瞑想とは,見つめる事,見る事である。何を見ても良い,花でも、壷でも、石でも,樹でも何でも良い。だが、何を見るか、というよりも、見る事の「質」が問われる。それが瞑想の何たるか、である。
マンダラの中心に深く見入る事は、同時に、自分の深みに入り込んでいるという事に気付く事だ。
マンダラに集中している自分に気付く。それは、目の前に現れるどのような絵、或いはもの、或いは状況を精密に学び,探求する事が出来る精神力、きめの細かさ、全体性の理解や勇気を鍛えてくれる。嵐がやってきても、争乱があっても、もめ事があっても、「見る事」が出来る人は、常に美と平和の中心にある。丁度,台風の目のようだ。風速50m/sの台風でも、その中心は無風である。
充分な深遠さと緻密さを極めたマンダラ・ワークは内なる自己に直結し、そこから、存在の中心から世界を見ている事になる。それは極めて優雅な、世界に触れる方法。マンダラは迷路ではないが、メンタルにその中を歩いてみる必要がある。
足なくして歩き、翼なくして飛ぶ。マインド無くして,思考する。
それ以上に、贅沢な事はない。
様々な色がある。
それは一つ一つ異なる振動、波動である。
一歩、一歩、進むにつれ、共鳴する知恵も見えて来る。
それは、潜在意識下の印象と深遠さである。
色や形が変わる度に、潜在意識は微妙に感応し共鳴する。その事を通して、見るものに変容をもたらすのだ。
この、一寸手間のかかる,入り組んだ方法をとる事により、物事の本来の意味、深遠で、根源的で、最も新鮮な所を見る事が出来る。慌てる必要は全くない。
ゆっくり,丁寧に見れば良い。それを楽しむのがいい。時間は無限にある。世界を広角的にも,マクロ的にも、望遠的にも見る事が出来る。
樹や葉、花や苔、そこに宿る質感や雫の美しさを知る事が出来る。生に厚みと,幅、深みが備わって来る。それはあらゆる事に応用が利く。まさに万能薬だ。
この、技法と理解をもとに、人は生活の質を変える事が出来る。もし、痛みや苦しみがあるのだったら、そこから逃げださずに、その原因まで探求を深めてみる。暫く、その痛み、苦しみを眺めて,吟味してみる。そして「その見ているものは誰か?」を考察してみる。
痛み、苦しみを見ているものには、少なくとも痛みも,苦しみもないのではないだろうか?
暫く,続けているうちに、何日、何週間かかるか判らないが、解決策は何れ生じて来る。オーム・マニ・ペム・フム(意味は,蓮の中の宝珠)。
そこで、何を変えたら良いか、あるいは、過去から引きずってきた何かを手放す事、その決断が容易に出来るようになる。少なくとも,和らげる効果がある。一日に何度か見る事を重ね、自分の深みに下りて行く事、瞑想を習慣にするのも良い。それを楽しみとするのも良い。
何が,自分を快適にするのか、幸福にするのか、をも探求してみる。
人は,無限の可能性と同時に無限の制限にも取り囲まれて生きている。
どういう事,どういう状況が,より幸せな自分を造るのか?
そのことは、人の生活の質を高め、自分に対する見方はより単純明快になり、より創造的な生活への入口となる。
不満を満足に変容する。生を変容する。
夢の中心にも連れて行ってくれる。
そして、夢は人よりも賢い。
マンダラ・ワークを通じ、マンダラは何を語りかけるのだろう。マンダラには同情も拘束も束縛もない。マンダラは鏡のようなものだ。何が起きても,マンダラに責任はない。普通の鏡は表面の形だけを映し出すが、マンダラは「意識の深みを映し出す魔法の鏡」だ。マンダラが教えてくれるのは、真実、他には何もない。あなたが今いる所の意味や質だ。それは新たな次元。そして、それは住所ではない。
あなたが心底、正直にそれを容認するならば、それは、素直にあなたの生活に次第に浸透して行く。ヴィシュヌ神のヴィスと言うサンスクリット語には、浸透する、という意味があると言う。それは取引ではない。マンダラは商売はしない。だから、損も得もない。あなたが共鳴するか、或いはしないか? それは、マンダラにとっては、どちらでも良い事だが………。
或いは、入息と出息が融け合う瞬間、その、エネルギー無き中心、エネルギーに満ちた中心にふれる。
ヴィギャン・バイラヴ・タントラより。