ”、自然のあるがままに美しさを見いだした。唐津焼きなどはいい例だ。能においても、動きを少なくして、最大限の表現をする事に、価値、美意識を見いだした。私たちの先達は、“作為の無さ”に、至高の美を発見した。雅、侘び、寂び、寿、粋、遊び心、洒脱、いなせ、生のエッセンスに美を意識した。決して無くしたくはない。

 ところで、一体全体、目に見えない所で,何が起こっているのだろう? そういう状況に,知らずに追い込まれてしまっている環境にも,一因は在る。否応無しに前に押し出されてしまう。世間的な都合の良い方に,押し出されてしまう。自己はどこに行ってしまったのだろう?

 時には、心を開く事も在るのだろうか、宇宙自然を受容出来るのだろうか?
 時には,欲望を離れ、静かに物事や、自然の自分を見つめている事ができるのだろうか?
 何も起こっていない時に,一体、何が起こっているのだろうか?

 何かの理論や観念や知識で世界を見る人々は,往々にして,現実に対して複雑で込み入った見方をする。偏った見方もある。だが,現実を正しく見る人は、現実に立ち返って気づきを深め、物事を素直に、単純明快に見る事であろう。今、起こっている事と,いかに物事が起こるかとが、見えてくれば面白いというものだ。視力は,人が無心にある時に,自ずとついてくる。
 人間は科学、技術、物質の面では、確かに進歩したかもしれない。だが、肝心の実存を忘れてしまった。自己を学ぶと言う事は,先入観、条件付けを落とす事、そして自己を忘れる事でもある。そこに本来の自己がある。そして、原理とプロセスの微妙な関係。それが解れば,新たな世界に一歩入り込んでいる事になる。

 今、現実を見れば、たった一秒の間に、世界中で500万個のハンバーガーが売られ、一秒の間に、2台の車が作られる。例え、数は正確には、わからなくとも,誰にでも、ある程度の想像はつく。世界は動き続けている。それは留まる事がない。
 一秒の間に、100万枚の紙が消費され、何百本の樹が切り倒され、蚊が600回も羽ばたきし、牛3頭、豚7頭、鶏1,100羽が殺される。日本では、割り箸は一秒間に、792本が消費される。トイレットペーパーは,日本国内だけで、15.8kmも消費され続けている。資源の再利用ができるものはいいとして、出来るだけ,無駄な資源の消耗を省くような個人レベルでの自主的な協力が欠かせない。

 日本だけで、一秒ごとに,1.6トンのゴミが産まれている。なんとも、多産系だね。一秒間に、400万円もの軍事費が世界中で消費されている。そして何よりも,最大の“人災”、自然をも動かす人災、“地球温暖化”という影響が,そこここに姿を現し始めている。其れが、今の現実だ。

 二酸化炭素の増加の影響は,地球上をビニールハウス状態にし,北極、南極、グリーンランドの氷が溶け始めてきたそうだ。エスキモーやイヌイット達も,移住を余儀なくされようとしている。マヤの暦に依れば,2012年に暦は終わっているそうだ。何かの節目かもしれない。
だが、このままいくと気温の上昇は、現在の、基本線からの0.8度の上昇率から、2度まで上昇してしまうという。それに近づくほどに、そして、それを超えてしまえば,取り返しのつかない事になる。京都議定書くらいで歯止めがかかれば,しめたものだが、果たしてそう上手く行くのだろうか? バランスが破綻すれば、様々な災害が予想される。

 まず海面の水位が7メートル上昇すると言う。海辺の町は、殆ど海の中に消えてしまう。消滅する島も、無数に出てくるだろう。
 次に、気候の概念が変わるはずだ。もしかすると、ニューデリーやバンコクで雪が降るかもしれないという。これは、核戦争以上の災害をもたらすと言う。天然自然の行為とはいえ,原因は,人為にある。一寸想像力を巡らせば,その恐ろしさの可能性は、戦争どころではない。政治家はその事を、当然ご存知の筈。不都合な真実は、見ないようにしているのでもないだろうが…

 それが、今、目の前の現実だ。今でも遅くはないし,遅かったにせよ,その姿勢そのものが,生き残った次世代に引き継がれるのだ。このままだと、宇宙船地球号の未来は風前の灯だ。それは小手先の対応では、どうにもならない所まで来ている。土壇場になれば,背に腹は代えられない。内容に依っては、多くの産業をストップさせなければならなくなってくるかもしれない。地球の資源を散々消費して、快楽を謳歌してきたツケが回ってきたのだ。

 インド、チベット、タイや、多くの少数民族の人々といった、仏教、ヒンドゥー教,ジャイナ教、シャーマニズムの世界には,幸いにも、“業“と言うダルマ(宇宙法則)、タオを知っている。五大陸の原住民も自然を支配する等と言う観念の全くない人たちだ。あくまで,自然に依って生かされている、と考える方が近いかもしれない。それゆえ、工業化社会にも、文明にもそれほど積極的ではなかったのだ。それゆえ、嘗ては,非常に近視眼的な視点で、発展途上国と言うラベルも貼られた。しかし、そここそが、日本の文化のルーツである。

 何かをすれば,度が過ぎれば、其れがいつかはまた戻ってくる、という根本原理である。嘗ての西洋は、ダルマを知らなかった。瞑想も知らなかった。最近になって,少しずつ,ヒンドゥー、仏教、タオイズムを学ぶ人が,格段に増えてきた。それは、何よりも,リアルなサイエンスだからだ。

