2007年1月20日土曜日

巻貝(シャンカ)

 海辺の砂浜を散歩していると、足下の真っ白な砂の中から様々な貝殻が見つかる。つい心惹かれて拾い上げ、手触りを確かめる。形の良いのは,何といっても巻貝だ。巻貝を耳に当てると、太古からの渦巻くような不思議なトーンが耳を通して、内なる宇宙に響き渡る。それが、宇宙的な潮騒となり、つい我を忘れてしまう。潮の満ち引き、風の音が混ざり合って、深遠な宇宙の音が聴こえて来る。

 自然に出来た、貝の形には何か惹かれるものがある。理由はよく判らない。
自然は、只でたらめに存在していたり,成長している訳ではない。
どんな生命体にも、なにか「キチッとした秩序」(ダルマ)があるのだ。
そこの所に、人々は美(真実)を見出したのだ。美しいものが,ダルマだったのだ。
古代から現代に至るまで、人々は貝の美しさに惹かれてきた。
貝は、いにしえの昔から人々の宝だったのだ。
貝という文字は、財という漢字の偏(へん)にも使われているように、貝は貨幣としても用いられたことは何方も御存知の筈。

 貝は海にだけ住むのでもなく、川や田んぼに住むタニシやカタツムリのような貝もある。アワビやサザエ、アコヤ貝のような貝もある。その種類は膨大である。大別すると貝には二種類ある。二枚貝と巻貝である。
今回は、巻貝を中心に話を進めて行きたい。

 巻貝(シャンカ、サンスクリット語)は、ブラフマ、シヴァと並ぶヒンドウー教の主神の一人、ヴィシュヌ神の持ち物の一つでもある。円盤(チャクラ)、分銅,蓮の花、そして巻貝(シャンカ)を持っている姿が一般的だ。
その巻貝の成長するルールが,あの不思議に美しい螺旋状を描いている原因になっている。
螺旋は運動の軌跡と見ることが出来る。右巻き、左巻きの巻貝もあるが、よく目にするのは,右巻きのものが多いようだ。南半球ではどうなのだろうか?

 その螺旋が成長するに従い,目には見えないが,「軸」が存在するのが判って来る。
多くの巻貝は成長するに従い,その「軸」に沿って巻き上がり、或いは巻き下がるに連れてピラミッド状に太くなっていく。その目には見えない「軸」が、生命、成長にとって重要な「基軸」(不動のセンター)なのだ。

 円運動に時間が加わると,螺旋になる。
時間の経過から変化が起こり、循環する。そこから様々な波動が現れて来る。
人には,生まれた地域があり,町があり、都市がある。両親や家族、地域の人達と暮らしたことがある。そういった特別な空間がある。
その空間も、時間とともに変化する。

 螺旋は、円のように曲線で形成されているが、円の様に始まりと終わりが繋がっているものではない。始まりと終わりがある。「ズレ」というものがある。
この「ズレ」が螺旋にとって重要なのだ。「ズレ」があって、始めて螺旋の形が成り立つのだから。
あらゆる循環に於ける上下、左右の「ズレ」は、変化であり、即ち、「時間の経過」そのものである事に気付く。

 宇宙空間に目を向けて、銀河星雲をみると、まさにタオのシンボルマーク、渦を巻いた、陰陽のマークのようである。空間、螺旋、揺らぎ、ズレといったものが、宇宙の法則(ダルマ)を構成しているのだ。人の身体も、遺伝子の構造も、血管も,内蔵や神経組織も、耳の三半規管も、頭の旋毛も、指紋でさえ螺旋である。身体の構造とは、複数の螺旋が組合わさったもの、螺旋そのものなのだ。そして螺旋とは、運動、生命、しいては宇宙そのものなのである。

 其れだけではない。縄文式土器、ラーメンに入っている鳴戸巻き、朝顔の蔓や蔦、湧き水、螺子(ねじ)やバネ、スプリング、海の渦潮、竜巻、ハリケーンに台風、螺旋階段、はたまた.大便、空気、潮流も螺旋状の循環、そしてミクロの素粒子にいたる迄、すべて螺旋である。
人の構造も螺旋、その螺旋が螺旋を生きている。より大きな螺旋がある。
高い山を登る際、トレッキングや登山において、道は曲がりくねり基本的には、屈曲はあるものの螺旋状に頂上迄の道が作られている。ケーブルカーならいざ知らず、直線的に頂上迄作られていることは無い。
山に登る時、大抵の人は無意識だが、螺旋運動をしながら登っている。螺旋を通して,力を得ているのだ。直線を登るのだったら、力は生じてこない.疲れるだけになってしまう。
静的な山(軸)と動的な螺旋の力。
このコントラストから物事は進展し始める。
丁度,朝顔や、豆が生育する時、竹の棒でもそばにさしてやると、それを軸にして成長がスムースにいく様になる。

