2006年4月8日土曜日

禅話休題(一本の線)

 「ムガール帝国」の皇帝に、「アクバル」と言うその名のとうり、偉大な皇帝がいた。
「ムガール」とは、「モンゴル」のインド訛りである。
アクバルはインドに於けるムガール帝国の絶頂期の皇帝だ。
非常に賢い、名君だったと聞く。

 ある時、宮廷で国中の賢人といわれる人々を集め、そして彼は、壁に「一本の線」を描いて見せた。
そして、「誰か、この線に触れずに、短くしてみる事ができるものは、おるか?」、と一同に問うた。
誰も、この問いに答えられるものはいなかった。

 すると、一人の道化師が前に進み出て、その皇帝が書いた線の側に、もう一本、より長い線を描いた。

 正解である。

 長い、短いとは、すべての物事は、相対的な物事だからだ。
この「相対性の概念」が、世の中を、いつの世でも駆け巡っている。
有る人は世に知られ、有る人は無名にある。
時には、役に立ち、時には、その事、故に、人を狂気に駆り立てる。
それには、長所も欠点もあり、陰陽がある。

 だが、本来、誰しもが、ユニークだ。

 もう一つ、禅の話。
ある時、一人の男が、禅師のところにやってきた。
そして、地面に四本の線を描いた。
一本は長く、三本は短かった。

 男は、問うた。
「一本の線は長く、他の三本は短い、と言うことの他に何か言えることはありますか?」

 禅師は、地面に、一本の線を引いて見せた。
そして言った。
「これは、長いとも、短いとも言えない。」

 長い、短いは、それを、何と比べるかによる。
もし、自分の内観に満足できたら、比較は消える。
自然体、そして、心理的、根本的に健康になれる。 
禅は、非常にありふれた、日常的な事でもある。

 禅はありふれた宗教ではない。
宗教の多くは、それがどんなものであっても、信仰の宗教である限り、必ず何らかの落とし穴がある。
 それは、どうしても政治的になってしまう。
科学にしても同じことが言えるかもしれない。

 禅はそういう意味では、並の宗教ではない。
だから、嘘や虚構に頼る必要もない。
何の偏見や思い込みもない。
どんな強制もない。

 禅は純粋な探求だ。
タントラやタオも含まれる。あらゆるものが含まれる。
それゆえ、世界中の若者たちの興味の対象になっている。
信仰ではないからだ。
それは、「大きいとも、小さいとも、長いとも、短いとも」、言えない。

 それは、すべての存在の、バックグラウンドとなる。

                    「春来たりて、草、おのずとあおし。」