2006年9月29日金曜日

ダースヴェーダーとヴァースデーヴァ

 ダースヴェーダーと言えば、誰でもよくご存知の映画「スター・ウオーズ」に出て来る悪役である。だが、ヴァースデーヴァって何だろう? 一寸,トーンが似ている。意外とご存じないのでは?

 ヴァースデーヴァは超有名で偉大な存在。この名前を知らなければ、アジア人の資格はない。だが人の名前ではない。ヴァースデーヴァは、ヒンドウー世界のヴィシュヌ神の事。
 例えば、ゴータマ・ブッダもヴィシュヌ神の化身だし、大日如来も、アミターブ(阿弥陀如来)も、ヴァイロチャーナも、クリシュナも、ラーマ(タイの国王も、ラーマ9世を名乗っている)もヴィシュヌ神の化身といわれる。
 また,ラクシュミ、シュリー、吉祥天はヴィシュヌ神の奥さんだ。タイでは、ラッシミと呼び、人気も高い。しかも、創造神ブラフマは、ヴィシュヌ神の臍(へそ)から生えてきた、蓮の花から、生まれたということになっている。創造神の生みの親でもある。

 又、アンコール・ワットはヴィシュヌ神の神殿である。宇宙を維持する神様で、シヴァ神と人気を二分している。

 当然、ダースヴェーダーは、ヴィシュヌ神、ヴァースデーヴァの名前を細工して使っていたと推測される。もちろん、ヴィシュヌ神にたいして、悪役等とんでもないから文字を入れ替えたというわけだ。恐らくは、映画製作に関わっているアメリカ人にとって、そのトーン、サウンドがエキゾチックだったのではないだろうか?

 ヴィシュヌ神は、様々な神話を持ち、そして色々な持ち物を持っている。蓮の花、シャンカと呼ばれる巻貝、それと。分銅の様なものを持っている。もう一つ、円盤の持ち主でもある。一般的には、人の体のチャクラ(法輪)と呼ばれている。一説によると、この円盤を武器として、悪、敵に投げつけるという。

 又、ユング(スイスの心理学者)によれば、円盤、円は、全体性、ホールネス、一如になりたいという人間の潜在的な欲望の象徴、といわれる。禅においては悟り、光明の象徴となっている。

 ついでと言ってはなんだが、お金の円。日本の円。通貨は社会の血液。特定の所や人に集まってしまうのではなく、社会を巡って循環するようにとの願いが込められて、円が通貨の単位になったのではないだろうか? あくまで、勝手な想像だが、もしそうなら、円の発想は素晴らしい。
 人差し指で、円盤のセンターを通して円盤を回している。指でフラフープをやっている訳でもないのだろうが、
CDDVDを回しているようにも見える一寸,チベット人のマニ車を思い出してしまう。どういう使い方をするのかは定かではないが、宇宙を維持するという目的のために使うらしい。センタリングのようにも見える。
 オリンピック競技の円盤投げは、ギリシャが発祥の地だが、ヴィシュヌ神の影響ではないかという人もいる。というのは、インドの、確かオリッサ州にあるヴィシュヌ神の古い遺跡
(ラトナ・ギリ、意味はストーン・マウンテン)の中から、それもギリシャ時代よりもかなり古い時代の地層から、ギリシャ風の柱が出土したからだ。そして、ヴィシュヌ神は様々な形の円盤を持っている。掘れば掘る程、歴史が変わる。ギリシャ文明は、ヴィシュヌ神が起こした、という説も全く根拠の無い空論という訳でもない。

 ヴィシュヌ神の別名に「ナラヤーナ」という名があるが、これは、「原初の水に住むもの」という意味である。ナラヤーナにはアナンタ(無限)という名のナーガ、蛇がそばにいて,補佐している。つまり,ムー大陸の時代から引き継がれている事に成る。となると、ヴィシュヌの時代の始まりは何万年もの昔に成って来るかもしれない。
 他にも,チグリス・ユーフラテス川に伝わる伝説にも、ヴィシュヌ神らしい伝説、半魚人の伝説が残っているそうだ。広い範囲に現れていたのかもしれない,
UFO(ヴィマーナ)にでも乗って…

 話は、一寸飛ぶのだが、メキシコにも紀元前の地層から、ヒンドウーの福徳神ガネーシュの石像が見つかったという話も聞く。神話や歴史をひっくり返し始めると、とりとめがないが、今回はヴィシュヌ神にまつわる神話の一つを紹介したいと思う。

 昔々、ワンス・アポンナ・神話の時代。主だった神々が、メール山(スメール山)に集まって、どうしたら、不死の飲み物、アムリタ(甘露)を手に入れられるかを相談していた。今で言えば、おいしそうな話。
 ナラヤーナ(原初の水に住むもの、ヴィシュヌ神)が、梵天(ブラフマ)に言う。

「神々とアシュラ(阿修羅、魔物)の群れとの両者で、大海を拡販すれば、アムリタ(甘露)は出現するであろう。神々達よ、大海を撹拌せよ、さすれば、一切の薬草、一切の宝石を得た後、アムリタ(甘露)を得る事が出来よう」

