2006年12月5日火曜日

隈取り

 芸術とは華麗なる嘘である。映画や芝居はとくにそうだ。仮説でも嘘でもなんでもいい。

 面白かったり,人を感動させればいい。楽しめればいい。筋目を通して,単純化したり、彩りを添える。ものによっては意識を広げたり、夢を見せたりもする。とりわけ、歌舞伎の「隈取り」は見事だ。長年の経験と実績から生まれた芸術的な化粧の手法。コントラストを強める効果がある。インドにも,歌舞伎の元祖のような「カタカリ」があるが、今回は「隈取り」で遊んでみよう。


 「隈取り」は、歌舞伎の化粧だけに留まらず、そのままではないが、あらゆるもののデザインにも使われたり,ヒントになって、アクセントを強め、内容を浮き上がらせる。歌舞伎や能の他に,私は相撲も大好きなのだが,お相撲さんが化粧する訳ではないが、髷、締め込み()、行司さんや呼び出しさんの立ち振る舞い、声、拍子木、櫓太鼓、土俵入り、どれをとってもある種の形を変えた「隈取り」に見えて来て、知らないうちにその次元に入り込んでしまっている。そこに日本の文化のエッセンス、間合いの妙、エスプリも見えて来る。様式の美学なのだ。光りに対する,闇の部分ともいえる。ただ単にスポーツとしての相撲だけではないのがその魅力である。単に,勝った負けた、と言うだけの安易なものではなく,スポーツとしての総合芸術に思えて来る。厚みがあるのだ。

 タイのムエタイの試合の前に行う,舞踊もその意味では共通する。音楽もいい,オーボエのような、インドでシェナイという笛、チャルメラみたいなリードを使った楽器が中心になっているあの独特のサウンドが堪らない。聞いたとたんにもうムエタイの次元、モードに入り込んでいる。選手達は、そこでリラックスしながらスピリットを注入する。それが、ムエタイの隈取りだ。様式に違いはあるものの、アジア的と言う点では共通する。ともに収穫を祝う為の,或いは五穀豊穣を祈る為の、宗教的な儀式の一環、お祭りなのだ。

 「隈取り」は、歌舞伎の化粧だけではなく、在る部分を「際立たせる効果のある事」も含まれる。陰影をつけ陰陽を際立たせる、「アクセント」を付けて魅力を、スピリットを増す。そんな効果がある。一つの「見得」である。

 「見得」とは、歌舞伎の演出の一つの形。同じ音でも、「見得」は「見栄」とも少し違う。見かけや体裁には違いないが、あくまで芝居の流れの中で、際立たせようとする「特別な間合いの事」を言う。「見得を切る」という。見栄の場合は、「見栄を張る」になる。
 クライマックスに於いて,役者が一時的に芝居を中断してポーズをとる事で,歌舞伎の魅力でもあり,大きな特徴ともなっている。「隈取り」は「見得」とも大きな関わりがある。それは演出上のアクセント。それが,絶妙にフィットしていると,実にクールで格好いい。

 大向こうから,声がかかる。