2006年12月23日土曜日

反作用の法則


 力を出すためには、力を抜かねばならない。往々にして、力は「引き算」によって生じて来る。

 夏、冷えたスイカや梨、或いはリンゴや胡瓜を食べる時、塩を少しふると甘みが増してくる。逆側に振って、反作用の力を利用しているのだ。意識はしていないかもしれないが、誰でも知っている。だが、意識的に見ると、いろいろと微妙、微細な面が見えて来るから面白い。
 スイカや梨に、砂糖をかけても旨くはならない。とんでもない味になってしまう。力を入れようとすると、力は偏ってしまいがちになり結果的に力とはならない。野球に於けるバッティングでも、ただバットを前へ押し出そうとするよりも,バックスイングを十分に生かしたほうが打撃は強力になる。ボクシングに於いても、攻め込んで行ったときのパンチよりも、相手が前に出てきたときのヒットの方が,相乗効果でパンチはより強力になるという。物事の道理というものは面白い。結果的に、気が入り力が末端まで均等に配分出来、全力が出せるようになる。



 昔、ある剣術家が禅師に、試合に臨む心構えに付いて問うた。師は、「勝ってよし,負けてよし。」と返答した。勝とうと思えば力は偏ってしまい,部分だけに力が集まってしまう。負けても良いでは、又,力はそがれてしまう。気力もなえてしまう。勝ち負けを離れ、「無心」で戦いに臨めば,偏りもなく、結果的に全力が出易くなる。稽古の気分でいけば、その人の全力に近いものが表に出易くなる。緊張は人の力を固定させてしまう。
一定の感覚だけが異常に研ぎ澄まされると、身体の多の局面、波動の交流の能力,カン、といったバランスが失われ,持っている本来の力は半減してしまう。思い込みが強ければ強い程、他の局面は無視され偏った見方になってしまう。自分の能力を100%使えない事になる。勝負にこだわらない人の方が、柔軟な力を発揮するのだと思う。結果的に負けたにしても、全力を出したのであれば,「礼」を尽くした事になる。

 また,こういういい方もできる。人の目がものを見る時、見えすぎる光りを調節して程よくして、ものを見るのだという人がいた。なるほどと思う。
 あらゆる物事に言える事だが、全ての行為は中心から外れる事で成り立つ「ゆがみ、うねり」の様なものだ。瞑想的、或いは宇宙的視野でみれば、あらゆる動きは流れ、巡りなのだ。敢えて,意図的に、その中心を外れてみると,初めて中心が見えて来る。一見,何処にも存在しないように見えるこの世の中心は,何処にも存在しないし,逆に、何処でも、そこが中心であり得るという事にもなる。タオイズムとは面白い。そこから見える世界は実に楽しい。それこそが本物なのだから。

 よく、物忘れをして,喉の所まで来ているのだが,どうしても思い出せない,という事がよくある。そんな時はどんな努力をしても、思い出せるものではない。努力したり,奮闘すればする程,迷路に入り込んでしまう。そういう時は、何かを思い出そう等という事、全てを忘れてしまう。音楽を聴いたり,散歩に行ったり、普段の生活に戻って忘れてしまうのがいい。道理を知っている人は,必ずそうする。見えている人は、ただ、イライラせずにじっと待つ。無理にじたばたしない。じたばたするのは、視力がなく、思い込みの強い証拠、マインドに使われてしまっている。

 思いがけない時,一時間か,一日か、数日後か、数週間後かは判らないが、突然,閃くようにその答えの方から飛び込んで来て、ついにんまりしてしまう。答えは,問いがないときにやってくるものだ。そんな経験はないだろうか?