闇には,源というものが無い。
始まりも、終わりも無い。
それは常に何処かに在る。
本来存在するもの,それが闇。
だから,在る意味で,源なのかもしれない。
闇は奥深くて暗い。
「玄」と言う。
それは、タオイズム(道教)に於いては、天を意味する。
「天地玄黄」、一方、地の色は黄色であった。
老子に依れば、それは「玄之又玄、衆妙之門。」(天地万物の深遠な道理)。
「闇無くして、この世は無い」、とさえ言われる。
「楽天知命」、天を楽しみ、命を知る。
日本の「神楽」も源を辿れば、その辺りから来ているという。
普通の人の観念からすると、闇は恐ろしい。
何故かというと、光りが生として、見えるからだ。
その論理から、闇は死の様に映る。
生は、光りを通してやって来る。
そこで,闇は何時も悪役にされてしまう。
闇にとって見れば,迷惑千万だが,闇は一言も文句を言わない。
闇の言葉は、沈黙だからだ。
形が無いので、闇は対象とは成りにくい。
ものではないが、現代の都市では、闇は貴重品なのだ。
真の闇を見つけるのは、至難の事だ。
自然ではない光りによって、私達の生活も,不自然になってしまった。
文明とは、空間と闇の占拠とさえ言える。
「闇でさえ、汚染されている。」
この事にまで気づいている人は,「まれ」である。
ユーロップ(ヨーロッパ)という言葉には,「陽の没する国」という意味が在るそうだ。
一方,エイシア(アジア)には、「陽の昇る国」という意味が在る。
アメリカ大陸が発見される,遥か以前の言葉である。
きっと,そんな観念があったのだろう。
だが、何処に於いても、言葉に捕らわれなければ、「陽は昇り、そして、陽は沈む。」
真の闇を見たのは、人工的な光りの無い、ヒマラヤであった。
真の闇、それは、雨の夜に限っていえる事だ。
雨の夜には、空は雲に覆われ、あらゆる光りを遮断する。
さもなければ、夜のヒマラヤは高地故、空気も澄んでおり、月明かり、星明かりで、明るいのだ。
新聞すら読めるのだ。
ろうそくを、フッと吹き消すと、そこに闇が現れた。
感動的な程、暗い。真っ暗だ。漆黒だけがある。
瞼を開け閉めしても,何も変わらない。
思考はとまる。対象が無いからだ。
そのとき,初めて、目覚めた思いがした。
闇には、闇の美しさがある。
そこは、新世界にして、深世界。
果てというものが無い。
外側に光りが無いとき、自分の「内側の光り」に初めて気付くのだ。
さもないと、見過ごしてしまう。
見かけを追えば、心は惑わされる。根源に帰れば意味を見いだす。
それは、終わりではなく、始まりにある。
その内なる光りには、光源が無い。
それこそが,自己の源であるように思った。
それには,名前が無い。
そしてそれは、常にそこにあった。
それは、意識(コンシャス)という。
そして、今、ここにも在る。
闇の中では、鼻の頭も、自分の手も見えなくなる。
白も,黒も,赤も、黄色も無い。
光りが無ければ、色は無い。
色は、光りの子供達だ。
自分の身体に触って初めて、自分の身体という形が判る。
意識もかわる。
別人に成った気がして来る。でも、これが、私というものの,本人だ。
視力に頼れない分、他の感覚がシャープになってくる。
意識が際立って来る。
そこで、人は視力の力を回復するのみならず、知覚力も感性力も際立って来る。
それは,新たな喜びとなる。
その為に、今では、光りの中で、闇を呼び出す事も可能となるのだ。
そのうち、自分の無意識の深みから、様々なものが現れてくる事に気付く。
恐らく,人の恐怖、観念、憎しみ、満たされぬ感情と言ったものも、現れて来るのかもしれない。
人の無意識の中には,この世のありとあらゆる地獄が詰まっている。
人の理性が、具合の悪い事、都合の悪い事を飲み込んで,潜在意識の奥底の、暗い部分に、押さえ込んでしまうからだ。
