2007年2月28日水曜日

寛ぎの技法(無意識の偏見への気づき)

 人が真実に対して無関心だったのは、自分たちにとって、真実が不都合だから、真実を見ないようにしていたからかもしれない。無意識の偏見となっている。しかもそれは、社会的な習性となっていた。このことに「気づく」だけでも、人の意識に作用する力を大きくさせる技法となる。

 意識がちゃんと機能して初めて、在るという事も、心も、頭も生じてくる。人には無意識と意識というものが誰にもある。その両者をつなげる、「通路」(パッセージ)というものがある。だが、平常の状態では閉じたままである。意識が何らかの具合で,変化した状態になって初めて、通路は開放される。マインドが消え,自我が消え、時間の観念が消えると,通路は開くのだ。まるで、“開け、ごま”のようだ。新たな世界感を知ることになる。

 意識が目覚めれば、尾骶骨から,頭の上の天頂まで、通りがよくなり、人は一本の中空の竹のようになる。意識が寛ぎ、しかもシャキッとして気持ちがよい。宴(うたげ)が始まるのだ。ここは,解放区だ。

 知性はどうしても、自らが心であろうと、持ち主に信じ込ませようとするところがある。知性の働きが最終的に到達するのは,自分と他者との区別である.それは「自我」の根源ともいえる、自我にあるものにとっては、自我を超えたものを知らないものにとっては、自分の枠に入らないものは、そこに、深い孤立感や不安を覚えるはずである。状況次第では、周りが敵意に満ちているような錯覚を覚える事にもなる。そのまま行くと、狂気となりかねない。

 本当の事を先に言ってしまえば、外的な現象の見え方は、外的な要因ではなく、内なるもの、モOne within.モ、無意識の心の中に存在するものに依って引き起こされるという事を知っておくといい。これは、何千年もの昔から、インドで探求されてきた。物事を直接体験する為には、自我も思考や知性の仮説は必要がないのだ。

 受容性、全てを受け入れる事、そして。自分の姿形を皮膚と言う壁に囲まれた空間、空っぽの部屋として観る。ただ,直に,素直に,力まずにトータルをみればわかる。そこでは、思考という言葉の意味は,視力がない、ということと同じ意味となる。
 思考が現れたら,思考に同化してしまわないで,只、思考そのものを眺めていれば,やがて消えて行く。知覚がやがて輝きだす。
 当然のことだが、真実においては、善し悪しというもの、美醜も、仮説も、好き嫌いもない。リアルなことには,説明も不要なのだ。だからリアルなのだ。

“それは、そうなのだ”

 ただ、全身全霊で,見て,感じて、聴けばいい。補足も説明もいらない。宇宙は、それぞれの心の反映なのだ。

 シヴァ曰く

「真理の中では、それぞれの姿,形は分離していない。あなたの存在は,普遍的だ。各々のものは,『この意識』によって出来ている… それを認識する」

 タントラは「純粋意識」を、瞑想にとって最も重要な基本と位置づけている。それは,“今,ここ、にある意識”、源泉の事である。そして,健康の要でもある。そこから、心も愛も思考も、マインドも想像力も一新して生じてくることになる。

 真理は、どこか特別な所だけにあるものではない。それはいつも、“今、ここにある”。あなたの中に眠っていたのかもしれない。それは未来のものではない。過去のものでもない。それは創造されるものでも、考えられるものでも、深く探求されるものでもない。真理は、見つけることは出来るが、それは、探求ではない。探さずに,無心に寛いで、只、きめ細かく、大らかに気づけば良い。
 求めざれ、されば、与えられん。気づけば,真理は,あなたの中にある。しばらくそこにいて、堪能してもいい。その事には何の問題もない。居心地もいいはずだ。

 それは、心の本性といってもいいが、言葉の彼方、二元性の彼方,彼岸にあって、いつもそこにあるにもかかわらず、普通は、単にあるにすぎない何か、となり,つい忘れてしまう。そして、人は無意識になってしまう。

