2006年4月3日月曜日

分別と無分別。

 「分別と言う言葉がある。

 一般的には、思慮分別、良識、常識、慎重さを表す言葉である。
「分別」は本来仏教用語だそうだが、「分別」無くして生きるのは大変だ。不可能といってもいい。
物事の理(ことわり)、自他の区別を前提にして行われ、普通の、煩悩をもつひとの思考、世俗的常識を表すとされる。
常識的には、判断力や、知性、思慮を表す言葉となっている。

 対義的な言葉として、「無分別」と言う言葉がある。
「分別」と言う、常識的な視点から見ると、実に「けしからん、めちゃくちゃな事」、「無軌道な事」を想像してしまう。ところが、「無分別」の本来の意味は、大変、重要だ。
逆説的には、「無分別」なくして、「分別」はない。

 これは、「屁理屈」でも、冗談でも、いい加減な事を言っている訳でもない。
どういう事かと言うと、「無分別」とは、「思考が起こっていない状況(無心)」、そして、「思考が起こっていても、その思考に惑わされない状況」、両者ともに、「空」であるが、その両者を表す言葉が「無分別」である。
このことは、仏教、ヒンドウー、ジャイナの人々は知っている。
欧米が、今、学ぼうとしている事だ。

 「無分別」は「心の空性の境地」といった方が判りやすいかもしれない。
「心」が、リラックスしていれば、自然に生じてくる「現象」なのだ。
突き詰めて言えば、「無分別」とは、「自然である事」に他ならない。

 人は、分別だけにしがみついて生きている訳にもいかない。
例えば、「策士、策に溺れる。」と、言うこともあるし、初めて訪れた国では、又、未知の領域では、分別のあり方、使い方も当然異なる。 未知へ踏み込めば、分別だけがバリアーとなってしまう。
又、「分別」を失って、ヒステリーを起こしたり、様々なトラブルや、事故、失敗も可能となってしまう。
それ故、「分別」が生きるも、死ぬも、破滅するも、「無分別」次第となる。

 丁度、柱時計の振り子のように、左右の両極に振れていて、正常。振り子は片方だけに振れるわけではない。

 「無分別智」と言う言葉は、仏教用語だが、前述の「無分別」を意味し、その意味は、「超分別」、或いは「英知」ともいえる。無分別は、自分のキャパシティーを大きく拡げ、分別を生かすのだ。
仏教では、対象を客体として認識したり、分析したりする「分別」、それを超えたスペース、「絶対智」、「真理」を把握する智慧となっている。

 「無分別」とは、サイレンスにある事、例え、工事現場のようにやかましい所にいても、無分別を意識できれば、内なるスペースはサイレンス(静寂)にある。
群集心理とは、外側の雑音に取り込まれ、無意識になることである。
そうなれば、人は、眠りこけて、無知といわれる状況に陥ってしまう。

 仏教には、「無学」と言う言葉がある。
「それは、窮め尽くせない程,沢山の事を学んでいる」、と言うことらしい。
未だ、有学の私にとっては、無学はまだまだといったところだろうか?
無とはすごい。
東洋の様々な教えをようやくすると、二つのポイントが有る。
一つは「無」であり、東洋の神秘といわれる、大本である。
そして、もう一つは、「きずき」と言う事になろうか。

 数学の面白さは、きちんと答えが出る事にある。
例え、割り切れなうとも、余りがキチンと出る。
一方、生の面白さは、妙であって、神秘である事にある。
何故なら、「生」とは、生きているからである。
数学は、ものの次元では、役に立つ。だが、「生」に関しては、数学のものさしは通用しない。

 例えば、「愛」、生のエッセンスである。
生は、あらゆる理論を越えている。
例えば、「愛」は与えて減るものではないと思うが、いかがだろうか?
与えて、減るのなら、それは、愛ではない。

 生は、無分別のとき、現れる。バラナシやヒマラヤが人気があるのは、よく見えるようになるからだ。
お金は、使えば、使っただけ、必ず減る。
それは数学の法則。

 両方楽しめれば、言う事はない。
Play it by ears!  
臨機応変に、生きてみよう。