 今、世界の目はアジアに注がれている。嘗ての物差しとは違う、物質やお金の合理性だけの物差しではなく、“真の豊かさとは,どんなものであろうか?” と、言う単純な発想から起こってきていて、それにともない、未だ発展の可能性を残す,低公害のアジアに資金も集まりつつあるからだ。欧米も,彼らの未来を懸けて,其れを見守っている。
 紙、陶器、美術、音楽、木工、織物、古代ガラス、アラベスク模様の絨毯、磁器、芸能、料理、染料、バティック、インドサラサに日本の絣(かすり)、言霊(ことだま)あげればいくらでもある。未来はアジアの発展にかかっている。
 アジアは地域的なアジアだけではない。南北アメリカの原住民は,ルーツをたどれば,アジアなのは,周知の事実。太平洋の周辺の基盤はアジアの人々が負っている。

 発展についても,単に、物質的、金銭的な発展は,自国の文化を失ってしまう事にも繋がる。“国民総幸福量”という物差しを持つ、ブータンのような文化国家はその点を心配している。また、50年ほどの昔、タイの国土の70%はジャングルだった、という。今でも,まだまだ自然豊かだが,油断は出来ない。そこの所がとても重要なのだ。“ものでない豊かさ、”これが要となって行く。

 生きると言う事は、毒化の作用でもある。生きれば生きるほど,毒化の作用も大きくなって行く。無菌室状態では生きられないし,もしそうなら、免疫性に関しては,無力になってしまう。だから,今、“エコロジー”と言う言葉が重みを持っている。個人レベルにおいても、怒りも、憎しみも,苦も、それは毒化の作用。自分に盛る毒である。マインドや感情に同化してしまうと、知らないうちに,サド・マゾやおぞましい世界に引きずり込まれてしまう。クワバラ、クワバラ。

 だが、病んだ生き方を止めれば,人は癒される。病んだシステムやライフスタイルを止めれば、地球は癒される。深い気付きの光は,快なるものも、不快なるものも等しく照らしだす。地球は,運命共同体なのだ。臭いものには蓋をするだけでは、解決は無いのが、今の常識だ。原因究明に、根本まで,源流まで遡らなければならないのだ。源に帰れば,意味を見いだし,見かけに囚われれば、源は見えなくなってしまう。なんであれ,小手先の姑息な対応は,もう通用しない。

 人間だけが,他の生物よりすぐれている訳ではない。動物も、少なくとも、雑学は知らなくても、人よりも多くの重要な事を知っている。蛙でさえ,住んでいる池の水を飲み干したりはしないだろう。そして、あらゆる生物と共存共栄が理想である事に代わりは無い。全ての生物の背後に在る原理が,全ての物事の法則、ダルマが全ての物事の背後に存在する。その毒を消すのも,免疫にする秘密も、足下にも目の背後にもある。何が起こっているのが解らないときは、無理に解明しようとせずに,一歩下がって、眺めていると、だんだんと見えてくる事がある。

 日本文化のルーツはアジアに在る。日本人の多くの人のルーツはアジアにある。アジアを忘れていたら、又、アジアを知らずして、真の国際化はない。バランスが欠けてしまうのだ。
そこに本当の意味での、パワー・フォー・リヴィング、“知恵”が在るからだ。
 そこから新たなものや,新技術も産まれてこよう。其れは,当たり前に見えるものの背後に隠れている。少しでも,省エネルギー化に繋がり、しかも充実した意義の在る人生を送る為には,自主的な努力と,姿勢、工夫、知恵がいる。

 全てを元に戻す力は、とても個人にはない様に見えるのだが、一人一人が,自然と言うものを、自然の道理を少しでも理解し,無駄に資源を使う事に気づくことで、又、その姿勢を認識する事で、地球への癒し効果は,倍増するやも知れない。できれば,少しは楽観的に見ていられる所まで,押し戻せれば、と考えている。
 無駄に資源を使わない。木材製品や電気を、水を無駄使いしない。車も小型の低公害なものに変えればよい。高速道路はもういらない。
其れより渋滞を緩和する事の方が,より重要なテーマであろう。街と言わず,カントリーにも、もっと緑を少しでも増やしたいものだ。
緑が、多すぎて困る事は無い。そんな単純な事でも、一事が万事、少しは助けになるかもしれない。
 今は,もうエコロジーの時代なのだから、インターネットやテクノロジーの進歩にも期待しない訳にはいかない。何よりも,国という狭い観念に囚われず、地球全体を自分達の国と考えた方が、国際化と言う言葉の意味に近いものになって行くのではないだろうか? 全てのものは,知っていようと,知らないでいようと、“ひとつ”という大きな全体に繋がっている。その大きな全体とのつながり,意識が失われれば、国家主義、人種差別、性差別、階級差別と言った,エゴイズムが生じてくる。

 草や樹が成長している時、それらは柔らかく,しなやかである。見て、感じているだけでも,心地よい。だが,成長し,枯れかかると,草や樹は硬直し,もろくなってくる。つまり,柔らかくしなやかなものは,其れが何であっても,成長するプロセスにある。逆に,硬直し,閉塞しているものは、死に近づく傾向にあるようだ。
 人や地球にも同じ事が言える。無理な押しつけではなく、自然な展開が何よりも力となるような気がしてくる。その中で,自分に出来る事をして生きて行く。日本も,アジアも、そして世界も、平和で、豊かであってほしい。何よりも,安心して,無事に暮らしていきたいものだ。

Love your Earth!
The only one our home.

*最初の写真は、バンコクの国連ビル。古い伝統とモダンな現代との融合。タイやラオスの寺院等にも見られる,伝統的な屋根を重ねる様式と、近代建築とが上手く折り合っている。
 2枚目は、湧き水を飲むアカ族の人。アカとは、山の人と言う意味。
 3枚目は、オーストラリア、アボリジニの絵画。