そのままだと,いつかは、表面化してきたり、爆発したりする。
全てとは言わないが、今、世界中で起こっている事のおおくは、その現れと見ていい。
内部に秘められた,自分の狂気と対峙する。
カタルシスである。
全部出してしまえば良い。
それは、最も効果的な,有意義な瞑想と成った。
闇が,純粋に戻った。
闇による「禊ぎ」である。
そして、無垢と成る。瞑想の意味も、ここにある。
ここに至って、初めて光りが意味を持つ。
寛ぎという、我が家に帰り着く。
闇は死ではない。生きている。
そして、それは、善でも、悪でもない。
「光りと闇」という、「不可分の一体性」、「不二」なるもの、の一面にすぎない。
植物が成長するには、種が土の中にあるのには,理由がある。
成長するには,「闇」は欠かせないからだ。
闇は,成長に関わりがある。
闇無くして、成長なし。
闇とは、自然の道理だからだ。
チベット仏教には、「マハカーラ」という、闇を表す神様がいる。
「偉大なる闇」という意味だ。
日本の大黒様は,そこから来ているそうだ。
日本の大黒様のそばに鼠がいるのは、福徳神ガネーシュの影響が在るからだ。
闇だからって、別に、死神じゃない。
むしろ,逆の意味が在る。
闇から、死霊を追い出すのが仕事だそうだ。
闇を纏った(まとった)光り、魔除けの神様だ。
シヴァの化身とされている。
仏教では、ヴィシュヌ神の化身が多いのだが、自在天(シヴァ神)と「マハカーラ」はシヴァ
が源となっていて、しかも重要な要となっている。
植物は、ある一定の期間,闇の中で成長して,初めて光りの中に現れる事が出来るのだ。
それは、人間にも当てはまる。
始めっから,光りの中に放り出したら,成長も,ヘチマも無い。
「闇」を避けたら、成長も,成果も,何も無い。
ただ腐ってしまう。
多くの,未来志向の人は、闇が好きな筈だ。
未来は、闇から始まる。
闇だけが、光りを浮き立たせるからだ。
「一条の光り」というのも、闇があってこそ、認識出来る。
「闇無くして、光りなし。」
闇は、今を生きる人には,安らぎとなる。
真の「癒し」とは、この闇に、一歩踏み込む事である。
現代文明の多くは、闇を敵とし,光りに埋め尽くされた空間をよしとする,偏ったものと成ってしまった。不眠症や,様々な病気、ストレス社会の元凶と成っている。
だが、闇には何の責任も無い。
偏った、マインドに責任がある。
いわゆる、悪徳の闇社会というのが存在するのは、その間違った考え方から生じて来る。
勿論、夜の闇ゆえに、見えにくいという事から、良からぬ事をするものも多い。
人の無意識につけ込んで起こっている事。
それは、闇が汚染されているという事の証。
実際,光りと闇とには,一切、葛藤は無い。
戦った事すら無い。
常に,調和している。
そこに、相互依存の関係がある。
葛藤するのは,二元論に捕われた、人のマインドだけである。
真の無垢、清らかさには、神も悪魔も無い。もしあれば、それは選択にすぎない。
分割されたものが、純粋、無垢ではあり得ない。
闇も,光りも、無垢であり、無実なのだ。
それぞれに、異なった力がある。
光りと闇の調和から,この世は出来ている。
どちらかだけで成り立っている訳ではない。
なかには、光りの全くない、深海や洞窟の暗闇で生きている生き物もたしかにいる。
だが、おおくの生き物は生きてはいないだろう。
闇と一つに成ってみる。
闇とは、自分の母親のようなものだ。
そう思えば,恐怖も半減するだろう。
特に,「夜明け前が、闇は最も深くなる。」という。
闇とは、ヒンドウー教の母神、カーリーだ。
タントラにおいては、「根本原理」と呼ばれる。
闇無くして,生は成り立たない。
闇は、一見ネガティヴだが、闇をポジティヴに見てみよう。
この事に気付くだけでも、大きな成長がある。
この事が,理解されないと、全ての努力は、砂上の楼閣となる。
