2007年1月24日水曜日

形が持つ力2

 形には力がある。その力の質は形に依って様々だ。現実の世界に在る形は、その様々な形の力を融合する事によって、より新たな力のあるものに変わって行く。部分は形によって出来上がり、それが幾つか組み合わさって、トータルで、そのものの目的にかなうような姿になっていく。

 微細に見れば見る程,それは形の魔法のような物。実用品であっても、形がいいとつい欲しくなってしまう。見ても美しければ、存在価値がある。ただ,役に立てばいいだけではなく、そこに人の知性,感性、英知、息(生きているかどうか)、美学、粋と言ったもの,洒落っ気という物が,価値を持って来る。文化、文明はあらゆる物に価値を見いだした。
だが、「形が形となり得た,背景にあるもの」に一番の興味をそそられる。その辺り迄深めないと、形の美学は楽しめない。

 形の美しさには、大抵の場合、黄金律(φ、ファイ)がよく使われる。巻貝(シャンカ)に代表される、螺旋である(前記事「巻貝」参照)。自然の形の美しさにも、植物にも、動物にも、その比率は成長原理として自ずと持っている。その安定感が人の目には自然に見えるのだ。
今日は、魅力のある形を幾つか探ってみようではないか。

 このモーターサイクルの名前は「DUCATI」。そのワークス・マシーンである。イタリアのモンツァというサーキットのピットの中。詰まり、GPレースのインターバルの最中だ。
 1970年代の頃の話。此の時,此のV−ツイン(二気筒、Vの角度が90度なので、Lツインとも言う)が、パワフルなMVアグスタや日本の四気筒のマシンを凌駕するとは誰も予想し得なかった。イギリスのシーリー製、軽合金スティール・フレーム、独自のベベルギアのデスモドロミック・エンジンのスムースな安定性、二気筒故の操縦性の良さ、軽さ、総合ジオメトリーのバランスの良さで、やり遂げてしまった。ライダーもフィル・リード、ブルーノ・スパジアリ、ポール・スマートという中堅どころであった。500ccのGPクラスはもとより、750cc クラスでも世界を席巻し始めた。
 1972年にイタリアのイモラで行われた750ccクラスの200マイルレースに於いて、MV、ホンダを打ち破り世間をアッと言わせたのだ。イモラから世界が変わっていった。人々は、新たな価値観を求め、ヒマラヤへ、インドへと旅を始めたのも此処の頃からだった。価値の硬直化に、気付いたのである。

 車の性能は別にしても、造形の美しさに心奪われてしまった。走りの美しさに注目が集まった。特に、コーナーは一番速かった。姿勢が美しかった。ただ単に速いだけでは、魅力が無い。まるで、ギリシャ神話の神、トリトン(ポセイドンの息子)を彷彿とさせ、地中海を自由に泳ぐイルカのようであった。しなやかさと、たわむ力が特徴的であった。たおやかな構造だったのだ。
 既に亡くなってしまったが,設計者タリオー二博士と面識を持てた事は,私の幸せであった。

 トリトンのイルカは地中海から外洋にで、あらゆる水にもマッチして、何処の国でも,高価だが人気がある。最新型の市場用の1000ccモデルも、此処から発展し円熟して来ている。フレームもエンジンも,その姿も素晴らしい。取り分け,コーナーに来る度に、つい、スロットルを開けたくなってしまう。そして、その原点の美しさは、今でも深い輝きを持っている。“ナッツンボルツ”(Nutsユn bolts),実質的な美しさがあった。もっとも好きなモーターサイクルの一つである。

 例えば、美しくなろうとする努力が,努力そのものが、その人をかえって醜くしてしまうという道理がある。物事には全て,相反する要素が隠れて存在する。片側だけ,都合よく選ぶ事は出来ない。両方を認識していなければならない。生への執着には,死への恐怖が隠れている。人や何かを一途に待っている時は,時間は長く感じてしまう。又,楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。度が過ぎると,必ず、相反する要素が頭をもたげてくるのだ。ネヴァー・トウー・マッチ。
 大切なのは,バランスと復元力。それが力なのだ。ダルマさんの人形がそういっているではないか。DUCATIには「ダルマ(宇宙の法)」というツーリング・モデルもあったのを思い出す。乗った事も在る。

 次は古代織り。布地だが,只の布地ではない。ラオスの古代の織物はタイ、ブータン、インド、チベットと並んで,今でも、愛好家の目を引きつける。織物であるからして,プリントではない。しかも古代織り。糸を一本一本染め挙げてから,織り機で丁寧に織られて行く。手織りながら、今でも吃驚する古代のハイテクが駆使されている。
 古代から,脈々と伝えられて来た,知恵と力、美しさがある。その幾何学的な、スピリットあるデザインは心ある人の目を覚ます。様々な部族の伝統,文化、宗教、シャーマニズム、生活、喜び、悲しみ、楽しみ、情熱と言ったものが伝わって来る。何とも豊かな作品だ。
 そのヴァラエティーにも限りが無い。デザインの美しさは、用途、それが先ず一番のテーマだが、構造上の特徴や、アイディア、美学等を織り込んでトータルな形が織られて行く。総合体になって行く。其所が面白い所だ。注目していたい(前記事「織られたメロディ」参照)

 現代は,アクエリアスの時代。水瓶(クンブー)を見る度に,意識が新たになる。
水瓶一つとっても,横から見たとき、曲線の変化の段階が徐々に変わって変化して行く。
その変化の過程がメロディとなる。溢れ出る水の流れともマッチする。人々は其所にロマンを感じるのだ。アジアから地中海に至る迄,様々な水瓶が作られて来た。
実にいいものだ。形の美しさ、生きている事が命なのだ。
水瓶はクンブーといって、シヴァ神の持ち物。ヒマラヤにも同名の山がある。

 そんな訳もあって、タイやインドにはあちこちに,大きなのから小さなの迄,素焼きの物、色を焼いたもの、様々な水瓶が使われている。
水を瓶に入れておくと,水温もヒンヤリと下がり,陶磁器のイオン効果で水も旨くなる。何とも不思議な効果がある。そして、水は腐らないという。昔ならではの、科学的な知恵だね。地方に行くと,家の軒下に,大きな水瓶が置かれている風景に出会う。

 中には、家の正面近くに、水瓶に噴水の仕掛けを組み込み、その家の顔になっている。暑い国では、何よりの涼しげな、お出迎えになる。さらさらと流れ続ける水が何といえず、命も心も洗われる様だ(前記事「アクエリアス」参照)。

 最近、見慣れて来たとは言え、風情があっていいものだ。身近な所にあると嬉しい。豊かなんだね、ここは。