2006年10月29日日曜日

闇(源なきもの)


 闇には,源というものが無い。

始まりも、終わりも無い。

それは常に何処かに在る。

本来存在するもの,それが闇。

だから,在る意味で,源なのかもしれない。

 闇は奥深くて暗い。

「玄」と言う。

それは、タオイズム(道教)に於いては、天を意味する。

「天地玄黄」、一方、地の色は黄色であった。

 老子に依れば、それは「玄之又玄、衆妙之門。」(天地万物の深遠な道理)。

「闇無くして、この世は無い」、とさえ言われる。

「楽天知命」、天を楽しみ、命を知る。

日本の「神楽」も源を辿れば、その辺りから来ているという。

 普通の人の観念からすると、闇は恐ろしい。

何故かというと、光りが生として、見えるからだ。

その論理から、闇は死の様に映る。

生は、光りを通してやって来る。

そこで,闇は何時も悪役にされてしまう。

闇にとって見れば,迷惑千万だが,闇は一言も文句を言わない。

闇の言葉は、沈黙だからだ。

 形が無いので、闇は対象とは成りにくい。

ものではないが、現代の都市では、闇は貴重品なのだ。

真の闇を見つけるのは、至難の事だ。

自然ではない光りによって、私達の生活も,不自然になってしまった。

 文明とは、空間と闇の占拠とさえ言える。

「闇でさえ、汚染されている。」

この事にまで気づいている人は,「まれ」である。

 ユーロップ(ヨーロッパ)という言葉には,「陽の没する国」という意味が在るそうだ。

一方,エイシア(アジア)には、「陽の昇る国」という意味が在る。

アメリカ大陸が発見される,遥か以前の言葉である。

きっと,そんな観念があったのだろう。

だが、何処に於いても、言葉に捕らわれなければ、「陽は昇り、そして、陽は沈む。」

 真の闇を見たのは、人工的な光りの無い、ヒマラヤであった。

真の闇、それは、雨の夜に限っていえる事だ。

雨の夜には、空は雲に覆われ、あらゆる光りを遮断する。

さもなければ、夜のヒマラヤは高地故、空気も澄んでおり、月明かり、星明かりで、明るいのだ。

新聞すら読めるのだ。

 ろうそくを、フッと吹き消すと、そこに闇が現れた。

感動的な程、暗い。真っ暗だ。漆黒だけがある。

瞼を開け閉めしても,何も変わらない。

思考はとまる。対象が無いからだ。

そのとき,初めて、目覚めた思いがした。

 闇には、闇の美しさがある。

そこは、新世界にして、深世界。

果てというものが無い。

 外側に光りが無いとき、自分の「内側の光り」に初めて気付くのだ。

さもないと、見過ごしてしまう。

見かけを追えば、心は惑わされる。根源に帰れば意味を見いだす。

それは、終わりではなく、始まりにある。

 その内なる光りには、光源が無い。

それこそが,自己の源であるように思った。

それには,名前が無い。

そしてそれは、常にそこにあった。

それは、意識(コンシャス)という。

そして、今、ここにも在る。

 闇の中では、鼻の頭も、自分の手も見えなくなる。

白も,黒も,赤も、黄色も無い。

光りが無ければ、色は無い。

色は、光りの子供達だ。

自分の身体に触って初めて、自分の身体という形が判る。

