2006年8月10日木曜日

モーニング・マジック

 朝だ、
日が昇ろうとしている。
黄金の光、清らかな水の流れ。
木々や鳥たち、花々が目を覚ます。
風そのものは、見ることは出来ないが、感じることは出来る。
朝が目を覚ます。

 静けさとは、単に音が無いというわけではない。
音は自然に生じてくる。
静止でもない。
現代物理学に因れば、静止と言う言葉は、全くのナンセンス。
言語上の空論と言う。
存在しているもので、静止しているものは何も無い。
石でさえ、踊っている、と言う。

 大地全体が、或いは、自分のいる部屋が、明るい光に包まれるようになる事がある。普段よく知っているはずの物が、新しい何かに見えることがある。
新しい意味を見出すことがある。

 五感は冴え、心は何のわだかまりもなく、澄み渡っている時、理性では、到達できないスペースに心を広げていることに気ずく。
人は自然を呼吸し、自然の食物を食し、生という次元にいる。
それでも、自然の濃い所に来ると、「ホッ」とする。
生き返ったような気がしてくる。
それまでの、生はなんだったんだろう?

 自ずと、自然への感謝の気持ちが湧いてくる。
朝、香を焚き、昇る朝日に、花をささげる。
これは、感謝と喜びの表現であり、祝祭(セレブレーション)なのだ。
自然とは、難しいものではない。
もともと人は自然なんだから。

 自然を呼吸すると言うことは、単に、空気を呼吸しているだけではない。
タントラに因れば、空気は媒体に過ぎない。
私達は、プラーナを呼吸している。
プラーナとは、生命躍動気、スピリット、エラン・ヴィタール、オルゴン・エネルギーと訳される。気と言ってもいいかもしれない。
ラテン語では、呼吸のことをスピリトスと言うらしい。

 人が自然であるとき、無であるとき、空であるとき、全てが降り注ぐ。
それは甘露だ。

 モーニング・マジック。
世界がひとつの波動に包まれる。

 カングラ派の細密画(ミニアチュール)を見て気ずく事がある。
何だろう?
カングラ派の作品には、影が無い。
では、影は何処に行ってしまったんだろう?

 
 今、朝だ。
夜はどこかへ行ってしまった。
探しても見つからない。

 絵に影が無いのは、カングラ派の特徴である。
どうとるかは、見る人しだい。
もしかすると、その影は、見る人の心の中に、生ずるのかもしれない。

 絵が織り成す、甘美なメロディーとともに・・・・・・。