2007年1月23日火曜日

リクリエーション


 Recreation、それは二つの言葉の合成語。Reは再び,Creationは創造性のこと。

 一言で言えば、「再生」、ということである。これは、生きる基本でもあるし,瞑想にもなる。五感を広げ,意識を拡大する。エネルギーが充満して,循環させる事。バイクに乗ったり、船遊びもいい。トレッキングやダイヴィングもいい。魚釣りもいい。森の中を歩くのもいい。砂浜で,自然の音を聴くのもいい。いい事は沢山ある。自分が一番好きな事をすればいい。そこで、無為、無心であれば,自然体になる。心と身体を柔軟にすれば自然体になる。

 私が、私であることを手放すと、本来の、あるべき私になる。道理だ。
逆説的だが,人は、無私であることで、中心をしり、中心から自ずと秩序が出来てくる。
秩序が整えば、する事は何も無い。
無心、大道に通ず。

 さて、最近の調子はどうだろうか? 
感情に左右されず、欲目や身びいきの無い状態入れるだろうか?
恐怖、不安、欲望が目の前に立ちはだかったとしても、楽に、静かに呼吸していることが出来るだろうか?
心の中に,矛盾や葛藤は残っていないだろうか? 
人に、恩を着せていないだろうか? 
不要に,人や,対象を非難,中傷していないだろうか? 
全ての派閥や、傾向に振り回されていないだろうか? 
思考に振り回されていないだろうか? 

 多少の事は会ったにせよ、寛いでリラックスしているだろうか?
もし疑問点が残れば、意識の明晰さが戻ってくるまで待てば良いのだ。
それは、リクリエーションの時間だ。

 想いに一片の差別も無ければ、万物はあるがままの姿で、そのエッセンスを感じさせる。
其所に解脱が生じて来る。ただ、素直になることが簡単で近道だ。
偏りなしに,明晰で、地に足がついている人は、自ずと腹が据わっている。

 広いスペースに行くことがいい。それが,リクリエーション。
人類は、自分たちの生活の場に様々なものを詰め込んで来た。
文明とは,空間を充填することと同義語となってしまった。
合理性に乗っ取られてしまった。何もかも詰め込まれてしまった。
物質になってしまった。

 価値観の硬直は此処から起こって来る。
本当に、生きていない。一旦,自然体に戻す事だ。
そのことは,多くの人々が認識し始めている。
其所から,何らかの新しい物が生まれて来る。
それが,道理だ。

 物事は変化し続ける。所業無常である。
生とは,そのことにつきる。それに文句は無い。
チャンスが無ければ、待てば良い。
チャンスが来たら,即、行動にかかれば良い。タイミングを計るのだ。
すべてのエネルギーは自然から生まれ,形を変え、大きさを変え,質を変え,別の形に変化して行く。
それをよく見極めるには、何でもかんでも,ごった煮にしないこと。
力が無いときには、人は投げ遣りになり、粗雑になる。何でもかんでも、ごちゃ混ぜにしてしまう。
此の兆候を覚えておくといい。力が無いのだ。

 その散漫さは、想念が彷徨うままに放置する事から生じてくる。
散漫さ、散乱に「意識」をあててみる様にする。さすれば,散漫は自ずと解消される。
力は戻って来る。これは技法(タントラ)という。こつである。瞬時にして,変換が起こる。

 どんな物や人にも,それなりの存在理由がある。
他人に判る訳がない。人の事は人に、神の事は神に任せておけばいい。世界の事は,世界がなんとかする。世間は世間がなんとかする。
それを妨げなければ、それでいい。

 言葉や行為は本質的に、修飾的な事柄だ。表面上の形を作る。
空の認識、理解、静寂は、実質的、本質的な空気をより明らかにする。
さすれば、何も無い空間が、満たされてくることに気付く。
本質的な物が安定して、初めて形が形として機能する。
形は,二次的な物なのだ。形は重要だが、形だけにとらわれては,道を見失ってしまうのだ。
それが判れば,逆に、どんな形でも,どんな物でも,容易に使う事が出来、物に同化したり、物質化する事は無い。
形から入るのは、結果的に遠回りや失敗になる事が多い。力が無いから,スタミナも無い。

 静寂な心は、複雑な、入り組んだ事柄、矛盾を単純な形で表す力がある。
そして森羅万象との繋がりがリアルになって来る。此のことが,力になる。
最小の力で、最大の効果をもたらすのだ。行為よりも,無為、存在を優先する。
だから,急き立てられることもない。
物事が入れ替わり、インサイド・アウト、上下が入れ替わることに目をつけるといい。

 深い気付きは,あらゆる能力の源である。そして、これが瞑想の何たるかでもある。
気付きを深めることの重要さに気付く事がいい。
瞑想とは、人の真理、深層心理にかかわるサイエンス。

 だが、瞑想を知らなくても,人は生きて行ける。年とともに、経験とともに、成長し、向上もする。
嘗ては,殆どの人は知らなかった。ほんの一部の探求家だけが,瞑想を知っていたのだ。
それは、途轍もなく重宝な能力、そして楽しみとなる。

 瞑想、それは最初から、簡単にはマスター出来ないし、インスタントな方法も無い。
長い時間がかかる。
だが、それが、人生に於ける、唯一の近道なのかもしれない。
近い,遠いはどうでも良いが、道であることには間違いない。
瞑想は実は面白い。
生のエッセンスに溢れているからだ。寛ぎを生きること,生を直に感じることが瞑想だからだ。
それは、こつであって、苦行ではない。それは、まるで遊びの様だ。
旅や仕事や遊びや生活に加えれば,楽しみは倍加する。
少しずつこつを覚えて、生活に浸透させて行けば良い。50年でも100年でも続ければいい。
時間は無限にあるのだから………。

 やがて,瞑想せずに,瞑想するというような「佳境」に達して来るのも夢ではない。
生との間に「信頼(シュラッダ)」が生まれてくるのだ。
自分が選ぶというより,生に一切をゆだねるということだ。
禅のエスプリと言っていいだろう。

Let it be !