 人の認識力は直線ではなく,螺旋状に働く。
逆に薄れて行く場合,めまい、酩酊、陶酔も方向性は違っても,螺旋運動なのだ。
詰まり、螺旋は、宇宙を貫いているあらゆる創造性の源なのだ。
そしてそれは永遠の昔から続いている。これからも変わらないダルマ(法則)なのだ。

 野球の投手の投法(例えば,野茂選手などは特徴的)、バッティング、サッカー選手の蹴り、ランニング、水泳、何気ない歩行も,螺旋運動なのである。
すべて、上手で無駄の無い動きは、腹、腰という「軸」の中心にセンタリングすることで,螺旋を上手くコントロールしたり、利用出来るのだ。それが道理というものだ.利用しない手は無い。
又、中心が「キマる」ということは、どんな行動の際にもバランスを回復する「復元力」があるということだ。瞑想者や「キマって」いる人は、何ともいえず、波動が良く、安定感がある。

 生きているものは,“隅から隅までズイイーッと”、ミクロからマクロまで螺旋の働きで生きている。
三つや四つ、複数の組み合わせや卍もヒンドウー,仏教、そしてボン教にも見られる。そうやってみると、宗教にはサイエンスの部分も多々あることにも気付く。
サイエンスはあくまで、物質的次元の探求だが、サイエンスにとってもタントラ、仏教、タオに学ぶことは多い。サイエンスと宗教の大きな違いは、愛、慈しみ、信頼、知恵という事の様だ。それは生命のエッセンス。
それは、物理的な次元を超えているからだ。サイエンスでは届きようも無い。

 成長には時間の要素は不可欠だ。人間の身体で言えば,脊髄を中心にして、タントラ・ヨーガで言う所の七つのチャクラを結んだラインが、巻貝の「軸」に相当する。
人は、瞑想を通じて、その「軸」を認識し。その「軸」の認識から、「時空」が生じて来る。
それは創造性の源となる。

 初めてクンダリー二が目覚める時、凄いエネルギーで螺旋状に天頂(サワスラーラ・チャクラ、或いはクラウンチャクラ)を突き抜け、意識の目覚めということを知る。
音こそしないが、「ドカーン!」といった感じを覚えている。
一度、意識が目覚めてしまうと、意識を集中するだけで、七つのチャクラの何処へでも、ワープ出来てしまう。
「七つの海」というのは七つのチャクラが目覚めてから発見出来る、新しい次元、世界感、認識である。
それらの世界は、現実の世界にオーバー・ラップして見えて来る。
丁度、肉体にオーバー・ラップして存在する、スピリット・ボディ(霊体)と同じ原理である。

 脊髄を真っすぐにして、丹田に意識を集中していると、宇宙の気、プラーナ、スピリットを体全体に感じることが出来る。クンダリーニ・ヨーガである。
そこのところに、瞑想者は光りを巡らしたり、宇宙と相似的な共振、共鳴、信頼、そして至福を感じるのだ。
それは、自然であるが故に、そして「軸」を認識する故に心地よいのだ。
螺旋そのものも安定してくるのだ。

 輪廻転生、因果応報はヒンドウー教と仏教のオリジナルだが、霊魂の螺旋に付いては、電子、素粒子と言った言葉に入れ替えれば、宗教も科学も、螺旋を切り口にして展開している。
もし、人の生死のメカニズムが、螺旋の法則の範疇で周期的に発生するのなら、奉仕(タンブン)や努力も、長い期間持続して行くカルマ(行為)、魂の螺旋の因果関係からすると,来世には役に立つことになる。悟りを開くこと、光明を得ることは、その生命螺旋の延長線上迄、光り輝く訳だから、来世には役立つことになる。

