2007年1月19日金曜日

Nowhere land. (何処でもない国)


 道教(タオイズム)のメタファー(隠喩)に、「水の中のそよ風」、というのがある。もし人が、空を知り、水のような流れる現象の意味を知り、プロセス、変化、変容に気付き、しかも過去にしがみつかず、自然に流れていると、「水中のそよ風」が吹いて来る、といわれる。様々な、気付きが訪れる。同時に意識も高まって来る。

 それは意外な時、訪れる。何の予測もしていないときに起こる。無為にあれば、起こる時に起こるという。無心であれば申し分ない。よりクリアに感じられる。

 生きていること、其れ自体がエクスタシーとなる。エネルギーがふつふつと湧き上がって来る。
それがやがて宇宙を巡りだす。空と同じ位に広がった自分(意識)を発見したとき、初めて、神秘の存在に気付き始める。認識が新たになる。本当の生は此処から始まるような気がする。

 何処にいても、何事も気にもならずに、全てが寛いでいる。
地図上の何処そこにいる、と言ったとしても、全く意味が無い訳ではないが、何かそれを超えたものを感じてしまう。
 ここは,サワンナケート。通称、「サワン」と呼ばれている。
対岸のタイの町,「ムクダハン」から,メコン川を渡った対岸のラオスの町。

 「ムクダハン」という町の名前になっている言葉が,一寸気になった。
ヒマラヤは、アンナプルナ連山の向こう側、つまりチベット側にムクティナートという、ヒンドウー、仏教の共通の聖地がある。解脱の地と呼ばれ、トレッカーや瞑想者には人気の在る、素晴らしい所だ。
サンスクリット語で,ムクティは自由、解脱を意味し、ムクタは、解脱者、自由の人を意味する。ハンをハーンと読むと、王、皇帝を表す。つまり、解脱の王という、言霊的に新たな意味も読み取れる。

 そして、「サワン」とは,ラオスの言葉で「天国、浄土」を意味するのだという。
それは「心のあり方」を意味している。解脱した王、例えば仏陀が、彼岸の「サワン」に渡るという解釈も出来る。
といって,何かの仕掛けや、何かがある訳でもない。

“何も無い 何事も無い 豊かさよ”

 「サワン」はメコン川を挟んで、タイとの交易で栄えている町だ。乙に静かなのがいい。
普通の人々が,普通に暮らしている。空は何処までも青く、公害も無い、緑の濃い奇麗な町だ。
電気や水道は整っているものの、観光地やリゾートでもなく、大きな町でもない。
特別,風光明媚という訳でもないが、高いビルは当然ないし、気になるような刺激的なものが何も無い。
ただ、母なるメコンのお陰で、気候もさわやかで涼しく、とても気持ちがいい。
訪れた時期(1月半ば)も良かったのかもしれない。

 その日、空の機嫌はとても良かった。空は笑っていた。
そよ風に,メロディがあった。小鳥たちは,そのメロディをバックに歌を歌いだす。
木の葉や、川の流れ,柔らかな日差し、鳥の声、全てが寛いでいる。まるで、全てが調和してハミングしている様だ。まるで嘘見たい。

 川の近くにある、「サイスック」と言うゲストハウスに部屋を取る。空の笑顔が家の中にも反映していて気持ちよい。部屋は,天井が高く,広く,明るく,シンプルで奇麗。ロビーや共同のベランダ風のサロンが二つもあり、立派な家具が置かれ、一寸、豪華でユッタリとしている。
古い木造の建物なので、板の間を裸足で歩く楽しみがある。ヒンヤリと冷たくて、気持ちがいい。
泊まり客はフランス人が多い。恋人同士寄り添っていたり、本を読んだり,コンピュータをいじっている人もいる。皆,静かに,寛いでいる。当然、宿に働く人々も温和で優しい。

 自分という存在が、何なのかが判ってくれば来る程、又、人格が消えれば消える程、世界との分離間はなくなり、又、言語は意味をなさなくなって来る。本当に、何でも無い所に来てしまった。
「サワン」、ラオス語でいう「天国、浄土」の意味が少し判ったような気がする。
ラオスもタイ、カンボジア同様に、ヒンドウー,仏教国。
特にヒンドウーの神々は,何千年もの昔、国が出来る遥か昔から,此処に住んでいる。
それは、言葉を変えると、自然が生き生きとしているということだ。凄くいい。
自分が何を求め,何を探していたかがよく見えて来る。

どんな人でも、落ち着いて、寛いだ生活を送りたいと思うだろう。何らかの宗教を信仰しているにせよ、いないにせよ、文明の利器を縦横に使おうと、使うまいと、自分なりに平和で安心出来る生活を送りたいと思うのが普通だ。
さもないと、自分の力も、元気も、意欲も湧いてこない。