 真実に於いては、善悪は一つである。それらは統合され,源泉に戻っている。そこには,善も悪もない。善も悪も、人の、社会の判断であり、或は、都合であったり、その時節や状況の判断であったり、方向性や程度こそ状況において違うが、同じ一つのもとみることができる。そこでは、世界は久しく、日々新しい。
 だが,普通は、生を善悪に分けてしまう。固定化してしまう。世間には、倫理や道徳というものがあるからだ。必ず何かが罪悪視され、何かが敵とされ、悪とされ、全体は見られることなく、只、部分だけが、とりわけ象徴的になって行く。無責任な、頭の悪い、烏合の衆は、只、餓鬼のように、はやし立てるだけ。
 そこの所を考えてみると、悪は,善あるが故に,必然的に現れてくる。善がなければ,悪も成り立たなくなってくるという,一見,おかしなことになってしまう。世相というものはそんなマインドゲームを、絶えず繰り返している。

 嘗ては、皆、このパターンであった。
多くの組織的宗教は、物事を二つに分割してきた。
善と悪。光と陰。神と悪魔。
そのようにして,人は分裂させられてきた。

 タントラは所謂、道徳や社会規範とは何の関係もない。
哲学でもない.教義でも無い,信仰でもない。
といって、所謂、不道徳を勧めるのでもない。
タントラは禅やタオ、そして科学と同様に、無道徳である。
タントラに於いて重要なのは、マインドを変容させる為の、科学的(インナーサイエンス)な技法のことである。マインドが変われば、土台が変われば、建造物はかわるように、人格も、生,そのものも変わりだす。

 タントラに於いては、この、「分けること」、「分割」が,不純であるとみる。
表面的に物事を分割しないという独特の視点がある。それを、不二と言う。
非分割の見方、これは,仏教、タントラ、タオに於いては特徴的だ。
それは「無垢な見方」である。それこそが,無為自然。強制されることなく、シンプルに、素直に自分自身であること。なんであれ,強制は、物事をゆがめてしまう。真実を見えなくしてしまう。

 タントラは,人の内側にある,善を信頼している。「シヴァム」(善悪を超えた善)。「ブッディー」(仏性)といってもいいかもしれない。
「善」は,人の本性だと,タントラは言う。
 タントラに於いては,怒り,セックス、どん欲、憎しみ、悲しみを否定しない。それもまたいい。それこそ、生きている証拠だ。生を否定しない。ただ、静寂がかけている。生命力がかけている。そして、力が欠けている。

 どんな怒りや感情も,瞑想を通じて、直ちに変容できるので,心配はいらないのだ。それはエネルギーが動いている証拠。意識と心とエネルギーとは、相互依存で成り立っている。
只、その出口や、コントロールするこつ(技法)が見つからないだけなのだ。

 怒り、憎しみ、セックス、欲望、なんであれ、それを敵として抑圧、破壊しようとすれば,その姿勢そのものが、自分の大敵となり、自分を滅ぼしてしまいかねない。少なくとも抑圧してしまう。
試しに意図的にやってみて,瞑想してみるといい。
判断はあなた次第だ。

 出口を見つけ、その方向にエネルギーをむけて、整流する。
そして、自分の機能を知ることそれが瞑想の何たるかである。
もし、怒りや憎しみはよくないものとして、破壊されたら、生も活気も奪われる。静寂にはなるだろうが、それは、本来の生ではない。

 ただ、センタリング、つまり、中心が出来ていないこと、自己と意識が目覚めていないだけなのだ。
眠りこけていると言ったらいいだろうか。それ故の、不安が生じてきてしまう。
存在の不安である。

