2007年1月12日金曜日

信頼


 ミャンマーのとある橋の上で,川の流れを眺めながら一服していた。遠くに見える山々にはうす雲がたなびき、天気もよく、そよ風が心地よい昼下がり… 
 橋の上から、タイとの国境をながれる川を眺めていたら、ゴム輪の大きなのが流れてきた。大型トラックのタイヤのチューブを改造したゴムボートだった。見れば人が乗っている。其れも2人のようだ。

 大人と子供のペアだ。声は聞こえないが,子供の方は夢中になって川の流れと遊んでいる様子。川の流れに身を任せて,一緒に流れている。大人の方は、父だか,兄だか、近所のおじさん、お兄さんだか判らないが、相槌を打っている様子。よく見ると、左手で簡単な舵の代わりの櫂を持ち,川の流れに逆らわずに流れに上手くのせようとしている。一方、右手はしっかりと子供の足を掴んでいる。その様子は,ごく自然で、しかも何か力強かった。見ているものにも、その安心感と力強さが伝わってきた。
 子供は,無邪気に遊んでいる。足を掴んでもらっていることで安心しきっている。そこに信頼の形があった。

 信頼とは何だろう? そこに,真実があって信頼は起こる。
 信頼は信仰とは違う。それは思い込みではない。合意でもない。知性でもない。妥協や都合でもない。思い込みは,マインドのなせる技。それは、欲望から起こって来る。それは合理化のプロセス。一見,理にかなっているようでも,何かを、生を取り逃がしている。
 マインドは、世間では役に立つ。だが、その本質は繰り返しに過ぎない。そして、生は常に新しく,新鮮だ。全く、次元が違う。

  信頼とは,共感的な調和。スピリチュアルな現象だ。信頼は、生に於いてのみ現れる。生きているもの同士に起こる波動現象だ。何かに背を向けている時,信頼 や理解が現れる事は無い。理解があれば,人は何かに反目しなくなる。非難が無くなる。これはタントラの偉大なる教えだ。それがなんであれ、タントラは非難 に反対する。視点をぼかし、焦点をゆがめてしまう事もあるからだ。

 信頼は、人が無心にあって、無防備になって、無条件になって、安心し て初めて起こってくる。生を信頼し,近しい人を信頼する。タントラや仏教の目的もそこにある。生と人、人と人との間に、信頼が起こってくる事を目的として いる。それは、信仰や信用でもない。だから、深い。

 同意、妥協に悩まされる事無く,注意して真実に耳を傾けさえすれば、それは起こって来る。生と信頼との出会いがある。やがて,生そのものに,信頼が生まれてこようというものだ。

 国が未だ安定していないミャンマーでは、人と人との絆、信頼が何よりもの力となるのだろう。何かとてもいい物を見せてもらったような気がした。真実は人を引きつける。混沌の中にも,宇宙秩序が存在する。夢から目が覚めたような気がした。
 ミャンマー人は人がいい。これは,ミャンマーにとって一番の財産だ。将来が楽しみだ。