 梵天は、アナンタ(無限)という蛇に命じて、マンダラ山を引き抜かせ、それを海まで運び、亀の王アクーバーラを支点にして、そこにマンダラ山をのせ、大蛇ヴァースキ竜王をそれに巻き付け、神々とアシュラの両方でその両端を引っ張って、マンダラ山をぐるぐる回し始めた。竜王は苦痛のため、口から煙と炎の入り交じった風を吹き出し、神々たちは、疲労困憊したが、山頂から、花が降り注いだので、再び頑張って大海を撹拌した。その間、多くの海中の生物が死に絶え、大木が擦れ合って山から落ちていった。又、樹々の摩擦によって、次々と山火事が発生し、火焔が多くの獣達を焼き殺した。
 そこでインドラ(帝釈天)が、雨を降らせ、その火を消した。すると、樹々の樹液や、薬草のエキスが大量に海に流れ込むことになった。甘露にも似た、この乳状の汁と、融けた黄金の作用で、神々達は不死になった。かくして、大海は乳に変じたという。

 神々が、梵天に言う。

「とても疲れたが、甘露はいまだに現れない。ヴィシュヌ神の助けが必要である。」

 本格的な甘露はまだだったのだ。ヴィシュヌ神、曰く、

「この仕事に関わっている、全てのものに力を授けよう。海を撹拌し続けよ、マンダラ山を回せ」

一寸、綿飴でも作っているみたいだ。

 神々は、再び、撹拌を始めた。すると、大海から、太陽と月が現れた。そして、シュリー(ラクシュミ、吉祥天、ヴィシュヌ神の妃)が白衣を纏ってあらわれた。それから、酒の神(スラー・デーヴィー)、白馬、宝珠(カストウバ)が次々に現れ、最後に、白い壷に入ったアムリタ(甘露、万能薬、現代で言う所の,エンドルフィン)を持ったダヌヴァンタリ神(神々の医師、アーユル・ヴェーダの神)が現れた。
 この様子を見ていたアシュラ(悪魔)達は、甘露を独り占めしようと考えた。しかし、ヴィシュヌ神は、魔法を使って、美女の姿と生って、悪魔達から、奪い返した。怒った悪魔達は、神々達に襲いかかった。一方、その間にも、神に化けたアシュラの一人、ラーフが、神々が飲んだ甘露の残りを飲んでしまった。

 しかし、甘露が喉に達した時、太陽と月とが、気ずき、神々に告げたのである。この時点では、太陽も月も、神とは成っていなかった。やがて、スリア(太陽神)、チャンドラ(月の神)となるのである。
 そこで、ヴィシュヌ神は、円盤でラーフの首を切り落とした。それ以来、頭だけ不死となったラーフは、太陽と月を恨み、今日に至るまで日食と月食を起こすのだという。
 神々とアシュラとの戦いはその後も続いたが、マンダラ山をもとの位置に戻し、甘露を安全な貯蔵庫に隠し、インドラ(帝釈天)にその守護を任せたのだといわれる。

 これは「乳海撹拌」いう創造神話だが、注目すべき神話がこの中にかくされている。

 それは、神々がヴァースキ竜王をマンダラ山に巻き付け、撹拌を始めた時、蛇が石を噛み、そこから毒が流れ始めた。そして、その毒は全世界をも滅ぼしかねない状況にあったが、シヴァ神が、世界を救うため、その毒を飲み干したという。シヴァがニーラカンタ(青い喉)とも呼ばれるのは、その事があったからなのだ。

 もう一つは、撹拌の際、ヴィシュヌ神が亀となって、水中に入りその背で山を支えたという事。亀がヴィシュヌ神の化身の一つとなった。
 また、ある文献によると、造物主が亀(クールマ)となって、一切の生類を創造したと書かれているから、大海を自由に泳ぐ亀、を創造者(ブラフマ)と同一視する基盤は、インドには沢山あったのだ。亀は万年生きる、という話のルーツはインドにあったらしい。桃太郎の話は、ラーマ・ヤーナの焼き直しみたいだし、浦島太郎の亀はどうだろうか?

 他にも、ヴィシュヌには、様々な伝説、説話、神話が沢山ある。神々と阿修羅の綱を引き合って、マンダラ山、つまり、人の体の基軸、それに沿ったエネルギー、クンダリ−ニについて比喩的に描かれている。大いなる自己の目覚めを表している。自己創造、自己実現(スワヤンブー)を促している。それがアムリタ(甘露)である。ここの所が,この話の肝心な所であろう。欲望と理性の綱引きとして、それを調和させる事で、永遠と呼ばれるエネルギーを発見するという話でもある。業と輪廻転生を説いている。

 輪廻転生、或は来世という考え方は、インドで起こった宗教にのみ現れる。他の宗教には,輪廻思想というものは無い。キリスト教にもイスラム教にも、ユダヤ教にも、神道にもない。だから、輪廻転生の概念の無い人々には、馬鹿げているようでも、インド世界に暮らすものにとっては、実にリアルな話なのだ。
 ヴィシュヌ神のマントラを唱えると、スピリットが集まってくるという。サウンドが良く心地よいので、昔から気に入っている。     

    オーン ナマー バガバティー ヴァースデヴァーヤー。