2006年10月21日土曜日

タイ(泰)


 ピース、平和、シャンティー、サラーム、シャローム、タイ。

一体全体、それは何だろう?

単なる、言葉でしかないのだろうか?

だとしたら、その言葉には「サブスタンス(実質)がない。」、と言う事になる。

まるで、亡霊みたいなものだ。

それが、他の亡霊とともに、世界中を駆け巡っている。

 平和って、戦争と戦争との間にある、一寸した中休み?

それでは、「晩飯と朝飯の間に断食している。」という理論と変わらないではないか?

確かに、いつでも、何処かで、ドンパチやっている。

或は、睨み合ったり、緊張状態にあったり、脅しをかけたりもする。

 人も国家も、猫も杓子も、誰しもが、特別な人や国家でありたいと願う。

それは、ごく当然で、当たり前の事かもしれない。

だが、自分や自分の国以外の人や国も、そう考えている。

中には,自分たちの主義主張を押し付けるような国もある。

自由とは、主義でない事だ。

 妙な事に、物質的に富める国のほうが、貧しい国よりも、自殺や狂気の犯罪が多発する。

文明とは,物質には、進化があるかもしれないが、下手をすると、人にとっては別の意味での、退化にもなってしまう。文明のゆがみ。

 そこで、文明や、物質的な豊かさと言う物差しだけでは無く、文化や精神性もその豊かさも、問われなければならない。

アジアと欧米とでは、豊かさの基準が全く違う。南北にも違いがある。

気候の違いもある。

又、それなしでは,本来の物質的な豊かさも永続きしない。

物差しが一つだったら、どうしても、競争やいがみ合いは必然的に生じて来る。

子供でも判る事だ。

良くしたもので、物差しは沢山ある。

 外の事は、一寸ほっておいて、自分の方はどうなのだろう?

内なる静寂。インナー・ピース。

実質。

 自分の心が、鏡のように静まり返った水面のようであれば良い。

それが、普通である。

水っていうものは凄いと思う。

水は高い所から低い所に向かってながれ、窪みを見つけると、必ずそこに溜まって平らになる。

やがて、水は、川と成り、海に成り、海で他の水と一緒に平らになる。

ごく当たり前の普通、と言ってしまえばそれまでだが、いつも感心してしまう。

 もし、ストレスを感じたり、他人との間でもめたりした時、そんな時には、

このシンボルが、わりと有効である。

何処かで見たことがある?

