2007年1月26日金曜日

飲茶 2.(ドーナッツ)

 私は,ドーナツが好きである。理由はよく判らない。何となく好きなのである。なにか、ホッとする温もりがあるからかもしれない。形が「丸い輪」になっているからかもしれない。

 日本やアメリカにいた時は,朝食やランチ代わりに、コーヒーとともにそのメロディーを楽しんだ。ただ、余り甘いのは好きではない。
 バイクで遠乗りにいく時、魚釣りにいく時,ビスケットやドーナツとコーヒーか紅茶を持って行ったものだ。時には、5〜6個買って,ランチにしてしまう。
 それが,今、アジアにいても、ドーナツは恋しくなる。バンコクともなれば、さすがに大都市。町中にも、バスターミナル、空港,鉄道の駅にも、アメリカのドーナツ屋のチェーン店があり、現代風の飲茶として買ってしまう。

 飲茶の本来の意味は,「點心(心を晴らす事)を得る事」だ(前記事「點心」参照)。お茶を飲む事で、心を晴らす、という禅の瞑想の一環だ。禅は、瞑想を生活の中に浸透させて来たのだ。茶の間と言う間もその現れなのだ。気分を変えて,寛ぎの次元スムースに入る事だ。

 日本やアメリカにいた時、よく買ったのが「オールドファッション」という、素朴で,一寸,ぼそぼそしていて、脂っ気がすくなく、甘みの少ない奴。味はマイルドだが、歯触りがいい。こしもしっかりしていて、ふわふわしていない。一寸,イギリスやオランダのドライ・ケーキを思わせる。一番シンプルで、プレーンな奴だ。なんでもそうだけど、結局、シンプルでベーシックなものがいいんだよ。そいつが一番旨いんだ。

 人も同じだね。若いうちは,理想や情熱があるから,あらゆる物や理論や技術、技法を身につけようとする。無限の選択肢があった。色々な経験や,体験を積みたかった。旅もしたかった。地球上を歩いてみたかった。
そのうち,体験を積み,経験を重ねると、道理や法則、知恵(タオ、ダルマ、タントラ)と言うもんが判って来ると、見えなかったものや軸が何となく、みえてくる。手直な所にも、色々なヴァラエティーがある。瞑想を覚えると,その深まりは,底なしに広がって行くほどだ。

 そうなると,無数の選択肢という枝葉は、以前の様に、それほど重要ではなくなって来るのだ。
それがあれば,それで良い。蛙は、池の水を飲み干したりはしないだろう?
それより大事なのは、トータリティー、全体を見る事。
部分だけ見ていてはダメなんだ。形の無いものをも見る事が大事なんだ。無因な物。究極、全体。
其所から部分を見ると、同じ部分を見ても、なんか違うんだよね。
そこに「素」という原点が見つかると面白いんだよ。
頭の中もシンプルに纏まって,使いやすくなる。でも、頭より,気付きの深まりの方が,ずっと大事なんだよ。能力の源は、そっち何だから……。
思考(マインド)とは、人が,「今,現にあるものを見逃している」、という意味なんだ。差別や分析、いい,悪いという判断が無ければ、一切はクリアに見えるんだ。

 ドーナツに鍵があるというと大げさだが、ドーナツの丸い輪を通した、インスピレーション、イマジネーションは数知れない。人生のエッセンスが組み込まれているかの様だ。濃い目のアメリカン・コーヒーにはよく合う。濃いミルクの入ったカルダモン入りのチャイもいい。
ドーナッツを浸して食べるのも旨いね。

 そして,旨い煙草があるといいね。
煙草は、前述のブログ、ストーン・メディスン4でも述べた様に、吸いすぎなければ健康にも悪くはないとおもうよ。嫌なら,吸わなければいい。好きなら,程よく楽しめばいい。単なる嗜好品、無理強いは好きではない。
良い煙草は、吸わずとも、薫りだけでも素晴らしい。
草の薫りは好きなのだが,特に上質の生の煙草の薫りはいい。パイプ用のもいい薫りがする。
  
 ただ,スピリットやエネルギーの無い人には,煙草は良くないと思う。
緩和しようにも緩和する為の力が無いからだ。
身体の調子が悪い時,力が無い時には、暫くやめる方がいい。
力がある人には,緩和作用として,煙草は美味しいのだ。
元気な時程、煙草は旨いのだ。
旨く使えば、リラックスするから、復元力やバランスにもいい。生活の句読点になる。

 ダイヴィングやトレッキングの最中には,私は殆ど煙草を吸わない。ダイヴィングで吸わないのは,当たり前だけどね。
ダイヴィングが終わって陸に戻った時、山のロッジに到着したとき、或いはキャンプ地に無事ついてから、チャイやコーヒーをのみながら、吸えばいい。
その方が,効果的だ。
良い悪いより、如何に? が重要になる。
論理的に突き詰めたり、いいとか悪いとか、部分的に見れば色々あるだろうが、
あら探しを始めたら「良い事だけを見逃してしまう」。それはよく判るだろう?

