2006年11月23日木曜日

十牛図

 禅には,十牛図というものがある。誰でも,一度位は話に聞いた事がある筈だ。それは、表現不可能なものを表現しようとしてきた「ユニーク」なものだ。どんなジャンルにも当てはまらない。

 元々は,仏教のものではなく,道教(タオイズム)のものだったそうだ。禅はブッダの教えと,老子の教えの融合である。道教のものがあってもおかしくはない。それは、目標の定まらないものの為に,目標を創る為であった。又、其れを通して、禅を理解する為のメソッド(筋道)でもあった。


 最初は十牛ではなく、八牛だったという。「牛を尋ね歩き」,「牛の足跡を見つけ」、次いで,「牛を見つけ」、「牛を捕まえる」。次に,「牛を手なずけ」、そして、「牛に乗って我が家に帰る」。次に,「牛の超越」、そして「牛と自己との超越(空、無)」。この八つだった。
 12世紀に、中国の「廓庵」という禅マスターが書き直した上に,後2つ書き加えたと言われる。これは,宗教意識への、禅の偉大な貢献とされている。「根源への回帰」、そして「世間にて(世間に帰る)」という二つだ。そこに、禅というユニークな最終境地が込められている。

 「牛の探索」とは、生のエネルギーの探索の事だ。知恵と力の探索だ。人が本当に覚めていたら、何事にもとらわれていない時「気付き」が起こる。それが、「牛の足跡の発見」となる。そこから徐々に,未知へ,未知へと足を進める。「根源への回帰(根源に帰る)」とは、未知に消え去る事。未知とは未来という意味ではない。未知は、常に、今、ここに在る。それは、神秘、知り得ないこと,知らないことを意味している。

「名月や 星限りなく 空は闇」

 それは、無思考、無計画、自我によって決められた事でない事。そこに,ダイヴする事、ジャンプする事。大変な勇気がいる。だが、そこから、「生への信頼」が生まれてくる。此処の所は,大切だ。「未知へのフィットネス」である。

 人為的な事は,誰にでも出来る。人為的ではない事は意外と難しい。「無為(ウーウエイ)」、それが未知へ飛び込む事。人は,即,未知に入れる。其れは、プログラミングの解除、観念づけからの解除なのだ。
 何もしないでいる事。其れを通じて、『物事が自然に起こり易くする為の「こつ」』だ。そこで,無為を学ぶ、瞑想を学ぶ。川が流れるように,岸辺にとらわれずに,自然に流れて行く。無理が落ちて行く。いずれ、誰しもが,自分の「流れ」を見つけ出す。其れが,本来の,人生の目的なのかもしれない。そして、本来の自分になる。其れが自由というものだ。他には,人生のゴール等、一切皆無。真実とは、もともとクリアーで,常に目の前に在る。誰も隠していやしない。最も,普通の物だ。

 例えば、当たり前の話だが、月は、どんな小さな池にも、草の露にさえも、何千もの池にさえ、その姿を映し出す。そして、月が濡れることも,水が破られることもない。何も為されては居ない。だがそのことからある理解が生じて来る。隠しているのは、自分以外には居ない。誰しもが持っている,虚偽性、思い込みという奴だ。
 そして、ひとは、闇雲に生きている。欲望、競争、嫉妬,全てはエゴから生じて来る。マインド、観念、思い込み,それらが目隠しをする。そして,本来の力を奪ってしまう。そういう、闇雲というメカニズムを知ることも面白いのだ。人を夢中にさせる、メカニズムだ。

「何故、神は見えないのですか?」
「神は、見えない訳じゃない。見えないのは、お前の目が閉じているからなのだよ。頭の中が、何かで一杯になっているから、損だ得だと、良いとか悪いとか騒いでいるから、目が閉じるのだ」

 自分に視力がないばかりに、右往左往するのが,人間だ。何とも,大変な宿命を,背負わされている。エゴが落ちなければ、何も見えてこない。その人間が、牛を探す。そのプロセスから、ほんのわずかな間合い、そして超越が生まれて来る。覚醒が生まれる。形に執着しないものが、形を知り、形を有効に使える。同化しなければ、何でも自由自在。物でも,マインドでも、エゴでさえ有効利用できるではないか? 道具として…

 山登りというのは、言葉通りに理解すれば山を登る事だが、それではトータルではない。意味をなさない。もし、そんな理解だとしたら、行ったっきりになってしまう。息を吸うだけが,呼吸ではないのと同じ事だ。呼吸には、息を吐く事,息が止まる間合いがある。そして、息を吸う事がある。目的の山に登って目的を果たし、又、下りてこなければならない。自分の家に帰ってこなければならない。下りる事を忘れてしまいがちになる。
 ビートルズの曲に、Get back!(自分の場所に帰れ!)と言う名曲があった。頂点に達した事を意味する曲だ。そして、下りには,より注意が必要だ。昇るときには、集中力も緊張度もそれなりに高いが、下りは気が緩んで来る。最終目的は、家に帰ってくる事だ。そこに真の目的がある。世間から始まり,又、世間へ戻って来る。戻ってきた時の自分は、一回り大きくなり、別人のように新鮮になっている。そして、世間に寛ぐ。そこは、最初の出発点だった所だ。
 アット ホーム、いい音だ、サウンヅ グッド! 円が一つ完結する。茶が旨く感じられる。メビウスの輪が繋がっている。世間と、涅槃、あの世とこの世が一つになる。元々が一つなのだ。分かれているように見えるのは、人のマインドの所為だ。ワット・ポーの黄金の涅槃仏が、世間のど真ん中に在るのは、その事を示唆している。これが理解できたら、禅を少し理解できたのだと思う。要は、シンプルになる事だ。

 禅は知識ではない。教えでもない。信仰でもない。ましてや、神学でも、哲学でも、イデオロギーでもない。そこの所が,他の宗教と違う。又、そこの所が、ユニークさの秘密でもある。神など論外、どうでもいい。神のことは、神に任せておけばいい。お前さんはどうなのだ? ただ、自分を知り,自分を学ぶことなのだ。「気付き」(アウェアネス)を深めるための方便といってもいい。意識の柱を持っているかどうか…
 そのプロセスには、予期しない様々な体験が待ち受けている。それは、ぬるま湯の生ではない。だが面白い。どんな苦も、苦にはならない。生に意味が出てくるのは、その後の事だ。十牛図は、先ず、「生きて見なさい」と言っている。
 目標がなければ,目標を創ればいい。目標が出来れば、気力も伴って来る。能力がなければ,能力を造ればいい。そうすれば、力も自ずと付いて来るというものだ。創造的(クリエイティヴ)な技法と言ってもいい。

 先ず,牛の足跡を見つける事だ。ところで、牛の蹄は、どんな形をしている?