中心のない円。これは人間のことを言い表していると言われる。何故なら、多くの人々は、表面的で、周辺部でしか生きていないからだ。その生は、表面的な生温い(なまぬるい)ものにすぎないと言う。そうなると、その人は個人ではなく、多数の人間となってしまう。その人は未だ産まれていない。
“自己実現”(スワヤンブー)はまだだ。単に、無数の群衆や知識や情報が寄せ集まったものだ。自分が何がなんだか解らなくなってしまう。その事に、気づいている人も多いと思う。
円には中心がある。中心がなかったら、円にはならない。だが、私達は、見方が解らない。どうやったら、中心に焦点を合わせる事が出来るだろうか?
人には、自ずと中心がある。其れは、特定の地域や聖地というものではない。其れは意識の根にあたるもので、宇宙的な統合体の一部であると言う認識である。人の原初的な中心である。だが、無意識の内に、その事は忘れてしまっている。そして宇宙はよそよそしい侭に留まってしまう。
だが、その事を知らなくても、人は生きては行ける。その生は流れ流れて、漂流のようになってしまう。波の集まり、ざわめき、何の中心もない。便宜上、世間的に、合わせていたとしても、空しく、無意味で、真の生きた実感がない。
人は中心から外れて生きている。その所為で、緊張や不安、苦悩が生じてくる。そして、その深い欲求不満は、いつまでも続いて行く。その漠然とした、深い欲求不満が、形を変え、不安となり、姿を変えて、恐れとなり、次から次へと、新たな問題を創造している。一方で、人は鈍感になって行く。その事に、心乱されないようにする為だ。
現代人、事に欧米化の進みつつある世界では、“瞑想”というものが忘れられ、信仰や形式、儀式に取って代わられようとしている。視力や中心を失ってしまうのだ。力を失ってしまう。ものは見事なものが揃ってきても、肝心の人間が、おかしくなってきたら、どうしようもない。又、文明化が進めば進むほど、頭が中心になってしまう。勿論、文明の恩恵というのも大きい。気づけば、私達は文明なしでは生きるのは難しくなってきている。文明のバランスをエコロジーがいかに対処しようとも、其れは周辺部のことであって、本来の中心ではない。
子供の内から、外側ばかりに目を向ける様に教育され、条件付けられ、外から植え付けられる先入観に囚われているので、中心も、其れを見つけ出す視力も失ってしまおうとしているのが現状だ。
生の本当の姿は、周辺部にいて解るようなものではない。其れは、本来の姿とは違う。
人には、大きく分けて二種類の部分がある。
一つは、“する事”であり、もう一つは“在る事”だ。
する事に関しては、誰もが良く知っている。だが、ある事に関しては、人は無意識であり続ける。
人の体は、神秘なメカニズム。
外に向かえば、意識は感覚を通して、物質に出会い、世界に出会う。
誰でもやっている事だ。する事は沢山ある。文明はその事に対応している。
其れは其れでいい。
だがそれだけではない。
意識が、感覚器官ではなく、センタリング(中心、存在)を通してみられれば、非物質のように見えてくる。無、ものでないことに出会う事が出来る。
ここではする事は重要ではない。
“在る”という事,意識的に“無為”にある事が重要になる。
真にリラックスしていたり、完全に寛いでいる時、人を愛する時、その中心に触れている。
そこに至福がある。
そして、人は、至福と狂気との間を始終行き来しているのだ。
だが、リアリティーは一つ。本来、分割は存在しない。一つである。
そこに分割が起こるのは、人のマインドの所為だ。
だから、二通りの見方が出来る。
一つは感覚を通して、もう一つは、チャンネルを変えて、感覚を超えた部分において見えてくる。

“中庸”とは、英語で“ゴールデン・ミーン(Golden mean、黄金の意味)”と言う。
中心はすぐそばに在る。
これは、解りやすい。
これこそ、リアル・ゴールドだ。
マインドがなければ、世界はあるがままの姿で見える。
マインドがあれば、いつまでも自分を押し付け、投影し続ける。
虚像ばかりが生み出される。
ノーマインド(無心)は、一見、簡単で、単純そうだが、習慣や思い込みの所為で難しい。
例えば、普通の愛には、憎しみが伴い、怒りには、後悔、或は負い目が伴う。
一つのものが、二つになってしまう。
人のマインドというものは、必ず、反対方向に動く。丁度、柱時計の振り子のようだ。
タントラに依れば、マインドとは、非常に微細な物質なのである。
マインドは、分別、慮り、条件づけや知識、過去の経験などに依って成長したもので、現実には不可欠な道具と言っても良い。実用的な道具である。其れなしで生きるのは不可能と言ってもいい。
問題は、その大切なマインドが、自分の主人になってしまっていて、其れが、人の成長を阻んでいて、多数の弊害を起こしている。
要は、マインドに使われるのではなく、“マインドを使う”という事にあるようだ。
思考と思考との合間に、隙間がある。その隙間を広げてみる。
そして、そこに飛び込みさえすれば、思考も記憶も現れない。
それらは無くなってしまう訳ではない。戻ってくれば、いつでもそこに在る。
ただ次元が違うのだ。
まず、見ている風景の焦点を変えねばならない
その事が解れば、ノーマインド、中庸の意味が分かる。無選択である。
其れは、プラス・アルファの知恵。
それは、自分の中で、自分に依って造られていない部分、最も未知な部分。
其れがその人の尤も本質的な部分なのだ。
両方とも上手く使い分けるといい。そこに新たな豊かさが生じてくる。例えば、音楽の場合,メロディーとメロディーとの間に、休み、無音、間合いの部分が必ずある。さもなければ、其れは音楽とは言えず、只の、音の羅列になってしまう。雑音、騒音になってしまう。インドのクラシック音楽の興味深いのは、メロディーも大切だが、むしろ、その“無音の部分”を重要なテーマにしているから、ユニークで素晴らしいのだ。只、聴いているだけで、瞑想に入ってしまう。
また、話術の上手い人や、噺家は、その言葉の使い方が、間合いの取り方が、絶妙で音楽的なのだ。時には、無音の音を傾聴しよう。円生の落語などは、本当に素晴らしい。
又、こんな方法も在る。朝、目が覚めたとき、ぐっすりと休んで目が覚めた時、人は、中心のすぐ近くにいる。ここが肝心だ。やがて、世間や、仕事や、諸々の事、周辺が、あなたを乗っ取って行く。だが、その前に、朝、太陽が目覚め、木々や大地が目覚め、鳥達が目覚め、あたり全体を目覚めが覆いだす。そんな間合いが必ずある筈だ。其れについて考えないで、その微妙さにチューニングする。醒めて、その“目覚めの潮流”にシンクロできれば、ある種の信頼感、方向感覚、安心感、充実感が芽生え始めてくる。初めのうちは、微妙で繊細なものだ。だが上手くキャッチできれば、町中に入って行っても、中心と接触を保ちながら、気楽に雑踏にも入って行ける。
行きつけのカフェに顔を出すのもいい。その日一日が、特別の日になってくる。センタリングは、人を寛いだままにハイにする。何度か、試すうちに、コツが解ってくる。
宇宙と有機的に一つになっている時、至福が生まれ、敵対や闘争がある時、苦悩が産まれてくる。中心を知らなければ、どうしてもこの宇宙に放り出されて、彷徨っているように感じてしまうのだ。中心は、波がざわめく表層にあるのでは無く、静かな深みに在るのだ。そして、それはあなたの中にも…