2006年12月30日土曜日

歩禅(歩く禅)


 ただ、座って、無為にあることを座禅という。無心にある事である。これが驚異的なキャパシティを生む。
 だが、其れだけが禅(メディテーション)という訳ではない。あらゆる状況に、あらゆる行為に浸透させることができる。今日は,「歩禅」について、少し歩いてみよう。


 歩禅とは、歩く禅、歩くヨガといっていい。言い方をかえると、日本では、身体気流法という事になる。
 人の身体の生体エネルギーには、左右対称のシンメトリー的バランス作用が働いている。この事は、インドや中国の東洋医学では当たり前になっている。西洋医学では未だに認められていないが、シンメトリー的な生体エネルギーの不調和から、病気が起こることも多い。時として、何かあっても、医者ですら「気のせいですよ」といって片付けてしまう。だが、逆説的になるのだが、「気のせい」だからこそ、本来、無視してはまずいのである。

 人に限らず、動物の消化に関する内蔵,腸は渦のように螺旋状になっている。血脈も8の字状に、そして螺旋状に体中を巡っている。神経系統もまたしかり。左脳と右脳も左右対称、それぞれが性質の違うシンメトリーになっている。

 子供の頃、何気なく、「神社の鳥居を巡る遊び」、に気がついた。特に目的が無かったのがよかった。何となく始めたのが良かった。それは、神社の鳥居の二本の柱を,8の字状に、何度も巡るのである。好きなスタイルで,好きなリズムで、気楽にやる事が肝要。中々気持ちがよくなるものだなあ、と思った。
 神社というのは緑が多く、従って空気もよく気持ちのよい場所である。何度か回るうちに、8の字が大きくなったり,小さくなったりし始める。ただその時、私の場合は、右回り、左回りの際に,二本の鳥居の柱の中間でクロスするポイントがある。そこだけは割と正確に通るようにしていた。
円が大きくなっても小さくなっても、そのクロスポイントが一定だとセンターがしっかりするからなのだ。
 子供は元気だから、段々とテンポも速くなる。そのうちに、右周りと左回りを繰り返していても、ただ一点でぐるぐる回るのと違って、目が回らないのだ。
そこの所が面白い。そして意識が変化している事に気付いた。

 しかも10分、20分と続けているうちに、自分が回っているのか、無心で自然に回っているのかが判らない程に、三味状態になって来る。最初は勿論,自分の意志で始めるのだが、よく名人の舞踊や舞いについて言われるように言われるように「そこに舞いがあり,しかし舞うものが消える」,というような自然の力に踊らされているような快感、意識の変化を実感した。意識と無意識という、矛盾するニ極の融和状況が起こって来る。仏教では「如」という。

 これは、一時的にせよ、精神にとっても解放であるし、身体の健康にとっても具合が良い。スーフィーダンスの変形、或いは原型だったのかもしれない。神社の神主さんがする、お祓いが、この8の字の巡りである。水引、しめ縄の縛り方にも、8の字巡りが応用されている。
ただ単に、デザイン上の美観の為だけではないのだ。根本的な意味がある。世界中の瞑想,武道、健康法にも8の字巡りが応用されている。

 同じような事が、周囲の空間との間にも生じて来る。なぜか、生き生きとして、樹々さえや石さえも微笑んでいるように見え始める。

 子供の頃のように走り回る必要は無いが、自分のペースで、自分のリズムで、無理せず、気を楽にして8の字歩行を行うと、肉体の健康上にも良いと聞く。適当な二つのポイント,鳥居でなくとも,二本の樹でも,柱でも,二つの石や岩でも良い。先ず右足を前に出して,次に左足、というような難しい事は何も無い。自然に歩き出せば良い。できれば,力を抜き,脊髄を真っすぐにする。

 一回、10分でも20分でもいいが、2週間程続けると、気に敏感になり、身体に気が充満して来る。妙に意識が新鮮味を帯びて来る。消化系、神経系、呼吸器系も自然体に近くなって来る。よって、元気が出て来る。特に、便秘の人にはとても効果があるそうだ。宿便や古便が出る事もあるという。散歩や買い物に出かける際、ただ行って帰って来るだけでは能がない。どうせなら、8の字歩行を加えれば、良い健康法、そして瞑想にもなるのだ。

 終わって、静止してのんびり、ユッタリとしていると、活気をおびた生体エネルギーが体中を巡り始めるのがよく判る。
本当に寛ぐには、「ブッダの触地印の如く」、暫く、手の指か手の平で地面に触れると良い。身体の電気的エネルギーがアースされ、よりエネルギーの整流効果が高くなるのだ。静電気も消える。腕立てや,腹筋運動のように、特にしんどい運動は何も無い。自分のペースに合わせれば良いのだ。好みの音楽でも聞き乍ら行えば,リズムと相まってより効果は高いと思う。