2007年1月13日土曜日

Inside out.(インサイド アウト) 前編


 寛ぎを表に出す。其れは、寛いでいる人だけができる事だ。頑(かたくな)な人には一寸難しいかも知れない。

 どうしたらいいのか? 先ず、装う事をやめればいい。そして、マインドの枠組みを取っ払えばいい。心を裸にする。でも、実際に寛ぎを生み出すにはどうしたら良いのか? 内部を空(から)にすれば良い。簡単な事だが、人によっては、簡単ではない。

 興奮している時は,どんな簡単な事でも難しくなってしまう。状況次第で、縫い針に糸を通すという簡単な事すら、大事業になってしまう。その為には,マインド、思考を見る事が技法となる。自分の創造物を見つめる事,其れが瞑想の第一歩。密教には様々な技法が無数にあるが、空性の理解、この技法が一番簡単だ。空性の理解は、空についての知識ではない。

 寛ぎに努力があったら、それは寛ぎではない。寛ぎとは、緊張が無い事,解き放たれた自由の状況、其れを先ず見つけ出さねばならない。例えば,怒りや憎しみが起こっているとき、その煩悩を無理矢理止めたり,逃げたり、避けたり、判断したり、抑圧するのではなく、ただ観察する。普通,観照という。「無為(ウーウェイ)」に観察する。これが大事だ。

 どんな思考も,動きも、最初は小さな雲のようなもの,其れがやがて少しずつ大きくなり,展開したり変化したりもする、だが、やがて又小さくなって行く。何れは,雲は消えて,空だけが残る。人のマインド、思考が空(くう)になったとき、自然の状態にあるように、解脱が起こる。そこに、「魂」、「アートマン」が現れるスペースができてくる(前記事「空の極み」参照)。

 寛いでいる人は、知ったかぶりをしない。知らない事は知らないといえばいい。自分に出来ない事は,出来ないでいい。又、状況しだいだが、「通」ぶったりしない方が,「粋」である。そして、自分の間合いをはかり、リラックスした、明晰な境地を保つようにすれば良い。無駄なエネルギーを使わない。やがて、波動そのものが,次第にきめ細かく力のあるものに変わって行く。
 悟りの境地は,寛ぎから生じ、無努力と覚醒を通じて成熟していくのだが、所謂,宗教的ドグマや伝統、概念、哲学を学ぶ必要は一切無い。遊びとしてならいいだろう。瞑想の宗教(タントラ、ゾクチェン、禅、タオ)は信仰ではないので、そういう事とは無縁なのだ。

 生きる楽しみとか味わい、趣き(おもむき)と言ったものは,決して極端なものではない。
極端とは,すべからくマインドの産物だ。其れは,全て,エゴから起こって来る。
マインドの傾向として一方を求め、他方を否定する。
所が、その他方とはその一部なのだ。
生の二元性を理解すれば、両方を受け入れる事ができる。マインドは消え、至福も究極もそこから発生する。

 人は、様々な極端を知って初めて、中庸と言う「間合い」を見いだす。中庸、それは理屈を超えた、中間色的な「間合い」、「色合い」にある。白か、黒か、或いは善悪ではないのだ。
其れこそが極論だ。意味が無い、どうでもいい事だ。リラックスしていない。生のエッセンスはここ、寛ぎにある。

 タントラやゾクチェンの関心は究極にあるのではない。
究極のリアリティー、それは表現を絶した空なのだが、既に土台となっているのだ。
誤解の無いように……。
それは、「今、ここ」にある。
過去や未来にある訳ではない。過去は過ぎ去り,未来はまだだ。
そして、究極も至福も、そこに隠れている。それは、副産物なのだ。
だから、究極を考えると、究極を取り逃がしてしまうのだ。
まるで,不思議の国のアリス見たいだが、ややこしいのは、人のマインドがややこしいからだ。シンプルな人には,ややこしくない。

 煩悩とか悪行とかの障害は、割と簡単に見つけやすいが、知的、知識の障害は、深刻で、概念や知識にとらわれてしまいがちになる。
土台の空からまた始めなくてはならなくなる。
誤解の無いように……。


 科学に於いては、対象、物質があり、目の前に在る現実がなくては成り立たない。
タントラに於いては、これも科学なのだが、目の背後に在る現実、本来の意味での「主観性」が重要になって来る。科学には、この点、そして洞察力が欠けている。
主観性の変容で、目の前の現実も意味も変化するのだ。
つまり、タントラとは,「生命の根本的な事,意識に関わる科学」と言ってもいい。
一方の科学、サイエンスは、「もの、物質に関わる科学」と言える。

 タントラは、所謂、現代社会の21世紀に於ける探求のテーマとなっている。
そうなると22世紀も楽しみだね。次は何かな?
タントラは元々,ヒンドウー教のものでも,仏教のものでもない。
所謂、信仰の宗教ではないのだ。思想でも,哲学でもない。
それは、禅と同様に、純粋な探求だ。だから、面白い。
しかも無道徳、いわゆる道徳には一切関わっていない。
何故なら,タントラには,否定するものがなにもないからだ。
それは科学だからだ。

 だが,ヒンドウー教にも,仏教にも多大な影響を及ぼしている。
というより、もしタントラが無かったら、ヒンドウ—教も、仏教も無い。

「知る」という事は、それは「何かに付いて考える」事ではない。
思考とは、体験していない、知らないという意味だ。それは、仮説に過ぎない。
しばらく、自分の思考そのもの、そして其れがどこからやってきて、どこに行こうとしているのか見るといい。
思考を見ている自分は、既に、「思考に同化していない」、という事に気付く。
だから思考を見る事ができるのだ。思考に同化している人は、自分の思考を見る事が出来ない。
無心、無思考になって初めて、「存在自体の深遠に入って知る」、という意味が判って来る。
「知る」ということは、その事を「体験する」、という事だ。
それは、哲学ではないし、並の宗教ではないし、他人の知識の借り物でもない。