 中心は三つある。まず頭。嘗て世界は頭を中心にする事を重視してきた。西欧は少なくともそうしてきた。そして、ハート。感じる事のセンターとなっている。それは、開発可能なセンターだ。そして、ハートは、頭、理性と、在るという事とをつなぐ重要なセンターでもある。人が人である為には、重要なセンターなのだ。
人は愛やぬくもりに触れずに、冷たい環境に育ったら、どうなるかは、言わずもがな。
 社会が文明化すればするほど、頭、知性を重要視してくる。だが、本来の中心は臍にある、腹にある。そこは存在、在るという事のセンターだ。在る、という事は、一つになれる能力のことだ。それは生まれついて誰もが持っているはずだが、忘れてしまっている。それゆえ、人々は、至福を感じる事が出来なくなってしまっているのだ。ストレスもたまりっぱなしになってしまう。
 これらの三つのセンターは脊髄を通して繋がっている。頭からハートに、そして、腹までおりてくればいいのだ。実際にはセンターは7つ在るのだが、この三つは特に重要だ。

 怒りや、憎しみ、嫉妬、悲しみは壊さずとも、誰でも静かになれるし、活気も生命力も失うことはない。
このこと、非分割の見方そのものが、無選択な視点が、いいとか悪いとかではなく、その視点で眺めていると、知らずにある次元に入り込んでしまう。
このことの効果が大きいのだ。それは、技法の副産物的に現れてくる。

 無意識の偏見は、場合によると,意識的な偏見以上に,見分けがつきにくい。
それは,物事の本来の姿をゆがめてしまう。目隠しをしてしまうのだ。
例えば,物質主義ということを説明すれば、物事の現実、を非物質的な現実より、基本的、重要にする傾向である。物欲ということではない。
欲望もいろいろあるし,物欲もある。誰でも,一つや二つは欲しいもがあるはずだ。それはそれで自然である。タントラは欲望も否定しない。

 無意識の偏見は、人の知覚と知性の間のフィルターの役目をする。
そのおかげで,私たちは先入観や思い込み,或は観念を形成して、時には,最も大事な物事も、ふるい落とされてしまう。
今の世相の現状とは,そういう事だ。
残ったものはかすや、がらくたという事にもなりかねない
そして,何の因果関係もないところに,因果関係を認めてしまうこともある。
よけいに混沌としてきてしまう。
物事の使い方に無理があったのだ。無意識では上手く行かない。
この世が混沌として見えるのはその為だ。
気づかねば,それはいつまでも繰り返して行く。

 だが,ノーウオリーズ! あなたが変われば,世界が変わる。

 タントラにとっては、見かけはともかく、深い体験が重要だ。外見より内容が重要だ。
意識が目覚めた上で、体験以外に真実はないからだ。
そして、なんであれ体験したものは、超越できる。
もし何らかの抑圧、無視力があらわれたら、超越は決しておこらない。
これはダルマ(宇宙の法則)なのだ。

 タントラはすべてを神聖にする。
神秘的な体験、無我無心、無為自然に突然出会った喜びの意味は、孤立感の喪失なのだ。全てが、リラックスしている。幸福感は、在る、という事に関わっている。する事と言えば、善いこと、『シヴァム』を行えばいい。

 一度この体験を得て,自分のものとなったなら、楽しむ事も、超越することが出来る。
善い事を続ければ、運という不思議な力もついてくる。これは副次的な現象だ。
そして、自分の背景にする事も出来る。
物事を,日常的に、二元的、部分的にみる場合においても,リアルな背景がある事で,より的確な判断が出来るというものだ。

春の朝、気づく心が,美しい。
気づく心が,あなた自身。


* 写真はヴァンヴィエン(ラオス,Lao P.D.R.)の朝の情景。2007年,2月、朝6時頃、極上の時。

* メコン河へと流れ込む、せせらぎのトーン,鳥の声,香しい春の風、空は高く、晴れ渡った空、静寂、そして朝日がすべてを包み込む。この宇宙感はなかなかのものだ。意識は晴れ渡ってくる。

* 桂林(中国)から、タイのクラビへと繋がる奇岩の脈略。人は、「龍」、「ナーガ」と呼ぶ。インド亜大陸がアジアにぶつかった時、ヒマラヤと同様に、自然に出来上がった、大地の脈絡である。
 ヴァンヴィエンは、その奇岩で出来た「龍」の、真ん中にあたるところにある。丁度、龍の背の真ん中辺りだ。

*前のブログ、「朝食前の奇跡」を参照の事。