 “リラックスするには、リラックスしようとする意志する事なしに、リラックスするのがリラックスだ。”

 人には、様々な、緊張がある。迷いも在る、様々な想いも在る。
気付きを深め、緊張と緊張、思考と思考との狭間の隙間(間合い)を先ず見つけることが重要だ。
簡単なことだが、やり付けてないことは、最初のうちは難しい。普通、人は常に対象ばかり追い求めるからだ。
普段、無意識に通り過ぎてしまうほんの僅かな隙間なのだ。その隙間に焦点を合わせているだけでも、苦や緊張は一時的に落ちて行く。

 その隙間には、無音の音がある。内側からのざわめきも無い。それがリラックスだ。
そして、その狭間を少しずつ広げて行く。あくまで、無為に眺めていればいい。さもないと、物事の自然な有り様がスムースにいかなくなってしまうのだ。

 やがて、その隙間は、大空の様にひろがりはじめ、そこには何の対象もない事に気がつく。
「無対象」になることは、良い瞑想だと思う。簡単に、無心になれる。やがて、寛ぎの方が、自然にやってくるようになる。勿論、必要なら普段の意識に、すぐに戻ることも容易である。即ち、スピリット・ボディから肉体に戻ることである。

 我が家に辿り着く。
リアルな我が家は、次元であって、形ではない。
禅やタオで言う所の我が家とは、形のあるものではない。
自分の家を持っていても,我が家が見つからない人もいる。
真の我が家、其れは無形だが、周り全体が自分の中で寛いでいるように感じられる。
外と内との境界も無い。空気が私を呼吸しているようになる。

 居心地のよい次元に辿り着いたという気がして来る。
魂の渇きは癒され、潤いが浸透し始める。
だから、このこつが判ると、何処に行っても、何処にいても、我が家の寛ぎ、安心を感じることが出来る。
一寸,話がそれるが、私の好きな庭園に,竜安寺の石の庭.枯山水がある。
其所には,何にも増して、瑞々しい心地よさがある。
三日程通ったことがある。また何時か訪れてみたい。居心地の良い場所である。
枯山水の特徴は,水を一切使わずに,水を感じさせるアートにある。
何かを断つことによって、その何かを、一層,際立たせてしまう。このスピリットは凄い!
そんな発想をした,昔の日本人は凄いと思う。

こつというのは、いわゆる技術でもない。技法(タントラ)には違いないが、センス、意識を自由に使うことから生じて来る。
あらゆる形が,意味を持ち始める。リアルになってくる。見え方、感じ方、自分の存在感、全てがパーフェクトの感じがして来る。

 形あるものは、形なきものの充実によって生かされるように見える。
心が満たされていれば、暮らしもシンプルになり、しかも楽しい。
其所に自由と豊かさがある。煩わしいことが、少なくなる。
無難、難が無い。
それは、何と豊かな事だろうか! 
心が満たされていることが、真の我が家だったのだ。

 煩悩に振り回されることも、空しさも無い。苦はエゴとともに落ちて行く。
空は充満し,其所に生命の息吹が,滔々と流れ出す。刺激や興奮は、時に人を高揚させるけれども、エネルギーを消耗してしまい、意識は眠りこけてしまう。
真のエネルギーは、永遠から湧きいずる泉のようなもの。途切れることが無い。
しばらくは浸っていたい。命、意識、心の洗濯だ。

 そう、真の我が家とは、「何処でもない国」、“Nowhere land”だった。
我が家は何処にもない国に在ったと言うのではなく、何処でも無い、何でもない国が、真の我が家を教えてくれた。
それは、あらゆる次元を超えた,宇宙の真理。
極まれば、腹が据わって来る。

 それに気付くと,何処かの国や,地域であっても,応用が効き、新たな意味が現れて来る。
見えないものが,姿を現し始めるのだ。それは、何処でもない国、Nowhere land,なのだが、Everywhere land にも変容出来る。自分の好きに使える。
ただ、静かになって、イマジネーションをフルに活用すればいい。光(意識)を巡らせればいい。そして、ただ、気付けば良いだけだ。深い気付きが、あらゆる能力の源だったのだ。頭が落ち,エゴが消え,時がゆっくりと流れ出す。これこそが,最高のリクリエーション(Reは、再び。Creationは創造性、命の流れを見つけ出すこと。再生)。

 それが,何処でもない国、Nowhere Landの魔法。
その国は、何処にあるの? 
どうやったら其所に行けるの?

 まだ判ってないようだね。どこにも行く必要なんて無い。今、あなたがいる所がそうなのだ。意識が目覚めれば、余計なものが,自然と落ちて行く。そして大切なものが残る。それでいい。

それは,今、ここに在る。
何故なら、「Nowhere land」は、「Now here」(今、ここ)なんだから!

(前述「間の力」も参照)