2006年11月21日火曜日

パワー・アニマル2


 今日は、牛の話をしよう。

牛は、古代から、パワー・アニマルの代表選手といってもいい。

「ウシ」という日本語の言葉には、大いなる力をとどめると言う言霊的な意味があるようだ。

禅の十牛図に描かれる牛は「力」の、「真実の探求」のシンボル

 古代のヨーロッパの「力」のシンボルは、オーロクスと呼ばれる「野牛」であったといわれる。

野牛は地上最強の生き物。飼いならすのは、至難の業だった。

だが、一旦,慣れると,人々に取ってはなくてはならない生活の糧であった。

畜牛の先祖だそうだ。

牛は重い荷物を運び、田畑を耕し、人々にミルクを与え、そこから、チーズ、バター、ヨーグルトが生まれてきた。毛皮や肉は、人々にとっては又とない貴重なものであった。

まさに、生活、文化、力の神。

強さ、耐久力、そして人々に。長老の知恵、利益をもたらしたのだから、人々にとっては神といっても過言ではない。

 ネイティヴ・アメリカンにとっても、野牛は生活を支える大切な生き物であり、精霊のやどるスピリチュアルな生き物であった。

其れは,長老の知恵にも例えられていた。

野牛は、地上で最も強く,逞しく,又、野牛には、再生と浄化の力がある事を見いだしていた。

そして、世俗と霊性との架け橋となっていた。野牛の知恵なくして,シャーマニズムは成り立たない。

 インドにおいては、牛は、言うに及ばず、神の乗り物。それは、何千年と変わらない。

クリシュナ、シヴァ、ブラフマ、皆、牛に関わっている。

生活のこと、ミルクを与えてくれる事や、や田畑を耕す事、其れ以外にも、インドの人は、牛を通して、様々な不思議な力や知恵を発見して行った。牛は人々の父や母にも相当する。

 牛は、文明の黎明期から、ただただ人々に奉仕し、保護してきた神そのもののような生きものだ。

その力は、常に新しく、インド文明の基盤として何千年も存在し続けている。

もし、牛というパワー・アニマルが居なかったら、インドはインドではなくなっていただろう。

 もう30年以上も昔の事になるが、初めてインドに行った時、牛を見た。

人々は、食べ残しや、ゴミを道路にぽんぽん捨てる。

其れを,牛、駱駝、ヤギ、羊が食べるのだ。

だから、何時も奇麗なのだ。

当時は、現代とは違って,インドにはビニールやプラスティック製品が皆無だったからなのだ。

このシステムは素晴らしい、と思った。

ゴミ収集がいらないのだ。

糞でさえ、家の壁に使ったり,燃料にする。

無駄が一切ない。余計な経費もかからない。

循環社会の見本であった。

この文明は,自然を合理的に使っている。とても、豊かで、ユニークだと思った。

その時、究極的に世界で生き残る事が出来るのは,インドしかないと直感した。

 だが、最近は,ビニールも,プラスティックも、コンビニも増え、様相も少し変わってきた。

いちいち、鍋や器を持って行かなくても、ヨーグルトを買う事が出来るのだ。パックされている。

便利さという力も凄い。

お陰で、人々は、段々と横着になってきた。

 インドの牛は、それまで見てきた牛とは、姿も明らかに違う。

波動も物腰もゆったりと、堂々としている。

そして、目は優しい。

そばに寄って,頭や背中をなでると、顔をこすりつけて来る。

何ともかわいい。何千年もの永きに渡って、人にいじめられた事、殺された事等ないのだ。

DNAからして,根本的に違って来る。

しかもその静寂さには、多くの鳥達も安心して近寄って来る。

その時、初めて、何か「不思議な力」というものを、目の当たりに見た気がした。

 インドでも,タイでも、ラオスでも、開けた水辺の草むら、つまり牛に取っての極楽で牛が草を食み、近くには、よく白鷺が数十羽も遊んでいるのを良く見かける。

平和を絵に描いたようだ。

何事もない。難もない。時の流れすら変わってしまう。

無事という本来の普通、その豊かさというのも知った。

本当の力とは、そういう事だったのかと、理解した。

 とくに、目立ったのは、雄の白いこぶ牛。

駱駝みたいに、背中のこぶに水分をためているのだろうか?

モヘンジョダロの遺跡から発見された、素焼きの判にもその堂々たる姿が描かれている。

見るからに、大きく、堂々としている。

人々は、目には見えないシヴァ神が乗っていると信じている。

雌牛のこぶは目立たず、やはり,穏やかで、バザールやマーケットの中にまで入り込んで来る。

一度、プシュカルの安ホテルにいた時、ロビーに雌牛が入り込んできた。

縁起がいい事には違いないのだが、従業員は、何とかホテルの外に連れ出そうと、右往左往、手を変え、品を変え、騙し騙し、やっと追い出した。

雌牛はそのホテルが気に入ったようなのだった。牛の御意である。

雌牛には、ラクシュミやクリシュナ,サラスワティー(弁財天)も関わっている。

粗末には扱えない。

雌牛は、インド中にミルクを供給する、,人に取っては母親みたいな存在だ。

 地域にも依るが、もし,牛に悪さを働いたり,けがでもさせようなら、袋だたきにされる。

インドの事情を知れば、当然の事かもしれない。

場合に依れば、刑務所行きだそうだ。

それは、殺されない為の警察の配慮だという。

だが、そのような事は、先ず起きないという。

誰もが、牛を神として大切にしているからなのだ。

 ジャスミンやマリー・ゴールドの花輪を首にかけたり、フルーツや、牛の好きそうな草を与えている。

時には,道路の真ん中に,悠然と座る。

何時でも,座りたくなったら、何処にでも,どっかりと座る。

文句を言う人は,居ない。

人や車のほうで避けて通る。牛は動かなくていい。

「泰然自若」、とは、インドの牛の事だ。何とも,格好いい。

  「忽然と,無事に座す、

春来りて、草、自ずと青し。」

と、いった所だ。

 祭りのときは、象と並んで、牛は人々の施す化粧や花輪で、ギンギラギンの姿になってしまう。彼らにすれば、「人間とは、なんと馬鹿な事をやってる」、と思うかもしれないが、大事にされている事は判る筈だ。素直に,されるが儘にしている。

 鷹揚にその捧げものを受ける牛の表情は、まるで、ヒンドウーの聖者の様。それは,何とも言えない美しさと、威厳と静寂さを兼ね備えている。牛は、インドのスーパースターなのだ。
それは、何千年と変わらない。これからも変わらないだろう。それは、インドならではの、深い洞察力の賜物。それこそが、力と平和と豊かさの形なのだから…