野生の動物たちは、下を見て歩かない。足が四本あるから、めったに転ぶ事もない。サヴァンナで、カモシカやヌーを追いかける、豹やチーターも、真っ直ぐ前を見て走る。テレビや映画で、誰しも見た事がある筈だ。
サヴァンナは、陸上競技場や、競馬場とは違う。ゴルフ場でもない。起伏は激しく、草は、人間の背丈程、或いはそれ以上に伸びている。様々な障害物があるだろう。にも拘らず、追うほうも.追われるほうも、実に美しく走る。 全身全霊で走る。だから美しい。見事としか言いようが無い。
アニマルと言う言葉は、素晴らしい。ラテン語の[アニマ(生命、霊魂)」から来ている。「生きている」と言う意味だ。
「生きているものは、アニマルだ」
私も、アニマルだ。野生のアニマルは、私たち以上に、自然の物事を知っている。その事を、人は知っているんだろうか?
人は、二本足で立って、手を使える事から、文明を築き上げてきた。そのせいか、人が歩いている姿を見ると、多くの人はしたを向いて歩いている。転ばないように、注意しているんだろうか? それとも、何か考え事をして歩いているんだろうか? 進化や変化の過程で、人は得たものも大きいが、失ったものも大きいのではないだろうか?
自分の体の仕組みや成り立ちを弁え、その働きを知る。内観する。しかも、自分が自分である事を忘れたとき、その人は、最もその人らしくなる、と言われる。自分を知り、自分の本性を認める事は、難しい。なぜなら、エゴをはじめとする様々な物事が、バリアとなっているからだ。その上で、生きる事が出来れば、この世は、素晴らしい。この事が、はっきりと飲み込めれば、自ずと、心の働きも、狂いを生じ得ない。
私たちの多くは、過去の記憶と未来への期待という、時間の中に生きている。だが、ほんの一瞬、時間のない「今」と言う、時間のない、時を越えた次元に触れる事がある。そこには、予想や、思いとは、無縁の、思いがけない次元に出会う事がある。それは、まさに、思いがけない、驚きの世界、である。ほんの僅かの人々の「きずき」が、野心、力、競争に明け暮れている時間とエゴ、マインドの世界を離脱して、新たな次元への扉を開き始め、その事に、人々もきずき始めている。
自由は、自覚(アウェアネス)の副産物だ。自由とは、人生のひとつのゴールでもあり、又、始まりでもある。自由がなければ、「生」は意味を失う。自由とは、政治でも、社会的でも、経済でもない。自分勝手に、ただやりたい事をやるのでもない。
自由とは、マインドからの自由、自分からの自由、バリアがなくなったとき、新鮮な見え方、感じ方が、新しさの源となる。人は、地に足をつけたまま、宇宙とひとつになる。
真実は、解き放つ。
自由とは、自由になってしまえば、ごく当たり前のこと。そこでは、言語は必要ない。すべてが解るからだ。
2006年3月16日木曜日
「今」は、いつでも新しい。(Nowness, is always new.}
時刻: 15:08