2006年10月3日火曜日

「何となく、第六感」(The sixth sense)。


第六感、それは起きていても。眠っていても、或はその中間にあっても起こる事がある。

それは五感(空,風、火、水、地)を超えた所からのメッセージ。

だから第六感。

人それぞれに違った通路からやって来るとも言われている。

だから、自分の特徴をよく知る事が、まず肝要。

 ある人には、ヴィジョンが、ポッピング(popping)して突然、飛び込んで来たり、聞き慣れない音や声を聞くともいわれる。

閃く、という事もある。

自分の意志や心を超えた別の次元から、発信されてくる。

子供の頃には、よくそんなことが起こって、「何だろう、これは?」 と思った事が何度かあった。

 声や音に成らなくとも、「何となく」、ある状況になろうとする事もある。

この「何となく」というのも、第六感の現れ方の一つであろう。

取り立てて、確たる理由なく行動したり、状況をどう判断するかという時、この「何となく」がよく現れる。

第六感の穏やかな現れ方だ。

 脊髄に異常を感じたり、肉体的に何らかの異常を感じたり、急に寒気がしたりといろいろである。

理解を超えた所からやって来る、信号。

 それは、急に起こる頭痛や、気分の悪さだったりもする。

急に体調を崩してしまう事もある。

それは、何かのブレーキ信号かもしれない。

良くくる事もあり,悪くくる事もある。

それが第六感。

第三の目も六番目のチャクラ。シックス センス。

 夢の中に現れる事もある。

水晶玉の表面に何かが見えたり、静まり返った水面に見えたりもする。

自然や町の中で、人為的、意図的ではなく、文字や絵が見えた時、どう解釈する?

始終という訳では無いかもしれないが、目の前に在る光景が背景になり、何か別の光景や閃きが訪れる事がある。

或は、自分なりの、直感的解釈で、特別に意味のある事かもしれない。

それは、他人には判らない。時には,自分でも判らない。

 

 明晰さは、このような、非日常的な信号を理解する上で助けになる。

明晰さは、頭の切れる事や知識が多い事ではない。明晰さは目の光り。

鏡のような心の境地を言う。

物事を理解する上での、人の最も重要な、しかし無形の理解である。

前にも述べたが,理解とは、耳の光りという。体験した知識が実に成る事だ。

 画家のシャガールは、ある時、天井に鮮やかなブルーの天使の姿を見たと言われる。

彼に、激励と自信を持たせるためにやってきたと言われる。

それは、彼の個人的な解釈かもしれない。

だが、お陰で、かれは、自分の仕事を続ける事が出来た、という訳である。

 ESP(extrasensory perception) は特別なものだが、特別な人にだけあるものではない。

気ずけば、誰しもが持っている能力。

普通の自然な人ならば、誰でも持っている。

ただ、あまり日常的ではないだけだ。

大抵の場合、忙しさや生活に追われて、つい見過ごしてしまう。

人のマインドは、無頓着、常に極端には魅了され手しまうからかもしれない。

もし、真実、真理と言われる状況にシンクロナイズした時には、実に当たり前の事なのかもしれない。

 この世は、一見すると、虚飾、エゴ、欲望、戦略、権力、都合で成り立っている様にも見える。

世界は夢のように見えることもある。

全て、そのような事は、人の心、無意識から生じて来る。

 そうなると、真理、真実はただあるにすぎない何かだ。

ほんの一瞬触れただけでも、かりそめの自分は融けていってしまう。

それは、正しさでも、誤りでも、善悪でも美醜でもない。

真実に、善悪はない。それは、あるがまま。

殆どの人は、見た事も、聞いた事も、触れた事も、薫りさえ嗅いだ事もないかも知れない。

ただの観念でしかないからかもしれない。

 出会ったとしても,無意識のうちに通り過ぎ,見過ごしてしまう。

面白くないのかも知れないし,一見、無味乾燥に見えるのかもしれない。

最近、一寸、様子が変わってきたが、実際、そんなものがある事も知らない人もいるみたい。

だから、逆に、その無神経さが、まさに神秘的。

 だが、無意識のうちに、人は知っている。

もし本当に知らなかったら、人は無感動になってしまう。生きる意欲を失ってしまう。

ややこしいけど、そこが、「何となく」、面白い。