 万物は螺旋。そして意識は「軸」なのだ。
「螺旋」はもとより、その目には見えない「軸」について、初めて人類に教えてくれたのが、「シヴァ神」と言われている。
シャンカ(巻貝)の秘密を人々に教えてくれた故、シヴァは「シャンカール」とも呼ばれる。
“ボーンム シャンカール!”
仏教では、その「軸」を、悟り、光明と呼んでいる。

 さて、螺旋の展開はこの辺りにして、巻貝(シャンカ)に戻ろうか。
巻貝の美しさは,前述の、目には見えない「軸」を中心にして、一定の比率(φ、ファイ、黄金比率)で増加する螺旋曲線にある。その比率は約1.618で、最も調和的で安定した、美しい比率と言われている。
北斎の版画にも、その黄金比率が縦横に使われている。
試しに、約16cm x 約10cmの長方形を描いてみるといい。暫く眺めているうちに、長方形という形の中にも、それなりの安定感、安心感、展開性、力を感じることがあるかもしれない。正方形と比べてみると、それは顕著である。正方形は未熟でつまらないのだ。

 一般には等角螺旋と呼ばれ、一定の比率で「末広がり」に成長する。
その形状、耳を当てると聞こえて来る響き、ホラ貝のトーン、どれをとっても,人の魂に響くような,魂に触れるような感覚を持ってしまうのだ。
人が造ってきた様々な芸術、建造物、或いは歴史も、そうとは気付かず無意識の内に螺旋状に上下しながら、展開してきた様に見える。
螺旋を展開してみれば、波動の時代。これからが面白い。
運命については何も言うことは出来ないが、深い大きな意味で、螺旋、無数の螺旋が関わっていることは間違いなさそうだ。

 巻貝(シャンカ)に関わっているのは、ヴィシュヌ神やシヴァ神だけではない。ギリシャ神話の海の神、ポセイドンの息子、「トリトン」の象徴にもなっている。「イルカに乗った少年」である。

 又、多くの神話に於いても、国や人を創造する際の描写では、イザナギ、イザナミは言うに及ばず、陰陽二種類の螺旋の組み合わせた共同作用が行われ、相反する要素が協調すること、和することがテーマになっている。
古来からの日本の伝統、「和をもって尊しとなす」という事は,同じ考えのもの同士が集まるものと言う事だけではなく、相反する考えを持つものを融合するという宇宙原理(ダルマ,タオ)にかなっているのだ。

 此処で最後に、一寸ヒンドウー教に付いてマインドジョグしてみよう。
ヒンドウーという言葉は、デリーを中心とした、ヒンドウスタン地方、やインダス河流域を表している言葉だが、侵略者であるムガール帝国のイスラム教徒、或いは後の侵略者イギリス人がつけた名称とされている。
どちらが正しいのかは、はっきりしていない。
その地方に古代から脈々と続いて来た、無数の、様々な宗教を勝手にひとまとめにしたのが、ヒンドウーイズム、即ち、ヒンドウー教と呼ばれているものであるそうだ。
2500年程の昔、丁度、仏陀、マハヴィーラ(ジャイナ教開祖)の時代、侵略者アーリア人の敷いたバラモン教が力を失ってから、抑圧されていた、多くのマイノリティーの宗教が再生した。
インドという国は、その豊かさ故に,何度も侵略の憂き目をあってきたのだ。
ヒンドウー教という言葉は、インド(正式にはバーラタ)の人々ではなく、よそ者が勝手につけた名称に過ぎない。

 本来の呼び方は、「サナタナ・ダルマ」という。
それは、「永遠の法」。宇宙原理に沿って生きるもの、という意味だ。
それぞれ無数の宗教があっても,その一点では、共通する。ジャイナ教も仏教もサナタナ・ダルマなのだ。
今では、ヒンドウー、ヒンディー(言語)と言う呼び方が使い馴れた所為か、一般的に使われている。

 二つ以上の要素と、螺旋状の動き、ここから何らかのエネルギーが生まれないだろうか? 
バカにしたものではない。その研究、タントラの研究は、もう既に始まっている。インドで、欧米でとうに進んでいる。今は、もう波動の時代なのだ。創造的な時代に入っているのだ。
 はてさて、次世代のエネルギーとは果たしてどんなものだろうか? 楽しみにしたい。螺旋は生きている(前述「ダースヴェーダーとヴァースデーヴァ」、「卍」参照)。
            

                “生とは螺旋なのだ。”