2006年7月23日日曜日

ディープ


 時々、当てもなく歩き回ってみることがある。
誰しも、よく近所を散歩したり、一寸したデイトリップに出かけたりすることがあるだろう。
特別な意味や目的はなくとも、あとで、何か満足感があったり、収穫があったりする。
それは、楽しみであり、レクリエーションなのだ。

 平和というのは、時間の無駄じゃない。
生きているときは、生き生きと生きていたい。
人生は責務というよりも、機会だと思う。

 約束も、用事も何もないとき、出来るだけ、いつも通ったことのない、道を見つけてはあるいてみる。
表通りから、裏通りへ、そこからまた横丁へ、そして、そのまた奥の細道へと、ディープに入り込んでいく。
なんか芭蕉みたいだね。

 ガイドブックはいらない。
先入観がないほうが、新鮮に楽しめる。
見ること、聞くこと、フィーリング、香り、出会う人々・・・・・。
ポケットには、お気に入りのストーン(石)をひとつ。

 リラックスして五感をチューニング(調整)しながら、ブラッと歩き回る。
翼なんかなくとも、宇宙を自由自在に飛び回る。
人が生に喜びを見出すときとは、いつもの自分から解放されたとき、無心で内的に静まり返っている時なのだ。

 生きる醍醐味とか、味わいってものは、理屈や理論ではない。
どうにもならない、いわば中間色のような、微妙さにあるように思う。
ところが、肝心のおいしい部分を無視して、表っつらのよい、ピカピカのかすのようなものばっかりにしがみ付いていはいないだろうか?

 それはそれでいいけれど、肝心のものも大事にしようよ。
さもないと、生きている甲斐も、文化も無くなっていってしまう。
そのときになって、きずいても遅い。
もっとも、人間という生き物は、色々なこと知っていても、意外と自分のことは,わからないものなんだ。
この世の最大の謎は、きっと自分なんだよね。
文明が発達して、便利になったのは、いい。とてもいい。
でも、一方で、知覚も。感覚もどんどん鈍化していってるんじゃないのかなあ?

 注意して、エネルギーの動きを眺めたり、ニュアンスにも注意しよう。
注意とは何かに注目することじゃない。
それは、一時的であったにせよ、思考や、習慣的な、マインドや、思い込みのない気付き(アウェアネス)の事なのだと思う。

 至福や喜びが生じるのは、宇宙とオーガニック(有機的)に繋がっている時に起こってくる、フィーリングであり、苦や不安が現れてくるのは、宇宙と敵対している時、必然的に起こってくる。
従って、ディープな気付き(仏性)は、あらゆる能力の源なのだ。
それこそ、気付けばわかる。
そして、人の体というものは、本当によく出来ている事にも気付く筈だ。

 人のマインドは、実に深刻だ。
深刻極まりない人も少なくない。
まるで、深刻さが、神ででもあるかのようだ。
遊びでさえ、難しくしてしまう。
そして、あらゆるものを捻じ曲げてしまう。
これは人間だけの病気だ。
この世で、不自然になれるのは、人間だけなのだ。
物事の深い意味が、わからないうちは、心はいたずらに乱される。
見かけだけを、追い続ければ、源からは、離れてしまう。

 人が何かに背を向けているとき、理解が生じることはない。
理解しさえすれば、あらゆるものが和む。
人と自然、そしてあらゆるものが、かかわりあっている。
まさに、「ミタクェオヤシン(ネイティヴ・アメリカン、ラコタの人々の祈りの言葉。)」
「全ては、繋がっている。」

 全てのものが繋がっているとしたら、本来、敵も味方もないではないか?
のんびりしたい時は、のんびりする、遊べるときはうんと遊び、働くときは、よく働き、笑えるときには、うんと笑おう。
気持ちよく、時を過ごそう。
それが、和の心だよね。

 洒落たカフェや面白そうな店、小粋なウィンドウがあったら覗いてみよう。
旨そうなものがあったら、つまんで見よう。
近くにいる、犬や猫に道案内を頼んでもいい。
もっとも、その犬や猫に気に入られないとだめだけどね。
彼らは、人間以上に人を見る目を持っているんだ。

 色々な情景や状況が次から次へと現れてくる。 
世界というものは、ものではないが、新しいことと冒険や好奇心に満ち溢れている。
新しい機会は、毎日のようにやってくる。
疲れたら、休めばいいではないか?

今日は、一休さんの歌にあやかって、自由に漂ってみよう。

行く末に、宿をそことも定めねば、踏み迷うべき道もなきかな。

 迷ったら、迷ったらでいいではないか。
今日は、オフの日。
レット・イット・ビー!

 ハブ ア ナイス デイ!