第三の目が開くとどういう事になるか。新たな世界、微妙な,今まで見えなかった世界が感じられるようになる。かつてない薫りを嗅ぐ事が出来る。香酔山に昇ったようだ。そして、オーラも見えて来る。光源なき光を知る(前記事「サンディア(光源なき光)」を参照)。
「シャンブー」とは、シヴァの第三の目。禅においては、「正法眼蔵」という。
第三の目を覚醒させた人は、相手のオーラの波動周波数にチューニングできるので、相手の事を理解できるし、理解される事も自然におこなえる。考える必要がないのだ。見れば判るのだ。
理論や論理で武装している人、知識で武装している人、彼らは無視力なので何かにしがみついていないとどうにもならない。楽しむ事ができない。別に、知識や理論が悪いと言ってはいない。中にはおもしろいものもある。だが、同化は視力を奪ってしまう。それらは、あくまで道具なのだ。
そして、第三の目の覚醒を通じ、自律神経が整って来る。この事は大きい。第三の目は、人の神経組織の要と生っている。一般的には、循環器、消化器、生殖器、呼吸器には気を配るが、神経組織は、往々にして軽んじられたり、無視されたりする。だが、世の中が少々おかしいのは、精神、神経に異常が起こっている証。
第三の目は、医学的には説明出来ない。肉体にオーヴァーラップしている霊体、スピリット・ボディーに属しているからだ。それゆえ、スピリット・ボディーの事を、リンガ・シャリーラとも言う。第三の目が機能して、初めて異次元の扉が開く。それは、元々、そこにあったのだ。ただ、人は眠りこけていただけなのだ。
それは新たな、しかし微妙な世界だ。今まで気ずかなかった面が見えて来る。 「見る」という事は、エネルギーが外に向かって働くことだ。通常、目はそのように機能している。その事にはなにも問題はないし、それが普通だ。だが、第三の目を開くには、エネルギーの向きを変えねばならない。ターン・オンと言う。エネルギーそのものは同じでも、外向きか内向きかで大きくちがってくる。
シヴァやブッダの様な人のそばに行くと、ある引力を感じる。彼は意識して努力している訳でもない。
他人を支配しようとしているわけではないから、エネルギーが純粋、無垢なのだ。
それ故、引力が生じて来る。本来の意味で、普通、自然なのだ。
また、純粋意識そのものを、シヴァという事もある。この世には、そのような人は多くはないが、いない訳ではない。エネルギーの向きを外にでも,内にでも自由に変えられる事。そこが大事。だが、四六時中、第三の目を使う必要もない。リラクセーションとして使えば良いと思う。
第三の目をひらくには、自分という山を越えなければならない。そうなって初めて、道は開けて来る。そして、物事はそれ自身の道を辿りはじめる。
今日は,見る技法(タントラ)。技法を行い、待つ事。ときが熟するまで待つ事が重要だ。きっかけだけでも掴めれば、上々。ゆっくり時間をかけて熟成させれば良い。楽しめれば、さらに上々。慌てる事はない。時間はたっぷりある。
何かを見る。ただ、見方の質を変えてみる。壷でも、自動車でも、空き瓶でもいい。植木鉢でもいい。普通、私たちがものを見る時、特徴がどうしても先に目に入って来る。ブランド、材質、新品か、中古か、たいていの場合、習慣的に特徴のある部分を主に見てしまう。最初のとっかかりはそれで良い。
それから、そのものを、全体として見るようにする。今度は、ブランドとか、材質、新しいか、ぼろか、いわれとか由緒とかは、無視する。ただ、形だけを見る。そして、形の善し悪しも見ない。ただ、純粋に形そのもを見る。黒檀か、黄金か、陶磁器か、比較とか、価格とかは無視する。素材は物質的だが、形は精神的な、非物質的なもの。目を動かさないで見る。
一点に集中し始め、部分に分割されなくなると、形はあくまで形でしかない訳だから、そして、思考は止まっている筈だから、エネルギーは、否応無しに内側へ向かうきっかけとなる。焦点が、対象から自分に変わっている。
ここで、一つ明らかになることがある。「見る」という事は、三つの要素で成り立っている事に気ずくと思う。先ず、対象が必要。そして、見るもの、つまり自分がいなければ、見るという事は成り立たない。そして第三に、見るものと対象との間に生ずる関係性。ここの所が鍵になる。対象物はそこにあったとしても、目には映らなくなる。新たな自分に目覚める。これほど、素晴らしいことはない。
善悪、美醜、好き嫌いは人の判断。真理、道理に於いては、善も悪もない。往々にして、正しくあろうとする努力を捨てた時、無心に寛いでいる時、行き詰まりから解脱する。そこから成長が始まる。