「ムガール帝国」の皇帝に、「アクバル」と言うその名のとうり、偉大な皇帝がいた。
「ムガール」とは、「モンゴル」のインド訛りである。
アクバルはインドに於けるムガール帝国の絶頂期の皇帝だ。
非常に賢い、名君だったと聞く。
ある時、宮廷で国中の賢人といわれる人々を集め、そして彼は、壁に「一本の線」を描いて見せた。
そして、「誰か、この線に触れずに、短くしてみる事ができるものは、おるか?」、と一同に問うた。
誰も、この問いに答えられるものはいなかった。
すると、一人の道化師が前に進み出て、その皇帝が書いた線の側に、もう一本、より長い線を描いた。
正解である。
長い、短いとは、すべての物事は、相対的な物事だからだ。
この「相対性の概念」が、世の中を、いつの世でも駆け巡っている。
有る人は世に知られ、有る人は無名にある。
時には、役に立ち、時には、その事、故に、人を狂気に駆り立てる。
それには、長所も欠点もあり、陰陽がある。
だが、本来、誰しもが、ユニークだ。
もう一つ、禅の話。
ある時、一人の男が、禅師のところにやってきた。
そして、地面に四本の線を描いた。
一本は長く、三本は短かった。
男は、問うた。
「一本の線は長く、他の三本は短い、と言うことの他に何か言えることはありますか?」
禅師は、地面に、一本の線を引いて見せた。
そして言った。
「これは、長いとも、短いとも言えない。」
長い、短いは、それを、何と比べるかによる。
もし、自分の内観に満足できたら、比較は消える。
自然体、そして、心理的、根本的に健康になれる。
禅は、非常にありふれた、日常的な事でもある。
禅はありふれた宗教ではない。
宗教の多くは、それがどんなものであっても、信仰の宗教である限り、必ず何らかの落とし穴がある。
それは、どうしても政治的になってしまう。
科学にしても同じことが言えるかもしれない。
禅はそういう意味では、並の宗教ではない。
だから、嘘や虚構に頼る必要もない。
何の偏見や思い込みもない。
どんな強制もない。
禅は純粋な探求だ。
タントラやタオも含まれる。あらゆるものが含まれる。
それゆえ、世界中の若者たちの興味の対象になっている。
信仰ではないからだ。
それは、「大きいとも、小さいとも、長いとも、短いとも」、言えない。
それは、すべての存在の、バックグラウンドとなる。
「春来たりて、草、おのずとあおし。」
2006年4月8日土曜日
禅話休題(一本の線)
時刻: 10:22