意識もかわる。

別人に成った気がして来る。でも、これが、私というものの,本人だ。

視力に頼れない分、他の感覚がシャープになってくる。

意識が際立って来る。

そこで、人は視力の力を回復するのみならず、知覚力も感性力も際立って来る。

それは,新たな喜びとなる。

その為に、今では、光りの中で、闇を呼び出す事も可能となるのだ。

 そのうち、自分の無意識の深みから、様々なものが現れてくる事に気付く。

恐らく,人の恐怖、観念、憎しみ、満たされぬ感情と言ったものも、現れて来るのかもしれない。

人の無意識の中には,この世のありとあらゆる地獄が詰まっている。

人の理性が、具合の悪い事、都合の悪い事を飲み込んで,潜在意識の奥底の、暗い部分に、押さえ込んでしまうからだ。

そのままだと,いつかは、表面化してきたり、爆発したりする。

全てとは言わないが、今、世界中で起こっている事のおおくは、その現れと見ていい。

 内部に秘められた,自分の狂気と対峙する。

カタルシスである。

全部出してしまえば良い。

 それは、最も効果的な,有意義な瞑想と成った。

闇が,純粋に戻った。

闇による「禊ぎ」である。

そして、無垢と成る。瞑想の意味も、ここにある。

ここに至って、初めて光りが意味を持つ。

寛ぎという、我が家に帰り着く。

 闇は死ではない。生きている。

そして、それは、善でも、悪でもない。

「光りと闇」という、「不可分の一体性」、「不二」なるもの、の一面にすぎない。

 植物が成長するには、種が土の中にあるのには,理由がある。

成長するには,「闇」は欠かせないからだ。

闇は,成長に関わりがある。

闇無くして、成長なし。

闇とは、自然の道理だからだ。

 チベット仏教には、「マハカーラ」という、闇を表す神様がいる。

「偉大なる闇」という意味だ。

日本の大黒様は,そこから来ているそうだ。

日本の大黒様のそばに鼠がいるのは、福徳神ガネーシュの影響が在るからだ。

 闇だからって、別に、死神じゃない。

むしろ,逆の意味が在る。

闇から、死霊を追い出すのが仕事だそうだ。

闇を纏った(まとった)光り、魔除けの神様だ。

シヴァの化身とされている。

 仏教では、ヴィシュヌ神の化身が多いのだが、自在天(シヴァ神)と「マハカーラ」はシヴァ

が源となっていて、しかも重要な要となっている。

 植物は、ある一定の期間,闇の中で成長して,初めて光りの中に現れる事が出来るのだ。

それは、人間にも当てはまる。

始めっから,光りの中に放り出したら,成長も,ヘチマも無い。

 「闇」を避けたら、成長も,成果も,何も無い。

ただ腐ってしまう。

 多くの,未来志向の人は、闇が好きな筈だ。

未来は、闇から始まる。

闇だけが、光りを浮き立たせるからだ。

「一条の光り」というのも、闇があってこそ、認識出来る。

「闇無くして、光りなし。」

 闇は、今を生きる人には,安らぎとなる。

真の「癒し」とは、この闇に、一歩踏み込む事である。
現代文明の多くは、闇を敵とし,光りに埋め尽くされた空間をよしとする,偏ったものと成ってしまった。不眠症や,様々な病気、ストレス社会の元凶と成っている。