 トータル的に見れば、効用の面も大きい。酒の様に,雑音が多くなる事もない。
どんな健康的とされるようなものでも、度が過ぎれば、逆作用が働きだす。
在る意味で、生きるという事は、多少の毒を食らう事でもある。
毒も薬も無いのは,死だけである。
私は、九州にもいた事があり、ふぐも大好きだ。少々の毒気が旨い。
唐辛子のような辛くてきつい物が,殺菌作用や、免疫力を高めてくれる。
抗がん作用も強いのだと言う。昔から,命の母のごとく無くてはならない食品である。

 糖分、脂肪は力と旨味の代表だが,健康状態に依っては,毒に変わってしまう。
欲望にとらわれて、旨味だけを追っていても,何時かはバランスに狂いが生じて来る。
トータルなバランスが必要なのだ。先ず、好き嫌いをなくすのがいい。
それから,身体の声を聴く様にする事だ。
それは,人の理想が思い描く事とは,必ずしも一致しない。
そして、当たり前の話だが、腎臓、肝臓を大事にするのが「肝腎」。

 生きて行くには、無菌室の赤ん坊の様には、いかない。
又、一生、無菌室状況で生きても、生きた事にはならないだろう。此の生が無駄になってしまう。
あらゆる物事にも、免疫性を持たねば、生きて行けないのだ。それが「和する」、という意味なのだ。
何故なら、死んだら死んだときの事だが、生きているうちは,生きていたいからだ。

 煙草が健康に悪いのは、その人の「生き方が間違っているから」だ、とネイティヴ・アメリカンは言う。実際、アウトドアーの生活を楽しむ人には、煙草は美味しいのだ。
スピリットやエネルギーがあるから、旨味を感じるゆとりがあるのだ。エネルギーの無い人と比べても,健康上、意味が無い。
アメリカ・インディアンにしてみれば、自分たちの文化や宗教をとやかく言われるのは、全く心外なのである。差別意識も甚だしい。車の排気ガスの方がずっと身体に悪いと思うが……如何に?

 気付いた事があるだろうか? 
非難するということは、「和の心」が欠けているのだ。「和の心」からは,非難は生じない。
非難するというスタンスは,偏りである。一方の極端にいる事だ。だから非難ができるのだ。
和の心は,極端からは,絶対に生まれない。試してご覧。
それは一体性から自然に生じて来る。

 以前、ロシアが侵略する以前のカブール(アフガニスタン)に10日程いた事があった。
当時は、イスラマバードから、バスでカイバル峠を越えてカブールに行く事が出来た。
最近はどうなんだろうか?

 朝飯を食いに、近くのレストランに入った。
昨日初めて来て、長距離バスで、腹が減っていて、ほうれん草とチーズのカレー(サーグ・パニール)、野菜のサフラン・ライス、羊のカバーブを頂いて美味しかったし、取り分けナーンがとても旨かったからである。ナーンの焼き具合が判ると、其所のレストランが、どの程度か判って来る。
丁度、日本のすしやの卵焼きの様なものだ。腕前が判るのだ。
店の雰囲気は、飾り気が無く、いい具合に寛いでおり、ウェイトレスも美人で愛想が良かった事もあった。木の茶色のテーブルと椅子、白い漆喰の壁、床は土のままだ。

 朝らしく、新鮮な空気と、静かだがしっかりした声で「サラーム!」、という挨拶の言葉が、朝の空気の中にとけ込んで行く。そのトーンには、平穏で豊かな喜びが感じられた。
朝のカブールは素晴らしかった。
チャイと、インドのプーリーに似た揚げパン、オムレツを注文した。
揚げパンは、言わば、生地を薄べったいパン状にして、油で揚げた物だ。
丸い穴があいている訳ではないが、実質はドーナッツに近い。壷で焼く、ナーンとも勿論違う。
アジアの、オールドファッションなドーナッツと言ってもいい。
千切って、チャイに浸して食べるのが普通だが、それにバターやジャム、蜂蜜、チーズやオリーヴオイルを塗ってもいい。どれも旨い。チーズとカレーを塗って簡易ピッザにするのも悪くない。
オムレツをのせてもいけるのだ。