 緊張している人、怒りを抱えている人、不安や悲しみに捉えられている人には、寛ぎも,間合いも無い。
それは、その人が,劣っているからではない。
ただ,気付きが足りないだけなのだ。内なる、広大なスペ—スを知らないのだ。
死を恐れている人は、生も恐れている。まだ本当に生きていないのだ。
何か、追いつめられている人は、自分で、寛ぎを阻んでいる何かがある。
呼吸すら,せかせかしている。
だから、無理して格好ずけをして,かえって不自然になってしまう。
全宇宙が、闇雲のようになってしまう。
当然、力は失われ、ますます、落ち込みやいらいらは募るばかり。悪循環が始まってしまう。
原因は全て自分にある。自我(エゴ)が視力も能力も奪ってしまうのだ。

 意図的に作られた寛ぎほど、野暮なものは無い。
其れは「偽善」に過ぎない。役に立たないどころか毒にもなる。
だが多くの人は知ってか知らずか、偽善を生きている。
テクノロジーが余りに発達して来ると、人が人であるという、存在レベルにまで知らないうちにその慣性(イナーシャ)、合理性が入り込んで来る。
テクノロジーは役に立つ。合理性も小さい部分ではいい。そこに問題は無い。道具としてならいい。
ただ、それは二次的な、本質的ではないものなのだ。そこの所を、ごっちゃにしない事が肝要。
“へぼ将棋 王より飛車を 大事にし”なんて川柳もある。

 もし、取り憑かれたら、意識や心、自然の身体にとっては非常に有害なのだ。
其れは、不自然で不快なのだ。
それ故,今、エコロジーという動きが世界全体に現れてきているのだ。其れは補正効果だ。当分、続く事になりそうだ。

世界中で,特に、物質的に豊かな国で、瞑想や禅、タントラ、武道がもてはやされているのは、自然体に引き戻す事ができるからだ。
バランスやスタンスがはっきりするからでもあるのだ。スピリット、意欲も生じて来る。

 無意識の内に、様々なものが溜め込まれていて、其れが障害になっている。
そんな、がらくたが、その人の存在に取って代わっている。
一方、寛いで生きている人は、過去の亡霊やカルマやトラウマに脅かされる事も、あおり立てられる事も無い。
多少あったにせよ、その事に乗っ取られてはいない。
終わりの無い欲望にとらわれる事も無い。根本的に死を恐れていないからだ。
死が必然である事を知っているからだ。
又、死がある故に,生も成り立っている事も知っているのだ。
死なくして、生なし、生なくして、死もない。

 どんな人でも、欲しいものが、全く無い訳でもないだろう。
仕事や生活において、必要なものもあるだろう。
誰しも,多少の欲しいものや,必要なものがある。
だが、寛いでいる人は、欲しいものを少なくする事で、自分を豊かにする。
欲望に追い立てられて,あたふたしない。
自分にも、状況にも、素直であることで,自分を「明晰」にする。
それ故、明晰な人程とても深い。
仕事ともなれば,金惜しみをしない。

 「明晰さ」とは、知識が多い事でも、頭が切れる事でもない。学歴等一切関係ない。勿論,ずる賢い事でもなく、姑息な訳でもない。むしろ、素直なのだ。それが、インテリジェンス。あらゆる物事を吸収出来る。
 インド等に行くと小学校にも行っていないが、五カ国語位流暢にしゃべり、やたらと頭がよく,しかも明晰な子供に出会う事があって吃驚(びっくり)する。やがて,インドは凄い国になるなぁと思ったのは,30年程昔の話。

 螺子(ねじ)くれていないから、集中力も失わない。偏見も無い、健康も損なわない。無心で、素直であれば、偏らずに、知識も、頭も使う事ができる。全力が無理なく出せるのだ。英語だと、クールとかスマートというのだろうか? それは緊張とは違う。冷たいのではない。何故なら、そのとき、人は「意識的」になっているからなのだ。だから、寛いで、集中出来るのだ。未来を思い悩む事も無い。其れは、単に結果論に過ぎないのだ。

 人体エネルギーには二つの層がある。
元々は、一つの同じエネルギーだ。
下向きのエネルギーは、性欲となり、粗雑なエネルギーとなる。
それは、いい悪いではなく、特徴なのだ。
 若いうちは,誰でもそのエネルギーを抑圧してしまう。勿論,上手く発散出来るものも多い。だが、性を否定すれば、生をも否定し、しかも、極端を選んでしまう事になる。そして、キャパシティが無くなって来る。

 抑圧とは、低いセンター(性センター)を、絶えず押さえつけている事だ。エネルギーは何らかの出口を見いだそうとするのは当然。時には、コントロールが難しくなる。これは、まだ循環する通路が開発されていないのだ。瞑想のみを通じて、循環通路がクリエイトされるのだ。

 行き場の無いエネルギーは、感情的になり、度が過ぎると,性の倒錯が生じてしまう。だが、何か他に気を回す事を考えると、エネルギーの使い方や工夫が見つかるものだ。さもないと、深刻になったり、病気にもなったりする。そして、全てが混沌として見えて来る。それは、決して「変容」にはならない。闇雲の中の堂々巡りの繰り返しになってしまう。エネルギーの有効利用にはならない。

(長文のため、以下、次のエントリに続く)