音が存在する。
音が存在するのは、無音が在るからだ、といわれる。
無音が無ければ、どんな音もあり得ない。
音と無音は、丁度、光りと闇のようなものだ。
波動が形を持つと、光りや音となる。
この世には、両方が在る。
だから、両方とも頂く。光りも闇も、音も無音も、頂く。
そよ風が起こると、そして耳を澄ますと、様々な音が聞こえて来る。
風が樹々の枝や葉をそよぐ音、落ち葉やさざ波からも音が生じて来る。
干した洗濯物が、風にはためく音。
近所のおばちゃんが洗濯する音。
近所から聞こえて来る、生活の音が在る、
そして、自然の音が在る。
全てが調和しているように聞こえる。
無意識に、人や動物達が、自然に合わせているのだ。
桶屋が儲かるかどうかは判らないが、そよ風の涼しさにつられて、人々が動き出す。
野鳥達も、心なしか、騒がしくなる。
魚が飛び跳ね、カエルが水に飛び込む。
猫が背伸びを始める。犬があくびをしながら、寝場所を変える。
今日は、春の野のごとく、穏やかだ。
音も動き始める。
水面にも、波風が立つ。
あらゆるものが、動き始める。
それは,宇宙の揺らぎ。生が動き始める。そこに理由はない。
そして、何時かは、やがて、もとの静けさに戻って来る。
自然の音であれ、音楽であれ、音を触媒として無音に入る事が出来たら、その事を、知ろうが、知るまいが、人は瞑想にある。
努力はいらない。
一切の努力の無い状態を、瞑想という。
それは、生きるものにとってのオアシスだ。
自分を意識しない時、源を知る事が出来る。
そこに、安らぎが在り、くつろぎが在り、安心が在り、無心に入れる。
そこから、キャパシティーが大きくなり、力が生まれる。
それは、難しいものじゃない。
難しいものがあるとすれば、それは人のマインドだ。
とりわけ、テクノロジーが重要になりすぎると、人間関係にも影響を及ぼす。
何でもテクノロジーで片がつくと思い込んでしまう。テクノロジーが悪い訳ではない。
マインドが、同化してしまうと、おかしくなってしまう。
テクノロジーは役に立つ、それに一切反対はしない。
だが、それは二次的なものなのだ。本質的なものではない。
ここが判らないと、混乱はいつまでも続く。
先ず、源を見つけ出す事。
マインドそのものを見つめ続ければ,マインドは消えていく。
インドの音楽がユニークなのは、無音を基盤としていることにある、と言われる。
他の音楽との大きな違いはそれだ。
全ては、無音を際立たせる為に、音が、メロディーが、リズムが、ハーモニーが存在するという。
普通の音楽は、音を際立たせる為に、無音、休みを使うのだと言われる。
何れにしろ、無音があって、音が生き始める。
無音が成長すれば、音も成長する。
今まで聞いた事も無い,微妙な音も聞こえて来る。
それは,無音の音。
間合いが命。
そこまでくれば、誰でも判る。
無音、沈黙は、光りに対する闇のようなもの。あらゆるものを包み込む。
四六時中、そこにいる訳ではない。
時々、意識すれば良い。
それなら誰でも出来る。
だが、そこがあらゆる,創造性の源。
だが、少しでも無音に近づけたら、ただ、「気づく」だけでもそれは素晴らしいものになっていく。
無音、静けさ以上の安らぎは無い。
人は、そこで、自己調整する事が出来るからだ。自律神経や海馬(脳の一部)が全てやってくれる。
全ての邪念、疑心が落ちていく。
それだけではない。
マインドを落とす能力がつけば、マインドを逆に,効果的に使う事も可能となる。
「心は,無心から生ず。」、という。
柳生新陰流の極意と言われている。
「信頼」とは,共感的な調和。共有意識。それは無意識の中に隠れている。
仏性、それは誰でも持っている,究極のインテリジェンス。
真実はそこから起こって来る。
イン・チューン、同調を感じる事が出来る。
アット・ホーム。我が家のくつろぎ。
それは、信仰ではない。
それは「信頼」なのだ。