2006年8月18日金曜日

Now  アンド Zen


 禅問答を一つ。

 弟子が師に問う。
「暑さ、寒さを避けるにはどうしたらいいでしょうか?」

 師が答える。
「暑さ、寒さも無いところにいったらどうだ?」
 
 「それは何処にあるんでしょうか?」

 「暑くなれ、寒くなれ!」

 禅においては、論理的な答えは無い。
一寸、分かりやすく説明しよう。

 人間の感覚は、常に、頭や身体についての、無数の情報をもたらしている。
それは、良くも悪くも、だれしもが知っている。
これは、知性にとっては、重要だが、こうした、絶え間の無い感覚から、「超然」としている事ができるのは、別の意識にある時に限られる。
そこには、大きな力が現れる。

 五感を司る感覚器官から、こころを解き放つ事を、「プラチャハラ」と言う。
サンスクリット語で、「集中する」と言う意味である。それは、考える、という事ではない。
それは、心の外へと向かおうとする、エネルギーの向きを内側に向ける事、「ターン・オン」する事である。
その事を、触媒として、分散したエネルギーを一転に集めて整える事。
タントラでは、普通、「センタリング」と言う。

 感覚を一時的に遮断する事は、誰でも知っている。
町の雑緒音、時計のチックタックいう音が、あっても、全く気にならないことがある。
例えば、何かに熱中している時、耳は、たしかにその音を聞いてはいても、心が気にとめない事がある。 パチンコ等はいい例だ。 よく、あんな所で、何十分も、何時間もいられるものだと、感心してしまう。
一方、あらゆる物事や音に、気をとられて、集中できなかったり、眠れなかったりもする。
散漫と言う。
人は、丁度、亀が手足を出し入れできるごとく、感覚を出したり、引っ込めたりする事も出来る。

 瞑想のコツが判ってくると、五感を司る感覚器官から、心を解き放つことができるのだ。
それは、充分に本来の自己を満喫できる、もう一つの現実。
感覚への執着が。一時的に消す能力は、とても偉大で重要だ。
余計なイライラや、不満、不要な欲望等が消えていく。
五感が元に戻った時、五感はより」新鮮になっている。

 センタリングがうまくいくと、外側の現実のみが、全てであるといった、思い込みや仮説が、全部、ひっくり返る。
そして、その未知の次元にも徐々にフィット出来るようになってくる。

 センタリングの技法(タントラ)を一つ。
シヴァが奥方(パルバティ)の質問に答える。
シヴァ曰く、
「孔雀の尾の五色の円を。自分の五感として、無限の空間に想像する。
それから、その美を内側で溶かす。
同様に、空間や壁面に於いても、その点がとけ去るまで・・・・・。その時、別なるモノへのあなたの願いは、実現される。」

 仮に、自分の外側に、点なり、五色なり、対象を想像する。
瞬きせずに、その対象に集中し、あらゆるもの、あるいは全世界を忘れて、ただ対象だけが、点だけがが意識に残った時、その時、すでに内的中心の近くにいる。

 一点に集中している時は、マインドは働かなくなる。目が動かなければ、マインドは動けなくなる。
マインドの働きには、動きや散漫が必要なのだ。
マインドが消えれば、思考も落ちる。
そして、人は、意識に初めて触れる事ができる。  
 
 全世界が五色となって、自分の中で出会う点がある。
それは、腹の辺りにある。
その出会っている事を見る(対象はもう消えている)。

 ダルマ大師は、この技法を使ったといわれている。
Being( 在る、ということの意味)がわかってくる。


 「暑さも寒さも無いところ、それは何処にあるんですか?」
彼は、どこか外側の場所の事を聞いている。
師の方は、内なる空間、の事を言おうとしている。
「暑くなれ、寒くなれ!」

 これは、暑かろうが、寒かろうが、あらゆる状況に全一でありなさい、と言っている。
お前さんのちっぽけなエゴがとけ去った時、リアルな空間が現れてくる、と、言っている。

 夏炉冬扇の如し、心頭滅却火もまた涼し。
このあたりから、生の本質「エッセンス)が生じ、そこから「粋」、と言う言葉が、生じてきたのかも知れない。
はて、現代の「粋」と何なんだろう?