だが、闇には何の責任も無い。

偏った、マインドに責任がある。

 いわゆる、悪徳の闇社会というのが存在するのは、その間違った考え方から生じて来る。

勿論、夜の闇ゆえに、見えにくいという事から、良からぬ事をするものも多い。

人の無意識につけ込んで起こっている事。

それは、闇が汚染されているという事の証。

 実際,光りと闇とには,一切、葛藤は無い。

戦った事すら無い。

常に,調和している。

そこに、相互依存の関係がある。

葛藤するのは,二元論に捕われた、人のマインドだけである。

真の無垢、清らかさには、神も悪魔も無い。もしあれば、それは選択にすぎない。

分割されたものが、純粋、無垢ではあり得ない。

 闇も,光りも、無垢であり、無実なのだ。

それぞれに、異なった力がある。

光りと闇の調和から,この世は出来ている。

どちらかだけで成り立っている訳ではない。

なかには、光りの全くない、深海や洞窟の暗闇で生きている生き物もたしかにいる。

だが、おおくの生き物は生きてはいないだろう。

 闇と一つに成ってみる。

闇とは、自分の母親のようなものだ。

そう思えば,恐怖も半減するだろう。

特に,「夜明け前が、闇は最も深くなる。」という。

 闇とは、ヒンドウー教の母神、カーリーだ。

タントラにおいては、「根本原理」と呼ばれる。

闇無くして,生は成り立たない。

闇は、一見ネガティヴだが、闇をポジティヴに見てみよう。

この事に気付くだけでも、大きな成長がある。

この事が,理解されないと、全ての努力は、砂上の楼閣となる。

世界中の多くの人が知っている事なのだが、今の時代、ヒンドウー世界では、カリ・ユガ、カーリーの時代、「闇の時代」と言われる。

だが、光りや太陽や月が無くなる訳ではない。

世も末、という事ではない。

神々やブッダ達が、闇に集まって来るという時代らしい。

 目を閉じて、目の前の闇を「深く」感じてみる。

真の闇ではないが,代用には成る。

闇を凝視する。これは一寸難しい。

光りや炎は簡単に出来ても,闇にはつかみ所が無い。それは、丁度,空の様なもので、対象には成リにくいからだ。

だが、しばらくすると、闇に慣れ、闇と自分との間に,交流が起こるようになる。

 もし、内側の闇を、自分の外側に持ち出す事が出来れば、自分の間違いや苦は消えるという。

闇のリアリティーと、交流する。

静かになり、涼しくなり、寛いで来る。

闇と一つに成る為には、何の恐怖も、間違った観念も無いときだけだ。

人が純粋で,無垢な時、闇と一つに成れる。

それには、無心が扉となる。

そんな時,闇は、実に神秘的な魅力に溢れている。

 シヴァの教えに依れば、「全ての形あるものは、闇の中から生じて来る。」のだという。

これも,最古にして、最新の科学。時代はアクエリアス、今なら、誰でも知っている。

文明、文化、宗教、芸術、波動、物質、生、歴史、全ては闇の中で作り出されてきた。

それ故,「闇は、諸形態の中の形態、宇宙的な子宮」なのだ。

しかも、形が無い。

だが、人々は,闇を避けて,何とか、生きてきた。

しかし無理がある。

在る意味で、真実を見ないようにしてきた。

だが無意識の内に,闇は光りを際立たせる事を知っている。

映画等は、その代表的な,闇の芸術だ。

 闇を避けるという事は、観念的に、自分たちの都合を優先させてきた。自然を優先させては、いなかった。

差別の意識もそこから生じて来る。

 不自然から、様々な無理が、自然に生じて来る。

それは、大きな全体との繋がりが失われている事を意味している。

闇への、無意識的な恐怖、偏見があるからだ。

 光りがある時、人の存在は限定される。

光りの中にいる事は,快適でもあり、気持ちもよい。

だが、特徴として、形があり,姿があり、境界線がある。

もし光りが無ければ、境界線は見えなくなる。

闇は,その人の全て,知っている事も,本人すら気づかない部分をも,包み込む。

 本来からいうと、闇とは、何でも無い。

それは、単に、光りの不在にすぎない。

静けさに満ちている。

それには、人知の及ばぬ力がある。

実際,「闇」程、寛げるものも、この世には無い。

人が,夜、眠る事が出来るのも、闇の力のお陰。

そこには、無限の空虚がある。安らぎがある。人は、そこで、力を取り戻せる。

真の安らぎを見つけるには、闇ガ必要なのだ。

もっと,闇を楽しもう。

 それ故、かつて、キリスト教にも、スーフィー(イスラム密教)にも、闇を神とする一派が存在していたという。 バランス効果はあると思う。

仏教にも、タントラにも、タオにしても、闇を敵とした事はない。

闇とは、自然な事だからだ。

 老子、曰く、

「光りを好み、闇を好むものは、宇宙を体現している。」、と。

平衡状態の体験は、無限がポジティヴに感じられ、通常、「無」と呼ばれる。

実質的には、「無は全て」を意味する事になる

無が判らないと、何も判らない。

禅もタオも昔から一貫している。

無はゼロでもあり、又、全てでもある。

そしてそれは一つである。

数学とは、一寸、矛盾する。

 中国古来の陰陽のシンボルを見ると、光りの力の萌芽が、闇の中枢に現れ、闇の力が、光りの中枢に現れて、動的な平衡状態を保っている。

あらゆる物事は、均衡と調和に向かっているように見える。

 そろそろ、闇が白みかけてきた。

近くで、鶏の鳴き声がする。

薄紙をはがすように、闇が消えようとしている。

大分、明るくなってきた。

もうすぐ夜明けだ。