世界中の多くの人が知っている事なのだが、今の時代、ヒンドウー世界では、カリ・ユガ、カーリーの時代、「闇の時代」と言われる。
だが、光りや太陽や月が無くなる訳ではない。
世も末、という事ではない。
神々やブッダ達が、闇に集まって来るという時代らしい。
目を閉じて、目の前の闇を「深く」感じてみる。
真の闇ではないが,代用には成る。
闇を凝視する。これは一寸難しい。
光りや炎は簡単に出来ても,闇にはつかみ所が無い。それは、丁度,空の様なもので、対象には成リにくいからだ。
だが、しばらくすると、闇に慣れ、闇と自分との間に,交流が起こるようになる。
もし、内側の闇を、自分の外側に持ち出す事が出来れば、自分の間違いや苦は消えるという。
闇のリアリティーと、交流する。
静かになり、涼しくなり、寛いで来る。
闇と一つに成る為には、何の恐怖も、間違った観念も無いときだけだ。
人が純粋で,無垢な時、闇と一つに成れる。
それには、無心が扉となる。
そんな時,闇は、実に神秘的な魅力に溢れている。
シヴァの教えに依れば、「全ての形あるものは、闇の中から生じて来る。」のだという。
これも,最古にして、最新の科学。時代はアクエリアス、今なら、誰でも知っている。
文明、文化、宗教、芸術、波動、物質、生、歴史、全ては闇の中で作り出されてきた。
それ故,「闇は、諸形態の中の形態、宇宙的な子宮」なのだ。
しかも、形が無い。
だが、人々は,闇を避けて,何とか、生きてきた。
しかし無理がある。
在る意味で、真実を見ないようにしてきた。
だが無意識の内に,闇は光りを際立たせる事を知っている。
映画等は、その代表的な,闇の芸術だ。
闇を避けるという事は、観念的に、自分たちの都合を優先させてきた。自然を優先させては、いなかった。
差別の意識もそこから生じて来る。
不自然から、様々な無理が、自然に生じて来る。
それは、大きな全体との繋がりが失われている事を意味している。
闇への、無意識的な恐怖、偏見があるからだ。
光りがある時、人の存在は限定される。
光りの中にいる事は,快適でもあり、気持ちもよい。
だが、特徴として、形があり,姿があり、境界線がある。
もし光りが無ければ、境界線は見えなくなる。
闇は,その人の全て,知っている事も,本人すら気づかない部分をも,包み込む。
本来からいうと、闇とは、何でも無い。
それは、単に、光りの不在にすぎない。
静けさに満ちている。
それには、人知の及ばぬ力がある。
実際,「闇」程、寛げるものも、この世には無い。
人が,夜、眠る事が出来るのも、闇の力のお陰。
そこには、無限の空虚がある。安らぎがある。人は、そこで、力を取り戻せる。
真の安らぎを見つけるには、闇ガ必要なのだ。
もっと,闇を楽しもう。
それ故、かつて、キリスト教にも、スーフィー(イスラム密教)にも、闇を神とする一派が存在していたという。 バランス効果はあると思う。
仏教にも、タントラにも、タオにしても、闇を敵とした事はない。
闇とは、自然な事だからだ。
老子、曰く、
「光りを好み、闇を好むものは、宇宙を体現している。」、と。
平衡状態の体験は、無限がポジティヴに感じられ、通常、「無」と呼ばれる。
実質的には、「無は全て」を意味する事になる
無が判らないと、何も判らない。
禅もタオも昔から一貫している。
無はゼロでもあり、又、全てでもある。
そしてそれは一つである。
数学とは、一寸、矛盾する。
中国古来の陰陽のシンボルを見ると、光りの力の萌芽が、闇の中枢に現れ、闇の力が、光りの中枢に現れて、動的な平衡状態を保っている。
あらゆる物事は、均衡と調和に向かっているように見える。
そろそろ、闇が白みかけてきた。
近くで、鶏の鳴き声がする。
薄紙をはがすように、闇が消えようとしている。
大分、明るくなってきた。
もうすぐ夜明けだ。