物事を和らげて、平和にする力を意味しているという。

 人のマインドについて言えば、必ず、二元性がつきまとう。

それ故、もしマインドで人を愛したならば、もう一方の極は避けられない。

必然的に憎しみや嫉妬、が生じて来る。

出来る事は、隠す事だけ、或は、抑圧する事、体裁を繕う事に成ってしまう。

そこにストレスが、自然に生じてしまう。全てが混沌として来る。

子供でも判る、誰でも知っている道理である。

いつかは無理が表面化して来る。

それは、愛ではない。

 世間の人々はそうやっている。装って何とかごまかして生きている。

これは生きているとは言えない。半分は死体に成っている。

様々な,現代病はそこから起きて来る。

  結果として、偏っている以上、鈍感になり、死んだように生きている。

多くの道徳、論理、文明、文化は、愛を死んだものにしてしまった。

片足は切り落とされている。

いまさら「走れ!」といっても無理な事。

 本物の愛は、二元性を超えて初めて実感出来る。

何故なら、本物はなんであれ、リアルで自然なのだから。

 無心は、全力を出す事も、力を抜くと言う力も出来るのだ。

これは、ビューティフルだ。

聞いた話だが、二本の指で作る、ピース・サイン(Vサイン)や、親指、或は人差し指と小指をたてたサインの発想もここから来たという。

本当かもしれない。 

 頭で思っていても、どうにもなるものでもない。

口で言っても、あまり効果はない。

ジャズの名曲に、『スイングしなけりゃ、意味が無い』と言うのがあったが、生きなければ、意味が無い。

始終、目に入る所にあると、嫌でも潜在意識に浸透して来る。

私は、他のヤントラと同様に、部屋に、紙に描いたこのシンボルを貼っている。

知らないうちに、オーラも、少しずつ、変容してくるのだ。

尖らないので、安心感が増すのだろう。

少しずつだが、環境にも影響をあたえる。

今は、波動の時代。

実質的な、一種の、インナー・プログラミング。

 一寸、英語のアルファベットの、Uと言う文字に似ている。

発音すれば、ウだが、ウというトーンは、言霊的には、宇宙のウ、即ち、宇宙の自動律を表すという。

ウには力がある。

可能性を秘めた、展開力と言った所だろうか。

 色で言えば、緑。

無論、天然の緑色が良い。ペンキや絵の具には力が無い。

自律神経にも、当然よい影響を与えるという。

緊張がほぐれ、力も、元気もでる。バランスもいい。

充実感と寛ぎ、安心を一つにしたようなシンボルだ。

 シヴァ神の奥さん、パルバティーの本名は、ウマー。

ヴィシュヌ神のシンボル・マークにも、少し違うが、似たものがある。

ヴィシュヌ派の人がよく、額に描いている。U V とを合成したように見える。

一度,インドで描いてもらったことがある。

 化身の一人、クリシュナが、暴れる大地、山を片手で持ち上げ、その隙間に、避難して来る、善男善女を招き入れたという、神話もある。

こじつければ、いろいろな所で繋がっている。

 これは、中国に伝わる易(イーチン)の六十四のヴァリエーションの一つ。

「タイ」、もしくは「ターイ」と呼ぶそうだ。

そして、「泰」と書くそうだ。

六本のラインで構成され、下の三本の線は、天の力を表し、上の間の切れた三本線(計六本の線)は地を表すと言う。

つまり、天が地の下に入り込んでいる姿を形にしたものだそうだ。

 一寸、農業を思い出してしまう。

と、言うのは、道家思想(タオイズム)では、耕すということは、地を掘り起こして、地の下に天の力、プラーナ、スピリットを入れ、地に力を与える作業、地を生かす作業と聞いた事がある。先ほどの、クリシュナの話ともそっくりだ。

「耕す」って,そういう事なんだ。

力は上からではなく、下からの方が効果的という事らしい。

 聞いた話だが、中国本土では、実質的にタオイズムは200年以上前に終わってしまっているそうだ。

だが、華僑の人達、インド、欧米(今や、タオの研究者は多い。デリーやバンコックの本屋に英文のタオの本の多い事を見てもその事が良くわかる。)やアジアの人達、日本の人達は知っている筈だ。

タオイズム、老子の思想は、中国の文化とは直接関係のない,無為自然の道。

だから、どんな人にも,どんな土地にもあてはまる。

つまり,ユニヴァーサル(宇宙的、普遍的)なのだ。

そして、タオは、基本的にタントラとは、使う言語は違うけれど、非常に近い、ということもある。

 このシンボルは、平和とか、安定を表しているそうだ。

漢字の凹にも似ている。

緊張を解く魔法のサインだ。

といってもアホになったり、おかしくなったりする訳じゃない。

人を自然に戻すのだ。

何回も見ているうちに、静寂のセンス(感覚)をより感じるようになって来る。

あらゆる物事の基盤になる。

静と動とが調和している。

 動の中にも、静があるという。

例えて言えば、車輪と車軸の関係。

車軸がしっかり、安定していれば、車輪は役目を果たす。

人間の場合,その車軸に当たるのが,脊髄なのだ。

世界中の人々が,禅、タントラ、ヨーガに注目しているのは、その脊髄を中心にした魔法と、潜在的な能力を体験したいからだ。

魔法って言ったって,手品じゃない。

そこに、インナー・サイエンスの「妙」がある。

 センスとは、一言で言えば、記憶。それと、遊び心。

最初のうち,ただ覚える,

最初はしょうがない。

だんだんとそのうちに,「いかに、」という事、タオが判って来ると、

それは、「経験」という、新たなジャンルの「知識」に成って来る。

実になる、という事。

少し、道が見えて来る。

 存在と一つに成っている人には、見えている。

真に存在する瞬間、人は自我(エゴ)を落としてしまう。

落ちてしまう。

エゴは、不要な、自己の代用品なのだ。

時に応じて状況に応じて、使えば良いのだ。

 感性、認識力、知性、創造性は、記憶の組み合わせの「妙」につきる。

これは、芸術、アートといってもいい。

夢にしたって、潜在意識は,記憶の断片を組み合わせて,おもしろおかしく見せてくれる。

 新しい体験が、人の感性を含めたセンスを高める事,広げる事が出来るのだと思う。

遊び心というのは、創造性の源であり、エッセンスなのだ。