 程よい音量で、ローカルなアフガン・ミュージックが流れている。
近くにいたターバン姿の男達が、お決まりの様に、色々と訊ねて来る。
それが彼らの楽しみなのだ。当時のアフガンは実に平和だった。
待ちかねた、食事が盆にセットされて、ティー・ポットからはチャイの薫りたかい湯気が立ち上っている。オムレツも揚げパンも暖かい。出来立てだ。

 ふと、盆の片隅に小皿がのっているのに気がついた。其所には何と小指程の大きさのチャラス(ハシッシ、大麻樹脂)がのっていた。手に取って薫りを嗅ぐと、紛れも無く良質の新鮮なハシッシ。真っ黒で艶もあり、新鮮でまだ柔らかい。香り高さが、魂にも届く様だ。これに勝る,「點心」は無い。
 日本語では,大麻樹脂という味も素っ気も無い言葉になっているが、ヒンディー語では,チャラス、これが此の言葉の原点であろう。5000年以上も前から,嗜好品として,瞑想や宗教儀式として使われて来た。ヒンドウー,仏教、イスラム世界に於ける、心を開く要、「點心」と言ってもいいだろう。そして、アラビア語でハシッシと呼ぶ。原料は麻。どうという事は無い。少なくとも、毒性は無い.おかしくなる事も無い。ただ、力があって真っすぐ成長する。丈夫な植物だ。ネパールやインドのヒンドウー、仏教界や、場所に依ってイスラム圏に於いては、女性も吸う。
 国に依って違法な国と,違法でない国がある。今では、チャラス、ガンジャ(マリワナ)の喫煙に合法的な国が段々と増えて来た。楽しむなら,合法的な国がいい。

 なにこれ! おまけ? お店のおごり? 辺りを見渡すと、男達が満面の笑顔で顔を向けていた。ただ一言,“アッラー・アクバル!”と静かな声がした。他に言葉は要らなかった。

 彼らの配慮かもしれない。
“シュークリア“と、誰にともなしに感謝の気持ちを「辺り一面」という神に伝える。
オアシス到着! 羊の脂で練り固めた、正真正銘の本物のアフガニー。しかも,上物
その後、数日間、実に楽しい日々が続いた。ストーンな日々であった。
その後,インドに戻った後にも,楽しい日々は続いた。
識別が消えれば、全てはもともと一つなのだ。
何時か、昔の平和なアフガンが戻ってくるといい。今でも時々、思い出してしまう。

 「オールドファッション」のドーナッツは,何となくではなく、好きである。チョコレートがのったのもある。悪くない。所が,アジアに来ると、その「オールドファッション」が無い。売っていないのだ。仕方が無いので,ココナツやピーナツをまぶした、出来るだけ甘くなさそうなのを代用にするしかない時々、町の屋台で胡麻をまぶした揚げパンを売っていて、代用品にする。でも、「オールドファッション」には及ばない。それが,一寸残念だ。今度、ネットで、何故、あの「オールドファッション」を売らないのか,訊ねてみよう。

 バスや汽車で遠くに行く時,ドーナツか揚げパンを買う事にしている。缶コーヒーも一緒だ。乗車してから、バスのビデオ映画を見たり、外の景色を眺めたり,本を読んだり、ヘッドフォンで音楽を聴いたりと,楽しむことは沢山ある。ドーナツとコーヒーがあれば、楽しみは倍加する。
 ホッとする。心に、新鮮な空気が入って来る。子供の時代の豊かな感性がもどって来るかの様だ。もう既に,子供かな? もう一周しちゃったかな? まあ、どうでもいいか。
 スタン・ゲッツなんか聴くにはいい。大人の少年には最適だ。一寸,古いかもしれないが、「フォーカス」とか,「リフレクションズ」なんかクールで、乗りもいい。彼の絶頂期だ。何度聴いても、思わず、舞い上がってしまいそうになる。 
 スティーリー・ダンなんかも粋。「カウントダウン トウー エクスタシー」、いいね。

 ドーナツという丸い輪のケーキは,旅を楽しく,増幅してくれる。大げさに言えば、人生も豊かにしてくれる。仇おろそかには出来ない。
ド−ナッツの輪は和の心、秘密めいた所はなにも無いが,輪には持って生まれた神秘の力がある。いつまでも,旅や寛ぎの飲茶にしていたい。

和心,點心、飲茶の心。